第五十六話『裁定者の矜持』
二階に繋がる大階段が崩れ去った頃。当主謁見室では、全ての決着がつこうとしていた。
『懺悔の檻』によって、床に縫い付けられたヴァレット。対するアーリシアは、傷一つ負わないままその様子を見下ろしている。
「終わりです――ヴァレット。貴方ではわたくしに及びません」
彼女の手元にある細剣が、床に突き刺さった。もはや止めを刺すまでも無い。
『懺悔の檻』は、相手の罪の総量に応じて対象の動きを抑制する。それは四肢に限らず、内臓の動きに至るまで。
軽度の罪ならばただ自由が奪われるのみ。重度であるならば、身体の全ての機能を停止させる。
その場合訪れるのは、即ち死だ。罪の量に伴って、罪人は裁かれる。
青白く染まったヴァレットの顔つきは、彼女がすでに呼吸困難に陥っている事を示していた。
もう数分の間に、決着はつく。後は裁きに任せるままだ。アーリシアは細剣から手を離し、踵を返そうとした。
その瞬間だった。
「もう十分だろう。君らの勝負はこれで終わった」
ヴァレットとアーリシアの間に割り込むかのように、黒い影が揺蕩った。
それは人間的な声で話す、非人間的な存在であり。異形の姿を取った、人間のようでもあった。
彼は魔力で象った姿を人体に作り替え、跪くようにしてヴァレットに近寄る。
「無駄でしてよ、グリフ。貴方であろうと、わたくしの与えた裁きは揺るがす真似は出来ません」
アーリシアが紡ぐ言葉には、絶対の自信が含まれていた。
彼女が語る言葉は、それ即ち公理なのだ。
天から雷が落ちるのと同様に、罪に罰が与えられる。その裁きを覆す事は、誰にも不可能。
昨日までもそうであったように、今日もまたその当然が続いていく。
「そうでもないさ。大した話じゃあない」
しかし大魔導書を語る影は言い切った。
「『裁定者』が使うアビリティは、カルマ値に沿って対象に回避不能なペナルティを与える代物だ。とはいえ分類上は、少々仕様が特殊な魔法と言い切れる。魔法なら、俺の領分だよアーリシア」
グリフは、淡々とそう言い切る。アーリシアには彼が何を言っているのか、半分ほども理解出来ない。
ただ理解出来たのは、一つだけ。
彼が今、何事かをしでかして、自らの裁定を覆そうとしている事のみ。
「何をしようと、無駄で――ッ」
アーリシアが怒気を発しようとした瞬間、グリフが手の平を見せて押し留めた。彼はじぃとヴァレットを見ながら、その頬に指をかける。
異様な真剣さに、アーリシアは思わず呼気を呑んだ。
自らの裁定が覆される事などあり得ない。そう信仰さえしているのに。
グリフはまるで当然の事実を語るかのように言った。まるで頭の中身を羅列するかのように。
「……そうか、そうだったな。『裁定』に用いられるのは圧壊魔法。罪人が自らの罪に潰れるコンセプトだったか? 洒落た事をしてるな。それなら、少しばかり重力を取り払ってやれば良いわけだ。ヴァレット、もう少しだけ辛抱してくれよ」
言ってから、グリフは言葉を続ける。いいやそれは何時しか、詠唱へと変化していた。
「『実を言うと世界は』『逆さまに』『落ち続けている』――魔導展開『浮遊世界』」
瞬く間に起きたそれを、何と表現するべきであるのか。誰もその答えを持ち合わせていなかった。
本来であるならば、解除も反抗さえも困難なはずのアーリシアの裁き。
リ=ヘクティアル家が代々継承し、門外不出とした『裁定者』のアビリティ。罪深き者は決して救われる事なく、ただ奈落へと沈み込むだけの断罪。
これはもはや、アビリティの枠を超えた奇跡とさえ言えた。
だが、この大魔導書とやらは――。
「――ぁ、がっ!? げほっ!」
「焦るなヴァレット。深く呼吸をすればすぐに戻る」
当然のように、ヴァレットからその重みを取り除いて見せた。
まるでアーリシアのアビリティなど、公理でも奇跡でもなく、児戯に過ぎないとでも言わんばかり。
ここに至って、アーリシアは理解する。いいや、彼女の配下たる騎士バグリッシも同様だろう。
「ぐり、ふ……貴方、ねぇ。何を、見てばかりいた、わけ!?」
「おいおい、どう考えても俺が水を差しちゃいけない場面だっただろう。君の邪魔はしたくない」
「関係ない、でしょぅ、が」
ヴァレットに駆け寄り、抱き留めている様子は実に人間的だ。
だが、それでも。この大魔導書は、異形とさえ言える存在なのだ。アーリシアが造り上げた理さえ、指一本で変えてしまえるほどの魔の結晶。
アーリシアの双眸が、鉄のように固く染まった。
「……グリフ、手を離しなさい。そのような真似は許されません」
まるでそれは、鉄がそのまま意識を持ったかのような鋭さと冷たさ。
「理由が分からん。ヴァレットの命は助ける約束のはずだ。だから俺は君達に付き従った」
「契約の話は聞きました。しかし――貴方がわたくしの裁きを破るというのならば、話は別です」
アーリシアは再び細剣を手に取りながら、噛みつくように言う。
瞳には妄執とも咆哮とも言いかねる色が宿っていた。
「何故、領主は領主足りえるのか。貴方はご存じで? 罪人を裁く権利を持つからです。法を作り、法を運用し、法を壊す権利を持っているからです。リ=ヘクティアルは、その一事を忘れぬからこそ今の地位を築いている!」
アーリシアが激昂したように叫びをあげる。
傍に駆け付けようとしたバグリッシやヘルミナ、ズシャータ達が思わず足を止めた。どう考えても、普段の彼女ではない。鉄の如き冷たさで、裁きを下す人間ではなかった。
「その裁きが破られるのならば、統治者は統治者でなくなる。貴族が貴族たる証は消えて失われる! お分かりでして、グリフ」
アーリシアの細剣が、軽く傾いた。その切っ先が確かな殺意を求めている。
その激情は、ある意味当然とも言えるものだった。
『裁定者』は、リ=ヘクティアル家がその血脈とともに継承し続けて来た肩書。
貴族が一定のジョブを継承し続け、濃度を高め続けるのは珍しい事ではないが、『裁定者』は存在自体が希少だ。
その希少さとアビリティの絶対さは、リ=ヘクティアルの血筋に相応の価値を与えている。裁きこそが貴族の権利であるならば、『裁定者』なるジョブは貴族を象徴するものに他ならない。
裁きの否定は、貴族の存在そのものの否定だ。
なればこそ、アーリシアはグリフに向けて細剣を突きつけた。
「――ヴァレットはわたくしの裁きによって死を与えられました。貴方が曲げる事は許されません」
「――そうか。そういう発想になるわけか」
グリフは実に感心したように言った。場にそぐわない、惚けたような声だった。
「面白いな。設計したコンセプトとは全く別軸の解釈が現地では行われるわけだ。ただ希少なだけのものが特別になる。それとも、『裁定者』という呼び名が嵌り役だったのかね」
一人で言葉を練りながら、グリフはヴァレットを庇うように立ち上がる。その双眸は、間違いなくアーリシアを貫いていた。
「それで、どうする。俺をどうにかするのか。それともヴァレットをもう一度裁いてみる気か?」
「ええ。邪魔をするなら、貴方といえど容赦はしませんよ」
まだ息が荒いヴァレットは、膝をついたままグリフの後ろで庇われていた。
アーリシアは、その様子さえも気に食わない。
どう視点を切り取ってみても、アーリシアはヴァレットに勝利した。その点において、何ら疑う余地はない。
確かにヴァレットは勢力を起こし、自らに抗って見せただろう。この場にまで辿り着いたその一点を見ても、見事と言えるかもしれない。
――だが、最後にその刃は届かなかったのだ。
もしもヴァレットの器が確かであったなら、その刃は自身の首に届いたはず。この段に至って、アーリシアは器でもヴァレットを上回ったのだ。
「わたくしとヴァレット。どちらに仕えるべきかよく理解したはずではなくて?」
だというのに何故、彼はヴァレットに忠誠を誓い続けるのか。
その点が理解出来ない。どうしてそこまで無垢な忠義をともに出来るのか。利害でもって物事を断じるアーリシアには、決して理解の及ばない領域。
「勿論、理解しているとも」
グリフはアーリシアに近づきながら言った。
「俺の主人は、ヴァレットだとも。君じゃあない。それとも、俺を扱って見せるか?」
まるでそれこそが、決別の合図だとでもいうように。




