第三十九話『狂乱の咆哮』
アラクネの女王が討伐されてから約半月後の事。
ただ一人の少女の咆哮が、ヘクティアル領全土に発された。
誰も止められなかったし、止める者もいなかった。それは要約するならば、次の通り。
――エッカー子爵を中心とした複数名の諸侯が、ヴァレット=ヘクティアルへの支持を表明。それとともに、私兵を領土内で大規模に移動開始。
狂気とも言える報告だった。誰もが耳を疑い、しかして次に不安に苛まれる。
果たしてこれは真実か。真実だとするならば、アーリシアへの反抗であるのは明らかだ。
戦争が始まる。ヘクティアル領内では長きにわたり保たれた平和が、崩されていく。
想定もしていない事態。だとすれば、自分はどちらにつくべきか。何が正しく、何が誤りか。
「――諸侯は、そう考え始める頃でしょう。今の内に、ありとあらゆる情報を与えなさい」
ロウス子爵領の邸宅を本拠とし、ヴァレットは矢継ぎ早に指示を出し始めていた。
挙兵というものは、性急さを求められるもの。エッカー子爵以外にも協力者が出来た今、休んでいる暇は欠片もない。
「即座に、書記官に書面を作らせましょう。内容はどのようなものに?」
「内容は重要じゃあないわ。今は誰もが情報を欲しがってる。与えられたものに飛びつくはずよ。アーリシアと私達、どちらに付くのが有利か分からせる内容であれば何でもいいわ」
「承知しました」
エッカーは遥か年下のヴァレットに驚くほど忠実だった。もはや互いが一蓮托生の身である。片方の破滅が、もう片方の破滅に繋がる。
更に言うならば、エッカーは間違いなく理解をしていたのだ。
ヴァレット=ヘクティアルという人間が、果たしてどのような才覚を持つものか。
民を心安らかに治める統治者ではなく。兵を率いて統括する将ではなく。ただ、諸侯の上に君臨する者。
才覚というものは、正しく運用できる材料を与えられて初めて稼働する。今ようやく、ヴァレットの手元に材料が揃い始めていた。
「少し大袈裟に、それでいてアーリシアを糾弾する内容に仕上げます」
「よろしくてよ。返答が遅くなるほど、不利になると伝えてあげなさい」
エッカーは頭を下げると、勢いよく執務室から出ていく。
本来ならばエッカーのものであった部屋は、今や完全にヴァレットに譲渡されていた。
まるで議場のような長机に幾つもの地図や書類が散りばめられ、ヴァレットは次々とそれらに目を通していく。
「少しお休みにならなくて、大丈夫でありますか、オジョーサマ」
何時も通り、熱めの紅茶を用意しながらリザが告げる。今この執務室内にいるのはアニスを含む三人だけだが、ヴァレットの表情には何処か鬼気迫るものがあった。
「ええ、全く問題はないわリザ。持ってきて頂戴」
深めの椅子に座りつつ、ヴァレットはリザ手製の紅茶を口にする。彼女が安らかな顔をするのは、何時もこの時間だけだった。
「……しかし、意外だ。己らに味方しようとする者など、子爵殿以外は皆無と思っていたが」
アニスは唸りつつ、ヴァレットに指示された通りヘクティアル領内の地図に目を通していた。
その中には、赤と青で幾つかの印がつけられている。
赤はアーリシアの配下とも言える領主たち。彼女が統括しているヘクティアルの分家連中。反面、青で印されるのはヴァレットへの支持を表明した小規模領主たち。
まだ圧倒的に赤の勢力が大きいが、立場が不透明な領主も多く、ヴァレットとの面会を望む者も多くいる。ヘクティアル領全体で考えるならば、事の趨勢はまだ見えていなかった。
「で、ありますね。貴族方は、利害でものを考える方が多いとお伺いしていましたから」
リザもまたアニスの言葉に同意した。貴族の考え方は、ナビア商人のそれと同一。行動一つ起こすにしても、如何にそれが自らの利益となるか、自らの勢力拡大に繋がるのかを考えるもの。
ヴァレットは曲がりなりにもヘクティアル本家当主とはいえ、実権は皆無に等しい。
エッカーについては理解出来るが、それ以外の周辺領主が味方につくとは。アニスもリザも想像さえしていなかった。
「確かに、人は利害で動く部分もあるけれど。それは本質的じゃないわね」
ヴァレットは言いながら紅茶を美味しそうに飲み干すと、再び書類の山へと向き合い始めた。
この先、ヘクティアル領全域に混乱を拡大させる事は決定している。しかし、誰が味方となるか次第で方法は大きく変わるのだ。幾つもの案を考案し、そのための手を打っておかねばならない。
領主だけではなく、天霊教にも伝達は必要だろう。
「本質的ではない、とは? 貴族にしろ平民にせよ、多くは利益を追い求めるものだろう」
地図を見渡すのが嫌になったというように、アニスは長机に突っ伏しながら言った。
「いいえ」
ヴァレットはアニスの様子に苦笑しながら、端的に言う。
「人は本質的には利害で動くんじゃない――感情で動くのよ」
大部分の人々が、利害に寄って動くのであれば世界はどれほど平和になるものか。平穏がどれほど恒久的であるものか。
――そうでないからこそ、世界は動乱を繰り返すのだ。
ヴァレットの表情が、面白そうに笑みを浮かべる。紅蓮の瞳が深みを帯び、唇が滑らかに動いた。
「利害がどうと言うけれど、それを判断するのにだって感情が混じるものよ。羨ましい、許せない、どうして自分だけが、もう自分には機会が回ってこないかもしれない。誰だって、そんな想いは抱くものでしょう?」
そうして何時だって、最後は感情によって人は突き動かされる。
ヴァレットは思った。神が与えた理性というやつは、どうしてこんなに不完全で不寛容なのだろう。一見は繁栄に向けて突き進んでいるようで、容易に破滅へと誘惑される。
アーリシア=リ=ヘクティアルがヘクティアルの分家を統括しているのは確かだ。
ヘクティアル領は始祖たる本家と、そこから枝分かれになった分家達が主軸となって運営されている。本家を打ち倒したいのなら、分家こそを味方につけておけばそれで十分。その考えは誤りではない。
しかし――ヘクティアルの血筋を持たない、常に本家と分家の風下に立たされている有象無象の領主が多数いるのも事実。
彼らは功績あって領主に任命されているが、領地は僅か。実権も殆ど与えられない。
ヘクティアル領を横断する大河から得られる収入は、全て本家と分家が独占している。
「私には彼らの気持ちがよく分かるわ。今はそれを焚きつけてあげてるだけ」
本家と分家の主導権争い。どうせ末端領主たる自分達には関係がない。ただ上に立つ人間が変わるだけだ。そう考えていた人間が大多数だろう。
けれど、本家の頭目たるヴァレットが直接檄を飛ばせばどうだろうか。
不利は明確。リスクは大きい。敗北すれば領地を取り上げられる可能性だってある。利害だけで考えるならば、ヴァレットに与するなど正気ではない。
けれども、だけれども。万が一、勝利すれば。圧倒的に不利な本家当主に味方し、その勢力の一翼となれれば。
常に風下にあった自分達の立場は、大きく飛躍する。
「彼らはよく分かっているのよ。この世で弱者が語れる言葉なんてない。力無き声も、聖人による救いもない。だからこそ弱者は――利害を超えてでも勝つしかない!」
アニスは、思わず瞠目した。ヴァレットが語る言葉の大部分は彼女の理解を超えている。だがそれでも、胸の奥を勢いよくかき回す強さがあった。
それは強者の咆哮のようでありながら、弱者の慟哭であった。
「誰だって、自分の未来が惨めで粗末だなんて思いたくない。栄光に満ちた未来に向かっていると信じたいのよ。いいえ、そうでなくてはならない。何故だか分かる、リザ?」
「え、ええと……」
主人からの唐突な問いかけに、リザは一瞬だけ逡巡した。
しかしすぐに答えは思いついた。何故ならば、それはリザ自身にも当てはまる。
「……自分の過去が、必要なものだったと肯定したいから、でしょうか」
「流石、リザ。そうよね。屈辱に塗れて、暗くて思い返す事さえしたくない過去。それらを墓場の下に葬り去る方法はたった一つ。勝利して、栄誉を手にする事」
その時初めて、人は過去を肯定できる。
――ああ、自分は誤ってなどいなかった。全ては、この栄光のためにあったのだ!
自分の生涯の絶対的な承認。多くの人間はこのために生き、このために狂っていく。
「だから、多くの小規模諸侯は私に与する。その為に与えるべきものは全て与えるわ。そうなれば、アーリシアも落ち着いてはいられない」
兵と兵が正面から衝突するだけが戦争ではない。相手の足元を脅かし、混乱を生み出す事も戦争の一側面。
そうして、その一点に置いてヴァレットの才覚は隔絶している。
彼女の保有する性質――狂乱とは、即ち理性と損得を超えた感情を揺るがすもの。
彼女は知悉している。どうすれば、人は自ら奮起して狂気になだれ込むか。
彼女は理解している。どうすれば、人は恐怖とともに狂気に陥るのか。
人の『意図』をくみ取り、それを自身の想いのままに狂わせていく。
君臨者とは即ち、狂気を知り、狂気を操る者にほからない。
「……貴殿だけは敵に回したくない」
「そう。アニスにそう言って貰えると光栄ね」
「嫌味だ!」
ここに至って、アーリシアとヴァレットは同じ盤面に立った。互いが互いの動向を意識し、その一手を読むのに全力を捧げる。
――如何にして相手の勢力を突き崩し、その首を刎ねるか。
両者の関心は、最後にはその一点に収束していく。
決着には、さほどの時間は要さない。




