第三十六話『君臨者』
脅威は去った。
討ち取ったばかりの女王を超える力を持つであろう、三人の異郷者。
そこに立つだけで周囲を脅かし、威圧する恐怖たち。相対すれば死を免れないだろう者ら。
だが、ヴァレットは生き残った。アニスとリザも、未だ健在。
被害はたった一つ――大魔導書グリフの喪失のみだ。
失ったものは少なく、得たものは大きい。そう語る者もいるだろう。命を拾えたのならば、どんな犠牲も安い。そう考える者もいるだろう。
断言しよう。そんなものは持つ者の傲慢でしかない。命以上に大切なものを持てなかった人生の残骸でしかない。
人間は何時だって、命以外のものに価値を置ける。命を投げ出して尚惜しくない、そう思えるだけの感情を抱ける。
「……」
「ヴァレット、殿」
廃村で茫然とへたり込むヴァレットに向け、アニスはどう言葉を掛けるべきか懊悩した。
何時もならば、豪放な態度も取れただろう。無理やりに立ち上がるよう促す真似も出来ただろう。
しかしヴァレットの表情は、余りにも無惨だった。
泣きわめくのでもない、憤怒するのでもない。ただただ、感情を失った人のそれ。
アニスには、その表情が痛いほどに理解出来る。
今までの人生で、自分よりも重きを置いたもの。自分の重心を傾けるほどに没頭したもの。それを失ったとき、人はこういった表情を見せるものだ。
「慰めにもならんだろうが、グリフ殿は貴殿を思って動いたのだ。決して、裏切ったわけでは」
「――裏切ったわけでは、何?」
アニスは思わず言葉をしまい込んだ。
彼女の本能が異様な危機感を覚えていた。
踏み込むべきではない。言葉を重ねるべきではない。何故かそんな想いが胸を占めている。
「……そ、その。ひ、一先ず子爵のお屋敷まで戻りませんか。この場に居続けるわけには、いきませんですし」
リザが、ヴァレットとアニスの間を取り持つ様に口にした。
彼女の傍らでは、バイコーンが二角を傾けながら軽く嘶く。
唯一生存した魔性の瞳が、僅かに恐怖を覚えているのは気のせいだろうか。
「――そうね。戻りましょう。アニス、リザ。女王の討伐は無事成し遂げられたわ。まずは、貴方達に感謝を」
数秒の間を置いて、ヴァレットはすっくと立ちあがった。
先ほどまで疲労困憊の身であったはずが、そんな素振りを欠片も見せない。
いいやむしろ、気力に満ち溢れている。今こそが全盛期とでも語るかのよう。
「子爵邸へ帰還します。ただ、二人とも。これから先、無理に私に付き従う必要はないわよ」
「え……」
リザが咄嗟に返事をすると、ヴァレットは瞳を炯々と光らせながら言った。
その足が、ゆっくりと廃村から出る道へと進む。女王を討伐した証として死骸の一部、そうして――彼が残した『異貌の外衣』はバイコーンが支える鞄へと投げ込んだ。持ち帰るものはこれだけで十分だった。
「私はこれから、貴方達の働きに十分報いる事が出来るか分からないもの。幾つもの危ない橋を渡る事になるわ。それに二人が付き合ってくれる必要はもうない」
特にアニスは、一時的に力を貸してくれるだけだったでしょう。
そんな風に言いながら、ヴァレットはバイコーンとともに歩み始めた。何処か、二人を突き放す様子を伴っていた。
口にしている理由はただの口実で、ただ一人になりたいと願うような、そんな様子。
しかしリザは、反射的にその隣についていた。
「いいえ、リザはオジョーサマとともに行くであります。まだマネーを稼がせて頂いていませんので!」
自分は何を言っているのだろう。リザは即座にそう思った。
とても合理的な判断ではない。ヴァレットに付いて、もはやどれだけの利益が求められるというのか。機械的な損得のみを求めるナビア商人としては失格だ。
ヴァレットの首にかかっていた銀貨三十枚の価値も、今となっては履行されるか怪しい。異郷者とグリフの会話を聞くに、彼女自身の価値はもう殆ど失われたのだから。
「それに、夜眠られる前の紅茶を入れなくてはいけないであります。まだまだ、リザの仕事はあるのでは?」
だけれども、リザはヴァレットの隣を離れる気になれなかった。
それはグリフを失った彼女が哀れだったからではない。
ただ彼女が、他国出身で言語もままらない、出来損ないのメイドを最後まで見捨てなかったからだ。
だというのに、自分が彼女を見捨てるのでは道理が通らない。それは損得の話ではなく、リザの矜持の問題であった。
「己とて、この場にきて尻尾を巻くような真似をするか。一度死地を共にくぐったのならば、その相手を尊重する。武芸者にとっては当然の話だろうに」
アニスのそれは、リザよりももっと単純であった。
彼女は損得ではなく、感情の人だ。理性よりも自分の意志を優先出来る人間だ。
ただヴァレット=ヘクティアルという人とともにありたいから、ともにある。その願いを叶えてやりたいから、隣にいる。
まるで透明な水のような純粋さ。
「……そう」
ヴァレットは小さくそう声を返した。
余りある感情が、彼女の胸に流れ込んでいる。それをどう表現すべきか、どう形にすべきか彼女には分からない。
だがたった一つ、自分が必ず成さねばならない事を理解していた。
ゆえにこそ、ぶちまけるようにヴァレットは言う。
「なら――一緒にグリフを後悔させてあげるとしましょう。膝をついて許しを請うても許さない。私から離れるという事が、どういう事か」
美麗な唇が、僅かに呼気を吐き出しながら言った。
「私の手綱を外すという事が、どういう事か。教え込んであげようじゃない」
◇◆◇◆
ロウス子爵領が当主、エッカー=ロウスは情義の厚い人間だった。
決して広大な領地ではないが、だからこそ自分に出来る最善を尽くすと決めている。
貴族の義務とは何か。それをよく理解している。
「――公爵閣下。この度は、感謝をしてもしきれませぬ。数々のご無礼をお許しください」
彼の子爵邸。その貴賓室にて、エッカーが口を開く。
疲労の皺が刻まれた顔を勢いよく下げ、ヴァレットに跪く。
「よしなさい、エッカー子爵。私は領主として必要な事をしたまでです。それに、私の身分は何時までも保障されているものでもないわ」
「そのような事は関係がございません」
顔を上げるよう促すヴァレットの言を、エッカーは拒絶した。彼の思いは、その程度では言い表せぬものだった。
「公爵閣下によって、我が民は救われました。この事実を否定出来るものはおりません! たとえアーリシア侯爵であろうと!」
アーリシアはヘクティアルが分家の筆頭。ヘクティアル領においては、本家に次ぐ実力者である。
今や最も公爵家当主の地位に近い人間。そう考え、少しでも近づこうとする領主は多い。
「そう。なら、エッカー子爵。私に手を貸してくれる気はあって?」
「無論でございます。何なりとお申し付けください」
だがエッカーは、驚くほどの真摯さでヴァレットへの敬意を表明した。
この領地を政争の道具としたアーリシアに仕える気などない。ただ、そう断言するかのように。
彼は最も貴族的であり、しかして最も貴族的でない男だった。
「よろしい。とはいえ、正面からアーリシアとやり合うわけにはいきません。兵が足りないし、何よりそれこそ相手が望む所でしょう」
貴賓室。リザとアニスを傍らに置き、未だ跪いたままのエッカーに向けて言うようにヴァレットは口を開く。
その表情には、何処か昏い喜びが潜んでいるように見えた。
自分の不利を知りながら、ヘクティアル全土の混乱状態を見て取りながら。それでいて尚、楽しんでいるような素振り。
三名の前で、彼女はゆっくりとこれからの構想を語り始める。事前に取り決めていたわけでもないというのに、次から次へと言葉が漏れ出て来る。
それこそは、とある世界でヴァレットを公爵領主として君臨させた才。
これこそは、大魔導書が理解していなかったヴァレットの一側面。
――君臨者としての天稟。
彼女が最大の悪として君臨したのは、大魔導書グリフだけが原因ではない。それを証明するかのように、ヴァレットは躍動を開始した。




