第五十七話『魔の本』
「――俺の主人は、ヴァレットだとも。君じゃあない。それとも、俺を扱って見せるか?」
面倒な事になったと、内心そう思っていた。
ヴァレットを生かすためにアーリシアやヘルミナの傍にいたはずが。いつの間にかこうして彼女らの敵に回っている。
俺はつくづく、流れに沿うのが下手らしい。
アテルドミナが世に出た時だって、俺の所為で周囲を色々と苦労させたものだ。
アーリシアが俺をじぃと見ながら言った。
「……わたくしでは、貴方を扱いきれないとでも言うつもりですか。貴方はヘクティアルの当主と契約を結ぶのでしょう。ならば次の主はわたくし以外にあり得ないはずです!」
「権利を持ってるのがヘクティアルの当主ってだけさ。適性が無い人間と契約は結べない」
アテルドミナにおける設定上も、そう記されている。
大魔導書グリフの適合者は、数百年に至り出現しなかった。ゆえに書庫の奥に封印され、人目に付く事さえ無い。
その封印を解き、自らの手で魔導を復活させたのがヴァレット=ヘクティアル。
この時代における俺の主人。
「随分な言葉ですわね。あくまで、わたくしに仕えるつもりはないと」
「ただの事実だよ。それにヴァレットを殺すつもりなら、悪いが敵対するしかない」
ちらりと、アーリシアの背後に控えるバグリッシ、そして異郷者の二人を見た。
バグリッシは今にも飛び掛からん勢いで大剣に手をかけているが、ヘルミナとズシャータは困惑した様子。
恐らくは、彼らが想定していた状況から大きくずれ込んでいるのだろう。それに、ヴァレットを殺さないと約束したのはヘルミナだ。そう易々と破るとは思えない。
ならば、今警戒すべきはアーリシアとバグリッシのみ。
「貴様……よくもアーリシア様に薄汚い口をッ!」
バグリッシは如何にして感情を抑え込んでいるのか。表情は憤怒に塗れているというのに、身体の動きは精密だ。大剣を引き抜くと、そのまま大上段に構える。
アーリシアへの忠誠心が、彼を突き動かしている。
「お待ちなさい、バグリッシ」
しかし、彼を押し留めたのも彼女への忠誠だ。
アーリシアが一声かけるだけで、バグリッシはぴたりと歩みを止める。
「アーリシア様」
「簡単な事です。わたくしが、彼を扱って見せれば良いのでしょう」
アーリシアはかつり、かつりと近づいてくる。咄嗟にヴァレット庇う位置に立ったが、アーリシアの瞳は俺しかみていなかった。
そこには、純粋すぎる感情が灯っているように思う。
自分の命よりも尊いものを持っている、貴族としての矜持。
その善悪は差し置いて、間違いなくある種の美しさを誇っていた。
「大魔導書グリフ。わたくしの手に収まりなさい。貴方の言う通り、わたくしに適性がないというのなら貴方を諦めると誓いましょう、彼女の命を奪う事もありません」
アーリシアは手の平を差し出しながら言う。
彼女の言葉は、もはや懇願に近かった。常に矜持と自信に満ちており、優雅ささえ感じさせる所作。それが今となっては、やや震えているように見える。
鉄の如き冷徹さが、今この一時だけは失われているように見えた。
「……適性が無ければ、俺もヴァレットも諦める。信じて良いわけだな」
「はい。リ=ヘクティアルの名に誓って」
家名に誓うのは、貴族にとって命を掛けるに等しい言葉だ。特にアーリシアのような人間にとっては、何よりも重いに違いない。
ならば、その言葉を信じても良いはずだ。
――いいや、違うな。
きっと俺は、アーリシアを信じてやりたかった。
彼女がどのような境遇で生き、どのような感情を今ここで抱いているか。何てのは製作者の俺さえ知り得ない。
しかし、俺達が生み出した人間である事に違いはないのだ。ならば、その言葉に少しくらいは耳を傾けてやりたかった。
「……良いだろう。アーリシア=リ=ヘクティアル。大魔導書グリフとして、君の適性を鑑定しよう」
「グリ、フ……!」
「少し待っててくれ、すぐ終わるさ」
ヴァレットの声を背中に聞きながら、アーリシアの手を取る。
そのまま外殻を解除し、大魔導書として彼女の手元に収まった。
「良いでしょう。鑑定とやらを、はじめ――ッ!」
そう言い始めた瞬間、アーリシアの表情が強張った。
俺の魔力が、アーリシアの内部へと侵入を始めたからだ。
大魔導書グリフは、常に契約者と魔力を接続し続ける事でその効力を発揮する。
というのも、本来人間の身体や魔力は魔導を扱うのに相応しいものではない。魔導とはその全てが、魔女の手によって造り上げられたものだからだ。幾らマニュアルを作成しても、そう簡単に扱えるものではない。
よって大魔導書の開発者は考えた。
――大魔導書そのものが、所有者の位を引き上げれば良い。
それが、今行われている魔力の浸食だ。
大魔導書は鑑定と同時に、その魔力を所有者に浸食させて適合を図る。
ヴァレットのような適合者であれば、ただその者の魔力を鑑定するのみ。
だが、適合者でなければ――。
「っ、ぁ゛ぅぐ、ぅ、ぅぁ、ァッ゛!?」
「アーリシア様!? ご無事ですか!」
アーリシアは頭髪を振り乱し、その場に両ひざをついて嗚咽を響かせる。
当然だった。魔力というものは、血管のように人間の全身を巡っている。
そこに浸食されるというのは、全身を脈動する血管に異物を無理やり押し込まれているようなものだ。
無論、こちらで抑制こそしているが。それでも想像を絶する痛みと不快感に苛まれる。
「……アーリシア。ここでやめとこう。魔女の遺産なんぞには手を出すべきじゃあない。そうだろう?」
アーリシアに声をかける。
魔力浸食を抑え込んでいる今でさえ、彼女は多大な不快感を覚えているはずだ。適合がないのは、即座に理解出来ただろう。
そう思って言った言葉は、しかしすぐにアーリシアに食い取られた。
「い、ぃえ……続けなさい。グリフ。まだ、わたくしは諦めたわけではありま、せん」
「お、おやめくださいアーリシア様! この奇怪な本は、貴女様を貶めようとしているだけです! どうかお離し下さい!」
バグリッシが膝をついてアーリシアに駆け寄り、忌々しそうに俺を睨みつける。
どんな形にしろ、彼女を止めてくれるのは有難い。
少なくとも、一度浸食を始めた魔力は、彼女が俺を手放すまで動きを止めてくれないからだ。早々に、彼女に諦めて貰う必要がある。
しかし。
「……わたくしは、リ=ヘクティアルの人間、として。いずれヘクティアルの、当主となる事を……宿命づけられてきました」
冗談だろう。
アーリシアは、恐ろしいほどに諦めを知らなかった。幾ら俺が抑制させているとはいえ、耐えがたい激痛が全身を襲っているだろうに。
「適合、などという、言葉で。わたくしが、捻じ曲がると思わぬ事、です……ッ!」
「っ!」
アーリシアの言葉は、間違いなく彼女の信念そのものだったのだろう。
一見すれば頑迷とさえも思える。しかして彼女の透き通るような意志の表明。
才能にも環境にも屈する事なく、立ち向かい続ける鉄の女。
だが、この時ばかりはその輝かしさを受け入れられない。
「アーリシアッ! 君の強さはよく分かった、だが駄目だ。これ以上長引かせると――ッ!」
取り返しがつかなくなる。そう言葉を続けたと同時だった。
どくりと、何かが唸る音がする。何かが脈動する音がする。
「ァ――」
アーリシアが、双眸を大きく見開いていた。
不意に、かつてヘルミナ達が夜襲を仕掛けて来た夜を思い出す。
――ですが、お気をつけくださいねぇ。貴女は誰でもない、その大魔導書によって破滅するんですから
ゲーム上は、魔導を扱えるようになるレアアイテムという扱いだが。本来、大魔導書グリフは所有者を破滅させる魔の本だ。一時の力とともに、所有者を破滅に導いていく。
そうして、適合がないものは――。
「手を離せ、アーリシアッ!」
――俺の声は、もう彼女に届いていなかった。
「ア――ぁ、ぁぁぁぁあ゛、あぁあ゛!?」
アーリシアの絶叫が響き渡る。誰もが動けなかった、誰もが意識を硬直させていた。
唯一、動いたのは。
「この、何をしてる、のよッ!」
我が主――ヴァレットが、殆ど倒れ込むようにアーリシアを押しのけ、その手元から俺を奪還する。
ヴァレットは再び床に崩れかけたが、足をふらつかせて留まった。
「がっ!? ……君、相変わらず無茶をするな。こんな時は頼りになるが」
「何時でも頼りになると言いなさいよ。それで、グリフ――」
ヴァレットは全く本調子ではない。全身に傷を負い、未だに呼吸を荒げたまま。
しかし、それでも未だ彼女が気丈に目元をつり上げたのは、眼前の光景が原因だ。
「――これは、どういう事かしら」
突き飛ばされたアーリシアは、絶叫をあげ続けながらも、その全身をゆっくりと立ち上がらせていく。
何時しかその全身を蒼色の魔力が覆っている。それはまるで彼女の感情を代弁するかのように荒れ狂っていた。
「……非常に不味い」
「見れば分かるわ。何が起こっているか聞かせて頂戴」
ご主人様の要求にお答えし、その手元に収まりながら言った。
この様子は間違いない。本来ならばアーリシアには起こらない。起こるはずのない事象。
「――魔女化事象だ」
ただ、事実だけを伝えるように、そう言った。




