第五十八話『使徒』
「ぁ゛ぁ、ぁあ――ぅあ、グ!?」
アーリシアが咆哮をあげながら、その姿を変貌させていく。
周囲を纏う蒼色の魔力が音を立てながら具現化し、彼女へと纏わりついていった。それは一見すれば、魔力の外殻を造り上げているかのよう。
目元を覆い隠す鉄の兜。優雅に着こなしていたはずのドレスは剥がれ落ち、神聖さを表すかの如く色の薄い蒼の修道服に変じる。何より特徴的なのは、その背に生えた翼だ。天からの『裁定者』でも気取るつもりだろうか。
「あれが、魔女化事象――?」
呻きをあげ、咆哮するアーリシアを前にしながら、ヴァレットが言う。口ぶりには動揺と、焦燥が混じっている。
魔女化事象。
アテルドミナは、一度魔女の侵略を受けその支配下となった世界だ。
未だ魔女の影響は拭えず、彼らが蔓延させた魔力は各地に残存し、アビリティという形で人々に活用されている。
それだけなればまだ良かったのだが。問題は必要以上に魔女に浸食されてしまう者がいる事だ。
アラクネの女王のように、魔女の残滓たる魔力を取り込みすぎた者ら。
魔性が従来より魔を取り込み過ぎただけならば、それは『使い魔』と呼ばれる。要はただ強力なだけの魔性と言い換えても良い。脅威ではあるが、対処できる範囲だ。
「……ヴァレット。君には悪いが、プラン変更だ。異郷旅団やアーリシアに与して、君の安全を買う予定だったんだが」
「当然でしょう。第一、そんなプラン、私は許した覚えはないわ。次は、私を満足させてくれるんでしょうね?」
残滓によって人類種から魔へと変じ、魔女の如く世に君臨せんとする彼ら。決して人類種と相いれる事なく、ただ暴力的に世を支配せんと目論む彼ら。
――人はそれを『使徒』と呼ぶ。
魔女に近い権能を用い、そうしてただ人類の敵であるもの。
アテルドミナにおいて、最も打倒すべき天敵。
「本事象をもって、アーリシアは『使徒』化したと判断する。よってこの場で、君とともに彼女を打倒する。協力してくれるか?」
「よろしい。最初からそう言っていればいいのよ」
ヴァレットが強く俺を掴み込んでくる。接続した魔力が円滑に循環し、彼女の全身をゆっくりと駆け抜けていった。魔導を使う準備を、彼女の身体が整えていく。
アーリシアの『使徒』化は俺の責任だ。彼女の意志と矜持の強さを見誤っていた。止める義務が俺にはあるし、その為には当初の考えに拘ってる場合ではない。
それに、よくよく痛感した。ヴァレットは幾ら俺が浅い考えを回そうと、それ以上の真似をしでかすのだ。それならば離れるより、近くで監視して置いた方が良い。
「アーリシア、様……ッ!?」
騎士バグリッシは、動揺に呻くように言った。彼からしてみれば、愛すべき主が変貌してしまったのだ。もはやそうは動けまい。
異郷旅団の二人はと言えば――。
「――こんなイベント見た事なかったんですけどぉ」
「言っただろ、ろくな事になりゃしねぇってよ」
即座に、武器を引いて動き出していた。ヘルミナの突剣とズシャータの脚刃。それぞれが銀色の軌道を残しながらアーリシアへと向けられる。
その一振りには全くの迷いがなく、明らかにアーリシアの殺害を目的としていた。
「お早い判断だなお二人とも。協力体制は続いてる認識でいいのかね」
「好きにしやがれ大魔導書。こっちはなぁ――」
ズシャータが苛立った声を響かせた。彼は跳躍した後に、空中でくるりと身体を反転させながら、落下する速度を伴ってアーリシアの頭蓋へと踵の刃を突き下ろす。
「――面倒な事になってむかついてんだよ!」
ズシャータが怒鳴り声をあげる。それもまた当然だった。
アーリシアの『使徒』化――こんなイベントは本来アテルドミナに用意されていない。何せ俺さえも知らないのだ。
そうして、『使徒』が人類の天敵であるというのは、ヘルミナやズシャータにとっても共通認識のはず。何故ならそもそも。
――ヴァレットは『使徒』となったがゆえに、人類を脅かす存在と成ったのだから。
経緯が全く異なるとはいえ、彼らは自らの間近で『使徒』を増やしてしまった。異郷旅団としても、流石にこの存在を見過ごす真似は出来ない。
「ヘルミナ」
ズシャータが落下させた踵は、間違いなくアーリシアの頭頂へと墜落した。常人ならば、間違いなく死に至るだけの破壊力。
だが。
「『使徒』化前に間に合わなかった――アビリティ使えや」
彼の一撃は、アーリシアの周辺を纏う魔力によって押し留められている。
それはある種の防護壁。『使徒』が持つ権能の一つだ。
彼女らは主人たる魔女同様、魔力を纏わない攻撃を受け付けない。だからこそ彼女らは大陸を支配し、だからこそ彼女らはアビリティを習得した人類に敗れた。
「はいはぁ~い。じゃあ、アーリシアさぁん。申し訳ないんですがぁ」
空中から飛び掛かったズシャータの影から忍び込むように、地上からヘルミナが疾駆した。
二人のコンビネーションは完璧で、それそのものが卓越した技術だ。人間は本来一人で完結する生き物ではなく、群れで完結する生き物である。そんな言葉を思い出していた。
「異郷旅団としても、見過ごせませんのでぇ。アビリティ発令ぃ――」
けれども。言ってしまえば、それは相手側も同じだ。
アーリシアも、ただ一人で生きて来たわけではない。
「――アーリシア様から離れいッ!」
「むむっ」
突剣に魔力を集中させたヘルミナの脇を穿つように、大剣が振るわれた。
流石の彼女も、態勢を崩したままアビリティは放てない。数歩の間合いを取って、下手人へと視線をやる。
「……異郷旅団は、我らと手を結んだはず。如何な理由があって、アーリシア様に手をあげる」
バグリッシが、アーリシアの前に立ちはだかった。眉間に皺をよせ、眼にははっきりとした強さが浮かんでいる。そこに浮かんでいるものは、曇りなく忠誠心。敵対する者は、躊躇なく殺害するだろう。
ある種の美しささえ感じる瞳だった。
多くの忠誠というものは、利益に従属するものだ。これほどまで明らかにアーリシアが変貌を遂げているというのに、尚も彼は忠誠を見せている。
それがどれほど得難いものか。アーリシアは気づいていなかったのだろうか。
「あのなぁ。俺らだって面倒はしたくねぇさ。異郷旅団は間違いなくリ=ヘクティアル家と協定を結んでる。だが、『使徒』が現われたってんなら話は別だ」
話に応じたのはズシャータだった。ヘルミナは眠気眼を瞬かせ、今にもバグリッシを突き殺さんばかりの態勢に入っている。ズシャータが口を開かなければ、バグリッシの命はもうなかったかもしれない。
「魔女の『使徒』が人類の天敵なんてのは分かり切った話じゃねぇか。異郷旅団は『使徒』を抱えた勢力に味方するほど悠長にやってねぇんだよ。――さっさとどけよ。でなきゃ火傷するぜ」
ズシャータもまた、穏健とは言いづらい様子で言葉を連ねる。
当然だった。今アーリシアは『使徒』化直後であり、未覚醒状態だ。物理的な攻撃は届かずとも、魔力を乗せた攻撃ならば即座に打撃を与えられる。
相手が本領を発揮する前の千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。
しかし。
「――黙れ裏切り者ども! どのような理由があろうと、アーリシア様に手をあげるならばこのバグリッシが相手をする!」
バグリッシにとって、それは己が主人を殺す理由にはならなかったようだ。
翼が生えようと、纏う魔力の質が変質していようと。アーリシアは彼の主人なのだ。バグリッシはアーリシアから異郷者二人を遠ざけるように間に入り、大剣を構えて見せる。
力量だけを見るなら、彼が異郷者に敵う道理はない。それは彼も理解しているはず。
「アーリシアも、家臣に恵まれたものね。私のと違って、勝手にいなくなったりしないし」
「引き合いに出さないでくれ。意地が悪いな」
「あら。貴方ほどじゃないわよ」
ヴァレットは両者の攻防に視線をやりながら、呼吸を整えた。魔力は完全に循環を終え、魔導の行使に問題はない。面倒なのは、バグリッシがどう足掻いても敵に回りそうな事。
そうして。
「……ああ、そうでしたか。なるほど。状況を理解しました。わたくしがここに遣わされたという事は、未だ、人間は正義と悪の違いも判別できないという事でしょう」
アーリシアの姿をしたそれが、口を開き始めた事だ。
彼女は流暢な口調で、それを話す。
「正義の魔女は、人間の勝手な判断を許容しません。人間とは常に誤り、常に不実を成すものです。汝らに許されるのはただ一つ」
声は間違いなくアーリシア。けれどもその言葉は、まるで別人のものだ。
それこそが『使徒』化。対象者は魔女の分身となり、その先鋒となって大陸を支配する。
「――伏して、裁きを待つ事のみ。裁かれなさい、罪深き人間よ」
鉄の裁定を下す裁判官のような口調で、それは言った。




