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第四十二話『反逆者の墜落』

 俺の知る限り、デジレ=ヘクティアルは才人ではない。


 ヴァレットのように狂乱を操る術を知らず、アーリシアのように鋼鉄の知を持つわけでもない。


 欲に溺れ、欲に人生をかき乱される凡人。普通に生きれば、普通の幸福があっただろう。


 彼女の不幸は、与えらえた幸運が膨大過ぎた事だ。


 ヘクティアル公爵家の正妻。凡庸に生まれ、凡庸に生きた者には耐えがたい地位。


 自分の想像を超える力を与えられた人間は、多くの場合正気を失う。


 見えないものが見え、聞こえないはずの声が聞こえるようになるのだ。


 即ち――これはまだ頂点ではない。自分には更なる幸運が訪れる。まだ、終わりではない。そんな囁き。


 受け止めきれない幸運は、何時しか不幸へと姿を変える。


「……アーリシア。君、何をする気だ?」


 場所はヘクティアルが別邸。ヴァレットが何年も幽閉されていた忌まわしい館。


 とはいえ、公爵家の所有物だけあって、決して粗末な作りではない。ロウス子爵領の館より、よっぽど金のかかった仕上がりになっている。


 その別邸を――今、アーリシアの騎士と私兵が取り囲んでいた。


 全員が武器を持ち、忠実に主人の命令を待っている。

 

 中にいるのはデジレ、即ちヘクティアルの前当主の妻だと誰もが理解しているはず。


 だが、兵に一切の動揺は見られない。よく訓練され、統率されている証だった。


「親愛なる叔母様に、姪が会いに来る。さして珍しい事ではありませんでしょう?」


 まるで戯れでも言うように、アーリシアが俺をじぃと見て言う。


 展開した魔力の外殻が、ぞくりと縮こまる思いがした。


 アーリシアの冗談は、単なる戯れではない。彼女の言葉には常に、秩序と思惑が埋め込まれている。


 これほど殺気立った兵を引き連れながら、こんな言葉を発する意味はおおよそ一つ。


 ――即座に暴走しかねない憤激を懸命に抑え込んでいるのだ。


「アーリシア様。使用人らの避難は終わらせました。何時でもお入り頂けます」


「よろしい。ここに至って、叔母様が自ら弁明に訪れられないのは意外でしたが」


 彼女の懐刀であるナトゥスが、恭しく頭を下げながら言った。


 彼の視線はちらりと俺を見たが、それは一秒にも満たない。主人が命じないのであれば、その範囲を逸脱した真似は起こさない。アーリシアに相応しい、機械のような男。


 反面、俺に敵意を剥きだしにするのは、髭の騎士バグリッシだ。


「吾輩が先陣を務めましょう。しかし、アーリシア様。このような場に不埒ものを連れるのは如何なものかと!」


 ぎろりと、忠犬の視線が俺へと噛みつく。


 御立派。忠臣の鑑だ。


 アーリシアは今にも猛り狂いそうなバグリッシをあっさりと躱して言う。


「貴方達がいながら、わたくしの身に危険が及ぶと?」


「そ、それは……。いえ、そのような事は決してございませんが……」


「では、よろしいではありませんの。不埒な者がいれど、いなかろうと。わたくしの身を守ってくださるのでしょう?」


「は、ははっ!」


 バグリッシはその場で背筋を伸ばして敬礼をしてみせる。


 一見突き放すようなアーリシアの言葉だが、バグリッシへの信頼の裏返しだろう。


 自身への忠実さを信じているからこそ、ある種の理不尽を含んだ命令さえも与えてしまえる。


 バグリッシもまたそれを理解している。ゆえに彼はもう一度俺を睨みつけたものの、すぐに踵を返して別邸の玄関へと向かった。


 がしゃり、がしゃりと。彼の身に着けた鎧が鳴る。配下の兵が彼に従った。


「――叔母様は、分不相応の行いを成されました」


 先ほどの会話を続けるように、アーリシアが俺に言う。


 その瞳はバグリッシの背を見つめていたが、何処か遠くを見つめているようでもある。


「人間、生きていれば分不相応な事柄に手を出さざるを得ない事もありましょう。自分の分を弁えるためにも、その限界を知る事は必要です」


 淡々と、アーリシアは言葉を重ねる。しかし彼女が言葉を重ねる度、その瞳の色が変質していく感触があった。


 より濃密に、より鋭く。


 視線の先で、バグリッシが大剣を引き抜いた。そうして、呼び出しのベルを鳴らすでもなく。


 ――大上段から振り下ろした大剣にて、扉を打ち砕く。


 木々が圧力に耐えかねて破裂していった。訓練を重ねた騎士にとって、扉の一つを打ち砕くことぐらい呼吸をするよりも容易い。


「吾輩に続き、突入せよッ! アーリシア様への忠を示せ!」


 バグリッシの号令に応じて、速やかに兵が別邸へと駆けていく。


 迷いのない洗練された動き。この様子では別邸を占拠するのにもさほどの時間はかかるまい。


 満足げにその様子を見たまま、アーリシアは言葉を続けた。


「一度ならば見逃しましょう。二度目もまた、愚鈍ではありますがため息で済ませます。しかし、三度目はたとえ身内であれど許されるものではありません」


「……その結果がこれか。暴力に頼るのは感心しないな」


「暴力に頼るのと、暴力を使うのは異なるのですよグリフ」


 言って、アーリシアはバグリッシらが切り開いた別邸へと颯爽と足を向ける。


 ナトゥスは主人が争乱の真っただ中に入り込むのを止めようとさえしない。よもや、日頃からこんな真似をしているのか彼女は。


「付いて来なさい、グリフ。さもなくば、彼女の命を助けるための取引はこの時点で破断です」


「……」


 不思議だ。


 どうして俺の周囲にいる奴は、皆性格がねじくれているんだ?


「行けば良いんだろう、行けば。デジレ相手に大人げない真似をするじゃないか」


「油断をしていないだけです。それに、言ったでしょう。機会は与えました。分不相応な行いをしたのは叔母様なのです」


 アーリシアは何でもないように言って、別邸内を踏みつける。


 居宅内を制圧したのだろう兵がアーリシアに敬礼を取りながら、即座に道を開いた。


 使用人を事前に退避させていた以上、兵の障害になるものがあろうはずがない。閉じられた扉があれば押し開く。鍵など打ち砕いてしまえば良い。


 時には強大な城壁さえもこじ開けようという彼らが、貴族の邸宅如きに手こずるわけがなかった。


「叔母様の過ちは三つ。自らヘクティアルの領主になろうとした事、その為にわたくしの目を盗んで天霊教へ働きかけた事――」


 階段を軽やかな足取りで昇る。遮るものはなく、向かうはただ裁きを持つ罪人の住処。


 足取りは早く、声にもどんどんと苛烈さがにじみ出る。全身を流れる血が、唸りをあげているようだった。


「――そうして此度、ヴァレットの如く自らも諸侯へ布告を行った事」


 思わず声を呑み込んだ。馬鹿げた、しかしデジレがやりそうな事だった。


 娘であるヴァレットが、諸侯に布告し自らの勢力を切り取りはじめている。だというのに、自分はアーリシアの管理下に置かれている事が許せなかったのだろう。


 何故なら――自分はもっと偉大であって良いはずだからだ。


 ヘクティアルの正妻となり、一度は掴み込んだ権力という蜜。忘れられるはずがない、手放せるわけがない。


 だからこそ、無謀と知りながらも声を上げ続ける。


 自分は、ここにいるのだと。


「こちらです、どうぞアーリシア様」


「御苦労」


 二階の最奥の部屋の前に、バグリッシが控えていた。その扉は完全に破壊され、主人の為の道は開かれている。

 

 彼女は――デジレ=ヘクティアルは、その部屋の更に奥にいた。


 巨大な天蓋のついたベッドの片隅で、肩を震わせながらアーリシアを睨みつける。


「あ、ア、アーリシアっ! お前! これは、これはどういうつもりだ!?」


 彼女がやったのだろう。部屋中には投げ飛ばされて砕けたワインの瓶や衣服がそこら中に転がっている。デジレは半狂乱になりながら続けた。


「これは、あたしに対する、いいやヘクティアル家に対する謀反だ! ただですむと思うなッ!」


 果たして、彼女は本気なのだろうか。


 今のヘクティアル本家に実権はない。その大部分をアーリシアに掌握され、だからこそヴァレットは勢力を形造り彼女と対立している。

 

「諸侯も、天霊教もあたしをヘクティアルの君主と認めているッ! こんな不義を働いて、生きていけると思うなよ!?」


 デジレの言葉は、どれもかれも彼女の世界でのみ生きている言葉だった。


 しかしその世界は現実へと接続していない。


「バグリッシ」


「はっ」


 アーリシアの一言で、忠臣は一本の細剣を取り出す。彼が使っていた大剣ではなく、アーリシアにも扱えるサイズだ。


 彼女はそれを受け取り、かつり、かつりと音を立てながらデジレに近づく。


「ひッ!?」


 その切っ先が、デジレの目の前に突きつけられた。


 死を間近に感じ、初めてこの世界を見つめたのだろうか。デジレの両瞳に浮かぶ色が、怒りから恐怖に変じていく。


「叔母様」


 アーリシアの瞳の質が、変わっていくように思われた。


 魔導書という身だからこそ分かる。


 これこそはアビリティ行使の準備に他ならない。


 魔力の流れが変わり、彼女の全身を貫く魔脈の巡りが即座に最高速度トップスピードまで引き上げられる。物理的な速度など、魔力の前では常に屈服するのだ。


 アーリシアは笑みを浮かべながら、言う。


「どうか――覚悟をお決めになってください。ヘクティアルの正妻に相応しい覚悟を」

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