第四十六話『ルート選択』
ヴァレットが動いた。
ルージャン司教の情報と、やや遅れて到着した伝令からの情報を統合するとその動きは大きく二つ。
一つは、川越しに対陣するアーリシア陣営への進軍。
もう一つは、大きく迂回するように北上し、渡河するための橋を目指す動き。
本軍で正面から圧力をかけ注意を引きながらも、迂回させた遊軍で側面を突く戦術に見える。
「波紋石の位置は本軍を示しております。間違いなく、反逆者ヴァレットもそこに位置しているものかと」
ルージャンはやや誇らしげに口にする。
自分の策こそが、今この時に値千金の情報になっているとそう言いたいのだ。
「……こちらの部隊は、ヴァレットの姿を確認しているのですか?」
アーリシアが注意深く、地図を見ながら口にする。
彼女は他人から与えられた情報を鵜呑みにしない所がある。
それは領主として、指揮官として必要な才覚なのだろう。
「はっ。幾つか目撃情報はございますが、どれもが本軍での存在を確認しております」
議場では常に控えるようにしていたバグリッシが、やや硬い声で伝える。
戦場においては物理的な伝令兵のやり取りだけではなく、アビリティによる情報連絡も都度行われるのが常識。
全ての情報を重ね合わせるに、ヴァレットはほぼ間違いなく渡河作戦を開始している。
「如何でしょう、アーリシア様。今こそ我らも兵力を投入し、遊撃部隊を叩けば優位に立てます」
バグリッシはアーリシアの表情を見ながら、言葉を選んで言う。
今本邸にいるアーリシアの兵力はご自慢の騎士が五十騎、付き従う歩兵が百程度。リ=ヘクティアル家の本隊から選別された精鋭たちだ。
仮に騎士五十騎だけでも、ヴァレットからすれば脅威。アビリティ持ちの騎士が数を揃えて襲い掛かるのは、有象無象の兵からすれば恐怖以外の何物でもない。
騎兵の機動力なら、今から動いても遊撃部隊の側面を突ける可能性は大いにある。部隊を二つに分けたヴァレットの戦術は、それだけで半壊しかねなかった。
「どうぞ、ご命令ください。今すぐにでも出立いたしましょう!」
バグリッシの勇敢な声に、議場が引きずられていく。多くの声が響き渡った。
だが俺はそれらを聞きながら、全く違う思考を走らせていた。
今までのヴァレットの勝利は、どう考えても『異貌の外衣』を利用したものだ。
アラクネの女王を討伐した際に置いてきた魔女の遺産。上手く使ってくれればと思っていたが、こんな形で使われる事になるとは。
人間同士の戦いであれば、魔女の力が一つあるだけで戦局は大きく傾く。
ヴァレットが本気で勝利を掴み取ろうとしているのであれば、今回も同様に異貌の外衣を使用しているはず。
その仮定に基づくと、疑問が残った。
――部隊は本当に二つだけか?
異貌の外衣を使用を考えるなら、本命の部隊がもう一つあるのでは。いいや、あってしかるべきだ。
ならば正面を進む本軍も、迂回する遊軍も全て見せ札。
ヴァレットはそのために敢えて軍を二つに分け、こちらの動きを制限しようとしている。
気づいた瞬間、背筋を冷たいものが駆けあがって来る。ありとあらゆる情報が、俺の思考を急速に冷却させていく。
もしかすると、ヴァレットは――。
「グリフ」
名前を呼ばれて、咄嗟にアーリシアの顔を見る。その表情には、何処か厳めしいものが宿っていた。
「貴方の立場から、答えなさい。この局面、どう判断していますか?」
「……つくづく、答え辛い事を聞くな君は」
外殻を椅子に座らせたまま、目を閉じる。
数秒、じっくりと言葉を練った。俺の求める所は、ヴァレットとアーリシア、どちらの圧倒的な勝利でもない。彼女らが二人とも生存するルートだ。
その為には何をすれば良い。ヴァレットの行動とアーリシアの思考。両方を天秤にかけて、答えた。
「――今すぐに、全騎兵を投入すべきだろう。兵力は遊ばせるより使う方が良い」
◇◆◇◆
脚の重みが極限まで達している。指先には細かな傷が出来て、汗がしみる。
ただ歩くだけが、これほどまでに苦痛になるのか。兵とは大変だ。
今更そんな基本を理解した自分自身に、ヴァレットは呆れた。
「ヴァレット殿。悪いがペースは落とせんぞ。遅れれば遅れる程、奇襲はその価値を失う」
「ええ。遠慮は不要よ。止まりそうになったら引っ叩いてでも連れて行って頂戴」
「うむ。そうする」
森林を先導してくれるアニスの言葉に、ヴァレットは奇妙な信頼感を持っていた。
彼女ならば、本当にそうするだろう。相手が貴族だろうが何だろうが、遠慮というものを知らない。
だが、この関係性がヴァレットには心地よかった。これぐらいの勢いで突き進んでくれる相手がいるからこそ、無謀の策も選べるというもの。
森林を進むのはアニスとヴァレット、そうして彼女らに付き従う五十の選抜兵。
正面から渡河を行う本軍。迂回を試みる遊軍。そうして夜半に少数で渡河をすませてしまったこの第三軍。
今の所は全て、リザの考えに乗った形で軍勢は動いている。
――オジョーサマ。リザに、考えがございますです。
リザの提案は明確だった。
アーリシア陣営は波紋石の反応をもってヴァレットの位置を図っている。彼女らは必ず、ヴァレットがいる位置に勝負の焦点をあててくるはずだ。
勝利を得るには、その焦点をずらすのが最も良い。
そうして出方を伺う、というのがリザの考え。そこに乗る形でヴァレットが奇襲を宣言した。
「まさか。リザが自分だけは残るなんて言うとは思わなかったけど」
無論、戦場には多種多様なアビリティ持ちの斥候達が入り込んでいる。
波紋石の反応が動いてもそこにヴァレットの姿がなければ、彼らは当然に怪しみだすだろう。
そのために、リザはバイコーンとともに本軍に残った。異貌の外衣を被り、ヴァレットの姿を取りながら。
ここまですれば、全ての伝令は間違いなく伝えてくれるはず。ヴァレットは本軍におり、遊軍との連携で渡河を目指していると。
「リザ殿の犠牲を無駄には出来ん。必ずや奇襲作戦を成功させる」
「……いや別に犠牲になってないけどね?」
不吉な事を言うアニスを制しながら、ヴァレットはまた一歩ぬかるむ土を踏みつける。
本軍と遊撃は全て陽動。アニスとヴァレット、そうして五十の兵をもって、ヘクティアルの本邸を奇襲する。
本邸にいるヘクティアル本家の兵たちは、ヴァレットとアーリシアの対立には介入しない。もし介入するならば、とっくの昔にアーリシアが使用しているはずだ。
ならば今本邸の敵勢力は、アーリシアが引き連れて来た兵力のみ。アニスの武力と五十の兵であれば、十分に制圧できる。
何よりあそこには――グリフがいるのだ。
それだけで、ヴァレットには奇襲作成を取る何よりの理由になった。そのために、再びあの邸宅に帰還しよう。
忌まわしい過去が詰まった、あの邸宅に。
不意にヴァレットの表情に笑みが浮かんだ。決して余裕を示すものではない。
ただ思ったのだ。
――今まで自分は不幸だと、そう考えていた。
実母から迫害され、命を狙われ。その地位さえも奪い取られようとしていた。幾ら泣き叫ぼうと、嘆きの言葉を漏らそうと、助けてくれる者はいない。
世界はどうして、自分をこんな境遇に陥れるのかと恨みさえした。
「ふふ」
過去の自分を瞳の中に映しながら、ヴァレットは口中だけで言葉にする。
――くだらない。ヴァレット=ヘクティアル。貴方はただ無様に不幸の主人になろうとしているだけじゃない。
報われる他者がいる中で、自分は努力すれど報われない。
自分の成果は失われ、みっともなく泥の中を這う。
他人には見向きもされず、ただ幸運な人間だけが貴ばれる。
それが世界の常識。世界は理不尽を賞賛するのだ。生まれも、才覚も、性別も、時代も。驚愕すべき事に、全て理不尽に偏在する。
その常識に対し大仰ぶって嘆こうと、世界は身じろぎ一つしない。
だから、諦めるべきなのだろうか。いっそ、世を呪ってみるべきだろうか。
「どちらも、馬鹿げているわね」
「……どうした、ヴァレット殿。大丈夫か」
「大丈夫よ。急ぎましょう、速度こそが奇襲の命なのでしょう」
ヴァレットは思う。必要なのは諦念でも、呪言でもない。
――世界への復讐だ。こんな理不尽な世界へ、復讐を企てる他に生きる甲斐はない。
かつて、アテルドミナと呼ばれた世界のヴァレット=ヘクティアルも、そう心に抱いた。
不幸のままで良い。だが世界全てへ復讐を。自分自身を陥れた全てを、破滅の底へ叩き落としてやる。誰も彼もを不幸の底へ突き落してやる。
そう願った。それこそが、生涯を賭けた大望なのだと。
ゆえにこその、絶対悪。世界の敵にして、万物を睥睨する君。
ヴァレットは今、ここで再び心に誓う。
世界に復讐を。ありとあらゆる理不尽に復讐を。
必ずや、理不尽を蔓延させる世界に打ち勝ち、そうして――誰よりも、幸福になってみせる。いいやそれだけじゃない、自分に付き従う彼らを幸せにしてみせる。
ただ、ヴァレットは思い出していた。たった一人、最初から自分の味方であった者の言葉を。
――君はこの世の誰よりも幸せになって、君を嗤った全員を見返して、笑顔のまま死んでいくんだ。
そう語った癖に、自ら手元から離れていった彼。
本当に、何という自分勝手。
必ず追い詰めて、再びこの手元に取り戻してやる。そうなった時、彼は何と言い訳するのだろうか。
それが少しばかり、楽しみだった。
「行きましょう、アニス。ヘクティアルの本邸を奇襲し、アーリシアを討滅します」
心配そうに後ろを振り向くアニスに向け、ヴァレットは言った。
今ひとたび誓うように。ただここに、呪いではなく祝福を宣言するように。




