第四十七話『帰還の鐘』
ヴァレットが行った二つの動き。正面から渡河を行い、堂々たる進軍を目指す本軍。北上した上で渡河し、側面を襲撃せんとする遊軍。
アーリシアはこの二軍に対する方針を早々に定めた。
――自軍は防衛拠点を固めたまま本軍を迎撃。遊軍に対しては、手元の騎士五十騎を投入し撹乱する。
但し、腹心たるバグリッシと歩兵百名は本邸の護衛として残した。
加えるなら、異郷者たるヘルミナ、ズシャータ、メロンの三名も本邸に残る。護衛戦力としては過剰なほどだった。
本来はヴァレットを奥地まで引き込み、疲弊した所を本邸の戦力も用いて叩く予定だったのだろうが。
しかし、あろうことかヴァレットは自軍の戦力を分割したのだ。原則として、分割した軍は弱体化する。各個撃破するには最高の頃合いだった。
通常なら、そう判断するしかない。アーリシアは指揮官として、感情に揺れる事なく正しい判断をくだした。
「グリフ。貴方はわたくしの傍で仕えなさい。これから、本邸の防備をより厳重にします」
けれどアーリシアは、それでも尚不十分だと言うように、次々に配下へ指示を出し始めた。
異郷旅団の面々を本邸内に控えさせ、不測の事態への対応を可能とする態勢へ。百名の歩兵は本邸宅周辺の防備を固めさせ、簡易の陣地をも作らせている。
まるで、今からここが戦場になると予期しているかのよう。
「……アーリシア様。進言をお許しくださいますか」
「許します、バグリッシ。好きになさい」
報告が入った後、アーリシアはほぼ一日中忙しなく動き続けた。
今はようやく一段落がつき、本邸内の当主室で囁かな休息を取っている。
アーリシアが片手に持つグラスには果実酒が注がれ、彼女は一息にそれを飲み干した。それからゆっくりと傍らのバグリッシへ視線をやる。
「アーリシア様の護衛であれば、このバグリッシが必ず勤め上げて見せます。何故、このような不審な者を傍らにおかれるのです」
バグリッシはすでに全身を鎧で固め、腰には大剣と複数の武器を提げている。
機動戦と防衛戦のプロフェッショナルたる『騎士』。馬に乗ればその速度と共に敵を粉砕し、防衛に回れば堅牢な鎧で陣を固めて見せる。
護衛としてはこれ以上ない人材だ。手元の騎士を全て吐き出しても、バグリッシのみを手元に置いた理由が分かる。
そうして、彼が俺を忌々しそうに見つめる理由も。
部屋にいるのはアーリシアとバグリッシ、そうして俺の三名。
屋敷中に兵を備えているとはいえ、俺みたいな輩を傍らに置く理由は欠片もないはずだった。
「彼こそがヴァレットが求めるものであり、彼女の切り札だからです」
しかしバグリッシの疑念を、アーリシアは鉄の如き冷たさで切り落とす。
彼女は正しいと自ら断じたものを、決して曲げはしない。その意志が言葉にも滲んでいる。
「ヴァレットは軍を二つに分けました。それだけを見れば、賭けに出たとも言えるでしょう」
戦力の分割が招くものは大勝か大敗。その観点で見るならば、間違いなく賭けの類だ。
しかし、とアーリシアは言葉を継ぐ。
「彼女の賭けにしては、順当すぎます」
「順当すぎる、というと?」
今度は俺が言葉を出していた。アーリシアがヴァレットにどんな評価をくだしているのか、もう少し聞いてみたかった。
「おや、貴方も同じ評価だと思っていましたよグリフ」
アーリシアは少し面白そうに笑みを浮かべてから続けた。
「――ヴァレット=ヘクティアルという人間は、欠片も順当な所がない人間です。叔母様の手から生き残ったのもそう、アラクネの女王の討伐にしてもそう。彼女は勝利の目を出すために一切の手順を放棄して、予想もつかない行動を取る」
その考えに基づくと、今回の軍の動かし方は順当すぎる。そう、アーリシアは続けた。
まるでヴァレットらしくないのだと。
びくりと、動揺に心臓が跳ねそうになる。
「彼女ならば、単独で本邸に乗り込んでくるぐらいの事はするものだと思っていました」
「そんな真似は……狂気の沙汰にすぎません」
「ええ。狂気です。ですがそれがヴァレットの本質でしょう」
アーリシアはじぃと俺を見ながら言った。
まるで貴方は知っているのではなくて、と確認でもするように。
「……悪いが、今回ばかりは俺も何も知らないぜ。ヴァレットなら来るかもしれないが、来ないかもしれない」
「いいえグリフ、貴方は来ると思っているでしょう。だから、わたくしに騎兵を吐き出すよう仕向けた」
アーリシアの鋭く冷たい瞳が、笑みを浮かべながら俺を見ていた。
奇妙な表情だった。彼女はやはり、何処かこの状況を楽しんでいる。
くすくすと、小さく綺麗な唇が動く。
「愛しの主人がここに来る。だからこその発言、そう理解しましたが?」
「……だが、君はそれが分かった上で承諾した」
俺が言葉を発する度、バグリッシから明確な敵意が漲る。
当然だった。どの言葉をとっても、俺はヴァレットに有利になるように動くと宣言しているも同じ。この場で彼が大剣を振り回さないのは、アーリシアが留めているからに過ぎない。
「ええ。戦場における正しい判断を下したつもりです。わたくしはその正しさを曲げる必要を感じません。もしも、本当にヴァレットがここに来るというのなら」
アーリシアは自らの手でグラスに果実酒を注ぐ。渋みが強いものだが、彼女の好みなのかもしれない。
「――正面からわたくしが勝利します。それでこそ、貴方も主人を替えられるというものでしょう、グリフ?」
先ほどまで楽し気だった瞳が、猛獣のように光り輝く。
これこそが、彼女の恐ろしい所だった。傲慢ではなく、純然たる自信。たとえ盤面が対等であったとしても勝利してみせるという自負。
アーリシアとヴァレットの明確な違いはここだ。
今までアーリシアは勝利し続ける事で生き残って来た。いいや、そうしなければ生き残れなかったと言い変えようか。
ゆえに彼女にとって生存とは勝利と同義。常に自分の勝利を確信し続ける彼女の生き方は、まさしく王者の在り方だろう。
これだけの才覚を持つ人間を、本当に俺は上手く誘導出来たのだろうか。自信は全くない。彼女の掌で転がされている気さえする。
動揺を誤魔化すべく、両肩を竦めるような動きを見せてから言った。
「俺は君にそこまで執着されるほどのモノじゃあない。探せば幾らでもあるさ」
実際、大魔導書なんて大仰な名前を与えられてこそいるが、俺自身がアーリシアに必須なアイテムというわけではない。
彼女がヘクティアル家当主となり、大陸に覇を唱えたいのであれば、むしろ俺みたいな存在は邪魔になる可能性の方が高かった。
何せを俺を保有するという事は、メリットばかりではない。相応のデメリットがあるのだ。
「……今の内に吠えておきなさい。わたくしから逃げられると思わない事です」
しかし、アーリシアは俺の言葉を意に介さなかった。
自分の中に鉄の掟があり、その掟を遵守する事に欠片の疑いさえ持たない。
自分という存在は、自分自身よりも尊いものの為にある。アーリシア=リ=ヘクティアルは眩しいほどに貴族だった。
「バグリッシ。貴方も理解しておきなさい。ヴァレットは必ずここに到達し、わたくしの首を獲ろうとするでしょう。それこそが、彼女の最大の勝利なのですから」
「……はっ。命に代えてもお守りいたします」
アーリシアの言葉に、バグリッシは深々と頭を下げた。それもまた、まさしく騎士の礼であり、二人の主従は美しくさえ見える。
だがどういうわけだろう。この二人は致命的な所で食い違いをしているかのような、そんな所があった。
無論、それは俺如きが口を出せる事じゃあない。
二人の間に交わされた約束は、たとえ数多のほつれがあったとして、両者にしか繕えないものなのだ。
俺とヴァレットにしろ、それは同じ。
彼女との契約の果ては、俺と彼女にしか分からない。
手元では、契約によって繋がった魔力がどんどんと脈動を速くしていくのを実感していた。
彼女が間違いなくここに近づいてきているのだと、告げている。
「ああ――来ますね」
その宣告をしたのは、アーリシアであった。彼女もまた、何かを感じたのだろうか。
まるでその言葉に連動するかのように、警戒態勢を告げる鐘が本邸に鳴り響いた。
――まさしくそれは帰還の鐘。本邸の主人が。ヘクティアルの領主が、帰ったのだ。
数時間後には、全てが終わる。




