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第五十二話『天秤』

 アーリシアとヴァレットの対峙。先に仕掛けたのは、当然にヴァレットであった。


 護身用の銀剣をもって一歩を踏み出し、自らを見下すアーリシアへと相対する。まだ年若い獅子が、昏い情熱とともに牙を剥きだしにしていた。


 生きとし生ける者は、その生涯において必ず生存競争の荒波に晒される。


 どのような形であれ、必ずだ。勝者は肉を喰らい、敗者は泥を啜る自然の理。


 ヴァレットにおいて、それは今まさにこの時だった。


「――勇敢ですわね、ヴァレット」


 アーリシアにとっても、それは同じなのだろうか。


 若き獅子を迎えるのは、飛び上がらんとする鷲である。空高く飛揚した鷹は、獅子の首筋を食い破らんと細剣を手元で返す。


 彼女は側近の騎士を使わず、異郷者へ合図を出す事もない。ただ正面からヴァレットの熱を受け止める。


 ヴァレットの瞳が、ぐしゃりと歪んだ。

 

「貴方のそう言う所が、好きになれないわ」


 何処か欠落したものを見る瞳で、アーリシアを見た。


 思うのだ。自分とアーリシアはよく似ている。匂いも、執着も、感情も。分家とはいえ、同じ根から生み出されたもの同士。何処かで同じ血液が通っていると実感させる。


 だが。


 唯一、その生き様だけが違った。

 

「ふ、ん――ッ!」


 ヴァレットの銀剣が、殺意とともに真っすぐに突き出される。


 剣術だけで言うならば素人芸に毛が生えた程度のもの。感情の乗り方だけは優秀でも、技術という観点から見るなら稚拙の域を出ない。


 彼女が、貴族としての教育を殆ど受けていなかった証だ。


 反面、アーリシアは違う。


 細剣を見事な素振りで操り、ヴァレットの激情が乗った一撃を左右へと受け流す。


 鉄の接合音が幾度も響き渡り、その度にヴァレットとアーリシアの狭間で火花が散った。


 攻守は変わらない。ただアーリシアが、ヴァレットの一撃を受け止め続けているだけ。


 洗練されきっていない牙は、決して大空を舞う鷹には届かない。ならば後は、隙を見てその心臓を抉るのみ。


 一見は、そう見える。


 だが、何故か一向に決着がつかなかった。延々と、鉄と鉄が噛み合う音だけが響き合う。


 騎士も、異郷者も――そうして大魔導書さえも。彼女らの攻防に手を出そうとしなかった。眼前の光景が、彼女らの戦いであると理解しているからだ。


 誰もが全ての意識を消し去り、瞳だけに神経を注いでいる。

 

「貴方は直情的すぎますわ、ヴァレット。剣戟も、行動も、全てがです」


 銀剣の刃を受けきりながら、アーリシアが語る。


 眦は鋭く、言葉は鋭利。まさしく鉄の如き瞳が見開いていた。


「貴方は、尊き者の義務を理解しているのですか。上に立つ者が、上に立つ資格を持たない時。不幸になるのは配下と民なのですよ」


 アーリシアがヴァレットの刃を受け止めつつ、すぐさま切り返して一閃を放つ。


 瞬きの間さえなく、ヴァレットの目元から血が噴き出した。鮮血が、紅蓮の瞳に重なり合う。


「その自覚もなく、貴方はただ混乱を誘発するのみ。貴方のいる所から地上は乱れていく。その才覚は、人を治めるものではなく人を乱すもの。統治者として不適と理解なさい!」


 まるで言葉の一つ一つが、ヴァレットを天秤にかけるような言葉。


 その人物を、その才覚を、その生き様を推し量っている。


 さぁ、お前は生きるに値するものなのか?


 ヴァレットはアーリシアのその有様が気に入らなかった。血を垂れ流しながら、言葉を吐き出す。


「知らないわよ、そんなの。アーリシア。貴方そうやって、配下も民も推し量って生きてきたんでしょう。貴方がそんなだから、私なんかに付いてくる奴がいるのよ」


「言いますね」


「ええ、言うわ。幾らでもね」


 血を振り払い、それでいて尚笑みを浮かべるヴァレットの様子は貴族では無かった。


 優雅さはなく、泥臭さのみがある。


 けれど、どうしてであろう。大魔導書は、惹きつけられるようにその横顔を見ていた。


「そうやって、自分のお眼鏡にかなう人間だけを集めていれば楽でしょう。世界は美しく見えるでしょう。でもね、アーリシア。私が学んだことを教えてあげるわ。この世の中は、そうじゃない人間ばかりで出来てるのよ」


 ヴァレットは未だ失せぬ気力を奮い立たせ、銀刃を幾度も振るう。


 銀の半円が、数え切れぬほどに宙を跳ねた。アーリシアに跳ね返されれど、幾度も繰り返し、繰り返し。


「人間なんて大抵が、不出来で不埒で不幸なのよ! それでも彼らは生きている。貴方みたいな人間に、いなかった事にされてもねッ!」


 思えば、自分の周辺にいるのはそんな人間ばかりだったではないか。


 リザは故郷から遠くへと逃げ延び、外国人と小馬鹿にされながら雑用に従事していた。


 アニスとて、武芸者として諸国を回りながらも、決して恵まれた境遇にあったわけではない。


 ヘクティアル家の政争のため、領地ごと見捨てられる羽目になったエッカーも。


 そうして、アーリシアが自らの秤に置かなかった小貴族達も。全員がだ。


 だが、それでも彼女らは生きている。生き続けている。視界から消したところで、彼女らが消えてしまうわけではない。


「――だから、私はここにいるのよ。舐めないで欲しいわね、アーリシア=リ=ヘクティアル」


 そんな、不出来で不埒で不幸な人間とともに、ヴァレット=ヘクティアルは立っている。


 だからこそ彼女は、もはや引く真似などできないのだ。その執着の果てにあるのが一冊の本に過ぎないとしても、彼女の背には誰にも見向きされなかった者らが背負われている。


 確かに、ヴァレットは決して貴族らしくはなかった。優雅というよりも粗野に混じり、統治よりも動乱に馴染む。


 だが、だからこそ。


 彼女は人の上に君臨する。


「――よろしくてよ。わたくしと貴方は、決して相いれない。理解していました、承知していました」


 性質の根は同じ、しかして咲かした華はまるで別。とするならば、後に残るのはただ一つ。


 ただ決着をつけるのみ。


 アーリシアの魔力が、急速に高まり始めたのをヴァレットは感じた。


 細剣を起点に、爆発的な魔力が彼女の体内を循環している。それが何を意味し、何をしようとしているのか。誰にでも分かる。


「ッ!」


 ヴァレットは銀剣を振りかぶりつつ、もはや自らの身体を投げうつように前に出た。


 危険にもほどがある。自らの命そのものを打ち出すような振る舞い。


 当然だった。


 何故ならば、この場で座しても死ぬだけだからだ。


「アビリティ発令――」


 反応するように、アーリシアが詠唱を成す。


 瞬間、彼女自身が一つの歯車となった。


 アーリシア=リ=ヘクティアルという人間を脱し、アビリティを発令するための歯車へと。ただアビリティを形成するための道具へと。


 発令とは、即ち世界に刻まれたアビリティを『再現』するための儀式。


 その発令には、厳格な適性――ジョブの獲得が必要となる。


 リ=ヘクティアルが継承し続けるジョブは、『裁定者』。だからだろうか。アビリティ発令を告げる言葉は、他を裁き定める鉄の響きが伴っていた。


「――『懺悔の檻(ドゥシアーナ)』」


 アビリティが魔力を通して世界に顕現し、一つの現象と成る。


 アーリシアが告げた瞬間、ヴァレットの全身が異様なほどの重みに襲われた。血液が鉛となり、肉が銅となったかのよう。


 渾身の力で握っていたはずの銀剣が零れ落ち、膝はその場に崩れ落ちた。いいやすぐに、全身が床に突っ伏す。


 幾ら身体を起き上がらせようとしても、遥かな重みによってそれが成し得ない。


 何が起こっている。何をされている。そんな疑問を呈するはずの口も、動かなかった。


「――ッ!?」


「無理をする必要はありません。動けないでしょう。『懺悔の檻』は罪深きものを裁くのです」


 こつり、こつりとアーリシアは足を鳴らしながらヴァレットへと近づく。


 よほど自分の権能に信頼を置いているのだろう。一切の迷いなく、ヴァレットのすぐ傍にまで近づいてくる。


 そのまま、細剣がヴァレットの首筋へとつけられた。


 ひんやりとした、一切の温かみを失った鉄の感触がそこにある。


「このアビリティは罪無き者には無害。しかし残念ながら貴方は、罪を背負い過ぎたようですね」


 言って、じぃとアーリシアはヴァレットの顔を見つめる。徐々にその顔が、青くなり始めていた。


 全身を圧する重みが、呼吸さえもを抑制しているのだ。


 アーリシアはそっと細剣を、そのまま床に突き刺す。


 そうしてから言った。


「終わりです――ヴァレット。貴方ではわたくしに及びません」

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