第四話『誰も知らない彼女』
「……グリフ。どうあれ今日この時、私はヘクティアルの当主、そうよね」
「勿論、お嬢様。君がトップだ」
可能な限り感情を込めずに言った。
彼女が何を言おうとして、何を俺に聞こうとしているのか、理解していた。だからこそ、俺はただ事実を答えなければならない。
「そう……私に出来るかしら。当主なんて。さっき助かったのだって、貴方のお陰なのに」
『普段の』ヴァレットらしくない言葉だった。気丈であり、誇り高く気高い。聡明であり、周囲を毒物ばかりに囲まれても平然としていられる。
悪辣の体現者であり、世界を敵に回してなお高笑いで応じて見せる。
――それこそがゲームプレイヤーの知るヴァレット=ヘクティアルだろう。
しかしここにいる彼女は、指先と声を震わせていた。とうとう、精神が限界を迎えたのだ。
当然だった。彼女は一度、ここで死に瀕したのだ。通常の人間が許容できる域などとうに超えている。ここまで普段を保てたのが不思議だった。
吐き出すように、彼女が言った。
「ねぇ、グリフ……私、本当は臆病者なのよ。泣き虫で、一人じゃ何もできないの」
「知ってる」
母親に面と向かって罵倒された日、一度の愛情も注がれていなかった癖に、どれだけ彼女が悲しんだかは間近で見ていた。家中が敵ばかりで、幾度も枕を涙で濡らしたのも見ていたとも。
今もまた、彼女の瞳には大粒の涙が溜まっていた。
「……本当は、怖いのよ。慰めて欲しいし、助けて欲しいの。馬鹿にされたら、庇って欲しいわ」
「知ってるよ」
けれど、彼女にはそんな相手は誰もいなかった。父はもはや亡く、母親や親類でさえ彼女を庇わない。
彼女は次期当主に相応しい振る舞いだけを要求され、そこから外れれば笑いの種にされる毎日。しかも時には命を狙われる理不尽さ。
食べ物に少量の毒を混ぜられ、苦しみながら地面に臥せった時でさえ、彼女を助け起こす者は誰もいなかった。彼女が助かった時、喜びの言葉を捧げる者も。
与えられるものは何もなく、惨めで悲惨な言葉のみで構成される日々が、ヴァレットという少女の尊厳をどれだけ踏み躙ったかは想像もつかない。
「グリフ」
ヴァレットは俺にもう一度問いかけた。それは間違いなく、救いを求める手そのものだった。
「私……こ、このまま逃げてもいいのかしら。別に当主になんてならず、逃げてしまっても」
これこそが、全ての外郭を取り払ったヴァレット=ヘクティアルという少女だと俺は知る。
ゲームプレイヤーは誰も知らない。いいや俺だって知らなかった。彼女はキャラクターなどではなく、ただ一人の純真な少女に過ぎない。
周囲がよってたかって、彼女に役割を押し付けただけさ。
では、俺は彼女にどんな言葉を与えるべきだろうか。
「勿論。君が望むならそれで良い。案外、人間は自由だ。どんな風にでも生きていける」
「そう、よね。それに、貴方も、ついてきてくれるでしょう?」
「そりゃそうだろう。俺は君の持ち物だからな」
ヴァレットは花開くような笑みを浮かべて見せる。ここ数年、見た事すらない素の笑顔だ。
実際、その点に異論はなかった。俺は少しばかり、ヴァレットと長く過ごし過ぎた。
間違いなく、他の連中より彼女の幸せを願っている。
けれど、言わなければならない事もある。
「だが、ヴァレット。悪いが、こうして会話できる時間はそう長くないと思ってくれ」
「え……?」
本当に、呆気にとられたというような顔で、ヴァレットは口を開く。
「ど、どうして。話してくれれば良いじゃない。別に構わないわ、貴方が男だろうが、人間だろうが!」
「違う、そういう話じゃない。忘れたのか、俺がこうして会話できるのは契約者だけ。――そうして俺の契約者になれるのは、ヘクティアル家の当主だけだ」
「あ……」
契約条件――これは俺さえも書き換えられない、大魔導書グリフの絶対条件。三大霊性が各々抱える、束縛条項だ。ゲームバランスを崩すほどの存在だからこそ、必ず契約に一定の条件が与えられる。
だから、俺は五年間も彼女とともにありながら、一言の言葉も交わせなかった。今日この日まで、殆ど手を貸す事が出来なかった。
もしも彼女がこの場で逃走を選び、何処か遠くの地で平穏に過ごすのならば、彼女は契約者ではなくなる。
そうなれば、俺と彼女の関係は以前と同じに戻る。人と、ただの魔導書の健全な関係だ。
ヴァレットは俺を胸元に抱きかかえ、強く抱きしめるようにして言った。
「……その、それは。どうにもならないの?」
「どうにもならない」
「どうしてよ。どうして、上手くいかないのよ。どうして、都合よくいってくれないわけ……!」
彼女の表情は見えないが、涙が俺の表紙に零れているのは分かった。
その言葉には世界の理不尽さへの嘆きであり、途方もない憤慨だった。まるで我儘な子供のように、彼女は涙を零しながら言った。
「私は……どうすればいいのよ、グリフ」
俺は、この場でどう答える事も出来た。
弱り切った彼女は、俺の言葉に従うだろう。俺が望めばゲームと同様に悪辣に、そうと望まなければ魂が抜けたように田舎で平穏に暮らす事も出来ただろう。
俺は、ただ言うべきを言った。
「ヴァレット。俺は君に誰よりも幸せになって欲しい」
「……何よ、幸せって」
「違う。誰よりも幸せに、だ。軽くないぞこいつは」
抱きしめられたまま、言葉を続ける。
「君が受けた苦しみと不条理は、ただ穏やかな生活を送るだけで賄えるようなものじゃない。君はこの世の誰よりも幸せになって、君を嗤った全員を見返して、笑顔のまま死んでいくんだ。それ以外のシナリオなんて、俺は認めたくない」
心からの本心だった。
他の製作者連中が彼女にどんな役割を期待していたか、どんな役割を宛がっていたかはよく知っている。
悪役として生まれ、悪役として生きる事を強要され、誰からも憎悪され敵意を向けられるための生涯。
だから不幸のままに死んでゆけ、というわけだ。
ふざけている。
他の異郷者どもが何を望もうが、もう俺の知った所ではない。俺が望むのは彼女の幸福であり、それ以外ではないからだ。
――これが何と呼ぶべき感情なのかは、今一分からないが。
「ふ――ふふ。何よそれ。貴方、自分勝手すぎない?」
呆れたように言いながらも、ヴァレットは驚くほど綺麗な笑みを浮かべていた。窓から差し込む月光が、彼女の頬を讃えるように輝かせている。
そこにあったのは、先ほどまで命を狙われ、血みどろになっていたとは思えない笑みだった。
「そう。貴方は私に幸せになって欲しいわけ。仕方ない人ね、今まで口もきかなかった癖に」
「きけなかったんだよ。人聞きの悪い事を言わないでくれ」
「いいえ。貴方はまだまだ、私に借りがあるはずよ。私に寂しい想いをさせたこと、私の肌をみたこと、私の涙をみたこと」
よくもまぁ指折り数えられるものだ。すっかり何時もの様子に戻ってやがる。先ほどまでのしおらしい様子は、俺を丸め込むための演技だったんじゃないかと疑いたくなるほどだ。
しかし、まさかそれを口に出すわけにもいかない。本当に泣きだされてしまうかもしれないからな。
「よってグリフ。貴方は私に多くの借りを返さなきゃいけない義務を負っているわ。しっかりと私を助け、私を褒めたたえ、その罪を贖いなさい。さっき私が呑み込んだ分、貴方が呑み込む番よ」
「……そいつはいいが、詰まりそれは」
そういう事か。俺が問い返す前に、ヴァレットは輝かしい笑みを浮かべて言った。
「ええ。正式に貰いに行きましょう。ヘクティアル家、当主の席を」