第三十八話『リ=ヘクティアルの姫君』
らしくない事をしたな。
ヘクティアル本邸の庭先。訓練を行う兵と、子飼いの騎士達の様子を視察しながらアーリシア=リ=ヘクティアルは思った。
瞼をやや下げて、目線が鋭くなる。
リ=ヘクティアル家から連れてきた騎士達の動きには一切の乱れがない。馬上にありながらも一糸乱れぬ連携が可能であり、数十騎に過ぎないとはいえ、十分な戦力だ。
「アーリシア様ッ! 如何なされましたか!」
「ただの視察です。気にせず、続けるように」
「はっ!」
腹心たるバグリッシが、騎馬の先頭を駆けていく。騎馬アビリティを持つ彼の手綱捌きは優秀の一言。アーリシアに捧げる忠誠にも疑いはなく、非常の時には必ず力となってくれるだろう。
頼りがいのある腹心。自身に付き従う精鋭騎馬兵。更なる力を求めれば、リ=ヘクティアル家から兵を送り込む事も可能。
いいやそれ所か、ヘクティアル本家の兵にもアーリシアの手は浸食している。いずれ本家の家督をアーリシアが継承した際には、彼らもまた優秀な手駒となる。
これはまさしく、アーリシアの才の賜物であった。
鉄の冷たさで下される厳粛な判断。蛇の本性が求める数々の謀略。利で人を誘い誑し込み、害によって人を脅す。
貴族として紛れもない一流。政治とはまさしくこれだった。
アーリシアは十年近い年月によって才を磨き上げ、今やヘクティアル家という器さえ飲み込もうとしている。
「良いか! アーリシア様に無様な姿を見せるでないぞ!」
バグリッシは部下の騎士達に檄を飛ばし、勢いよく騎馬を駆けさせてみせる。
勢いをつけても全く陣形の乱れが見られない。これぞアーリシアの求めた騎士の姿である。
その彼らが、アーリシアの歓心を得ようと声を張り、訓練に更なる力を込めている。バグリッシなど、今にも訓練相手を殺さんほどの勢いだ。
誰もがアーリシアこそが次代の君主と信じて疑わない。いいやそうさせるために彼らは渾身を尽くしている。
前当主の死とデジレの専横によって崩壊寸前の本家とは雲泥の差だ。
けれど。アーリシアの心は晴れなかった。
「よろしい。わたくしの誉れの騎士達。一層訓練に励みなさい。必ずや、重き恩賞を取らせましょう」
訓練が小休止に入った騎士達に言葉をかけ、後はバグリッシに任せて庭先を後にする。
予定より少し早い。だがこれ以上、彼らを正視する事に耐えられなかった。
恩賞。利害。地位。
これこそはアーリシアと彼らを結び付けるもの。互いの間にある架け橋。彼女はそれを自在に操る事で人を動かしてきた。
だがここ数日、思う。思ってしまうのだ。
――わたくしがヴァレットのような境遇に陥った時、尚も忠誠を誓う者はどれほどいるだろうか?
将来の恩賞さえ約束できず、権力など欠片も持たない小娘。むしろ自身を含めた周囲の命さえも危うい。肩書だけはご立派な、空っぽの貴族。
誰も付いてくるはずがない。忠誠を誓うわけがない。
それで良いと、アーリシアは思っていた。人と人を結び付けるものは常に利害だ。それを美しい物語に差し替えたものを忠誠と呼ぶ。
歴史というものは、常に自らの最大利益を追求し、勝利してきたものによってのみ作られる。
だが彼は――アレは違った。
――アーリシアの姫君。他人の家だぜ、少しお上品にしたらどうだ。
何の価値もないはずのヴァレットに。路傍の石に過ぎなかったはずの彼女に手を差し伸べ、利害などなく忠誠を誓って見せる異形。
魔導書であるから、契約であるから。彼の所作に、そんな異物をアーリシアは感じなかった。
彼はただ、好んでヴァレットに仕えていたのだ。
「わたくしに、同じことをする者がいるでしょうか」
アーリシアは生まれた直後、リ=ヘクティアル家の第三位継承者に過ぎなかった。優秀な兄と姉がおり、どちらかがリ=ヘクティアル家を継ぐ予定だったのだ。
家臣たちは競い合って兄と姉を支持しあい、今のヘクティアル本家のように分裂さえ起こしかねない勢いだった。
そんな幼き日のアーリシアに、少しでも意識を向けた家臣が一人でもいただろうか?
まさしく道端に転がる小石に過ぎなかった彼女は、誰からも見向きされず、存在さえ認められていなかった。
その騒動も、兄と姉が同時に『不慮の事故』で死亡した後は簡単に片付いた。アーリシアが家内を掌握し、今までアーリシアに目もむけなかった連中が、こぞって忠誠を誓いだす。
あの日、心に決めたのだ。
人など信じられたものではない。彼らの言う忠誠とはただの欺瞞に過ぎない。
そう断じるアーリシアだからこそ、自然とグリフに心を向けていた。
「本を相手に口説き落とすのは初めてですが」
利害を説いて聞く相手ではない。たとえアーリシアがヘクティアルの当主になったとしても、そう易々と心を開きはしないだろう。
だがそれでも、必ず手に入れて見せる。必ず自分に仕えさせてみせる。彼がヴァレットに真の意味で忠誠を誓っていたとしても。
欲しいものから目を逸らす事は、人生の敗北だ。
胸中で、粘性の高い感情が昂った。ほの暗い輝きが、アーリシアの瞳に宿っていた。
「……アーリシア様、暫しお待ちを」
庭先から別邸へと向かう途中。アーリシアが自らの名代とした従者ナトゥスが、木々の影に隠れるようにしながら姿を見せる。
彼もまたバグリッシに比肩するアーリシアの腹心と言って良い。今はデジレの動向を探るため、彼女の傍付にしていたはずだった。
その彼が自らの役目を放棄してまで足を運ぶのは、それだけの意味があるという事だった。
「急な事で申し訳ございません」
「前置きは不要です。本題に入りなさい」
いつも通りの型に嵌った礼儀を取り払わせて、言葉を促す。
儀礼的な所作に拘ろうとするのが、ナトゥスの美点でもあり欠点でもあった。
「デジレ=ヘクティアルが不穏な動きを見せておりました。天霊教を通じ、他の分家に働きかけを目論んだようです」
「結論は?」
「ルージャン司教の協力を得て、動きを封じ込めております」
「よろしい」
当初の想定では、まずはデジレ=ヘクティアルを祀り上げる腹だった。
彼女は単純であるし、その欲望さえ満たしておけばさしたる害はない。
だがヴァレットを排除した上で、天霊教と異郷旅団を抑えた以上、デジレの存在に拘る必要はなかった。今となってはもはや、彼女は前当主の妻、という肩書以外なにももたない。
むしろ、今回のように余計な動きをされる方が面倒だ。ここから彼女に盤面をひっくり返されるとは思わないが、余計な手間と労力がかかる。
「如何なさいますか」
「やはり、これからも別邸でお暮らし頂きましょう。ただし、人との出会いと使用人の数は制限するように」
もはや、本家の人間への建前などなかった。
本来はデジレが幼稚な謀略を企んだ所で、アーリシアにそれを追求する権利などない。だがもはや、本邸から別邸に至るまで、全ては彼女の手中にある。
後は、手続きの問題だ。ヴァレットの未帰還を理由に彼女を廃嫡とし、ヘクティアル家当主の座を空位とする。そうなった場合、諸侯の手によって新たなる主君を決定する定めであるが、その大多数をアーリシアが抱き込んでいるのだ。
もはやデジレを活用する理由は薄い。
「折を見て、彼女の処分については決定します」
「承知いたしました。二度と同じことが起きぬように管理いたします」
アーリシアはナトゥスに向けて頷く。どうせならば少し泳がせ、尻尾を見せるのを待っても良いが、そこまでするほどの相手でもない。もはやアーリシアの眼中からは、完全にデジレが失われている。
むしろそれよりも、ずっと重要な事を口にした。
「ナトゥス。ヴァレットの様子は追えていますか?」
「……彼女の様子、ですか」
ナトゥスはあからさまに動揺を見せた。感情をひた隠しにする彼には珍しい表情だった。
「ええ。南方遠征と、その結果は異郷旅団から報告を受けていますわ。その後、どう動いているかを調査なさい」
アーリシアは、デジレに向けていた意識を完全に切り替える。もはや彼女の思考は、デジレの存在さえ覚えていない。
「失礼ながら、彼女はもはやさしたる駒を持たないと、そう確認しておりますが」
ナトゥスが、主人の意向を確認するように問い返した。彼にとってみれば、ヴァレットはもはや脱落者。調査する意味はさほどない。
けれども、ヴァレットの考えは違った。
「いいえ。今をもって尚、彼女は公爵位についています。紋章は彼女の体に刻まれている。それが失われるのは、正規の契約と手続きを踏んだ時のみでしてよ」
とするならば、その時までは彼女は脅威でしかない。
大魔導書グリフを抑えたとして、ヴァレット=ヘクティアルという存在自体が重要なカードだった。
ナトゥスは大きく頭を下げて口にする。
「失礼いたしました。即座に情報収集に移ります」
「急ぎなさい。遊ばせている暇はなくってよ」
アーリシアは熱を込めた声で指示を飛ばしながら、自らの胸中を顧みる。
やけに肺が熱かった。いいや、全身の血液が脈打っている。未だアーリシアの身体に刻まれているのは、リ=ヘクティアルの紋章のみ。
しかし少しずつだが、この土地の魔力の脈動が感じられるようになってきている。土地自体が、アーリシアになじみ始めているのだ。これならば、もう間もなく紋章の移行も可能となるはず。
アーリシアは自らの指先を軽く握りしめながら、熱を吐き出す。
心に決めていた。兄と姉を謀殺したあの日から覚悟は完了している。
――権力は勿論、それ以外の欲しいものも全て手に入れてみせる。幼き日の自分が、それこそを願っている。
それが例え、異形の従者であったとしても。何を立ち止まる事がある。
敵がいるならば、その者を討ち果たせば良いだけではないか。
アーリシアは目を細めながら、未だ自分の敵たる彼女の姿を思い浮かべていた。
「異郷旅団も、まだ彼女を甘くみていますわね。さっさと殺しておいてくれれば良かったのに」
大魔導書グリフの存在は、確かに大きい。彼女が生存する上でのキーアイテムだったはず。
だが、アレの恐ろしさはそんな所にはなかった。貴族の本能が、アーリシアに警鐘を鳴らしている。
それはけたたましく、日に日に大きくなっていった。
――報告が届いたのは、それから五日後の事である。




