第三十三話『蝶よ刀よ』
魔性の群れを掻い潜り、手下であるアラクネを斬り捨てて、アニスは再び女王に接敵した。
女王は魔導を被弾し三本の脚を失ったとはいえ、未だ彼我の戦力差は決定的。アニスでは女王の一撃を捌く事は出来れど、致命傷を与える真似は出来ない。女王はたった一撃当てるだけで、アニスを殺す事が出来る。
それは悲しいほどの生物としての格の違いであった。
生まれた時から与えられている者と、生まれた時には何も持っていない者。
魔性と人類の差異とは即ちこれである。異郷者と現地人の格差とはこれである。
魔性が、部族の頂点に君臨する女王が。ただの人類になど敗北するわけがない。
「――オロカナ。ソコマデシテ、シニタイカ」
アラクネの女王は、自らが率いる群れの死骸を前にして、尚も不遜にそう言い切った。
残る五本の脚を駆動させ、美麗であった顔つきを醜悪に歪ませて咆哮する。
「イツノヨモカワラヌ。ナゼニンゲンハ、シヲワスレタガル」
長き時を渡って生き延び、それゆえに女王として君臨する彼女は言う。
それは紛れもない実感であった。
背を見せて走り回れば逃げられたかもしれない。仲間を見捨てれば命を拾えたかもしれない。
そんな生物として当然の本能を、人間は時折放棄する。本能を歪ませ、命を濁らせる不遜な行い。
――あの魔女でさえ、優先するのは自らの命であった。
強大無比。万夫不当。比肩する者無し。ただ一個にして暴力であった彼女ら。
何時しか消え去ってしまい、今はその残滓しか残らない。
先ほど女王が正面から受け止めた『狂乱の泥嵐』。あれさえも、恐るべき魔女の残り香に過ぎなかった。
本来であるならば。もしもあの狂乱の魔女が生き残っていたならば。
自身は、欠片も残らなかったはずだ。
長く生き延びた経験が、女王に戦力分析という智恵を授けていた。自分はどの地点におり、敵はどの地点にあるのか。
それを測り違えた者から死んでいくのだ。人間にせよ、魔性にせよ。
「その通り、己は死など知らぬ。何せ、今まで死んだ事がないものでな」
女王の前に立った武芸者は、飄々とそう断言してみせる。
両手に握るは黒鉄の刃。ごうと、音が唸り、女王が前脚を叩きつける度に彼女の眼前で死が明滅する。
されど死なない。されど生き延びる。
反射としか思えぬ見切り。躊躇なく一歩を踏み込んだかと思えば、あっさり数歩引いて見せもする。
女王は数度の攻防を経て痛感していた。
これはこの女の天稟だ。技術の一点に絞るならば、自身はこの武芸者に届かない。
素晴らしく可憐。素晴らしく麗しい。まるで蝶の如し。体力の限界までこの女は自身の手から逃れ続けるだろう。
「ふ、ン――ッ!」
激しい鉄と鉄の接合音が鳴り響く。
刀が女王の前脚を叩き落とし、アニスが一歩間合いに踏み込んでくる。それは紛れもない、死を覚悟した踏み込み。
先ほどと同様に、運に全てを賭けた一撃を振るうつもりなのだろう。そこには全身全霊の力が漲っている。
――よって女王は自身の勝利を確信した。その顔つきに笑みが浮かぶ。
勝つ、勝利する、完膚なきまでに潰して殺す。
女王の前脚が、乱舞するようにアニスへと叩き落とされる。圧倒的な質量差があるにも関わらず捌き切ってみせる彼女の技能は、日々の鍛錬の賜物としか言いようがない。
だが限界の勝負は、常に焦りを抱いた側が敗北する。
「馬鹿の一つ覚えのように、刃を振るう事しか出来んかッ!」
「キサマニハ、ソレデジュウブンデアロウ――?」
他愛のない挑発を受けきり、女王は姿勢を整えた。
この無限にも思われる暴と武の噛み合い。今は完全な拮抗状態にあるが、体力の差ゆえに、いずれアニスの側が崩れ去るのは明らかだった。
だからこそアニスは焦燥する。人は不安が継続する事に耐えられない。確率が低いと理解していても、万が一、もしかすれば勝利するかもしれない。そう思ったならば、暗闇の中にでも飛び込める種族だ。
それが自身の確実な死に繋がると知りながらも。
アラクネとは蜘蛛。華麗に宙を舞う蝶は、常に蜘蛛によって絡み取られる運命にある。
「ハ、ハァ!」
女王はアニスによって弾かれた一撃を契機に、態勢を崩したように見せて一歩を引いた。
さも、間合いに入り込んでくれと言わんばかりの隙。数秒の間もない瞬間の攻防。
「――後悔するぞ」
アニスはそれも見抜いていたのだろう。しかしそれでいて尚、前へと一歩を踏み抜いた。
この段に至って互いの運命は二つに収束する。
殺すか、殺されるか。
「ソレハ、ドチラノコトダ」
女王の挑発にアニスは応じる。いいや彼女にとって、もうこの場における選択肢は一つしかなかったのだ。
黒鉄が輝きを放つ。刀を肩に乗せ、大きく振り上げた。その軌道の何と優美で、軽やかな事か。
「アビリティ発令――」
女王は思う。
ここに至るまで、数多の研鑽と鍛錬があったに違いない。
幾百、幾千、幾万。まさしく無尽蔵に振るった刃の一閃。繰り返し、繰り返し、繰り返し、積み重ねられた数多の宿願。
それはまるで、咲き誇る一輪の華。
だが華というものは、手折る時こそ最も香しい蜜の味がする。
「イトオシゾ、ニンゲンヨ」
瞬間、女王の下半身が蠢動した。
彼女は態勢を崩したのではない。むしろ、必要な態勢へと移行していただけだ。
残った後ろ足が地面を強固に掴み、身体を固定する。そうして腹の突端がたわみ――膨大な量の糸を射出した。
「ッ!?」
アニスの視界を完全に覆い尽くし、その肉体を掴み取らんとする白糸。
アラクネが最後の頼みとする『銀粘糸』だ。
絡み取った対象の動きを抑制し、その視界を塞いでしまう。本来ならば逃亡用の奥の手である。アラクネにとって営巣以外にこの糸を用いるのは屈辱でもあった。
しかしこれで、万が一にもアニスの勝機は失われる。ただでさえ命中率の低いアビリティを、これで如何にして敵に押し当てるというのか。
女王の前脚が振り上げられる。粘糸ごとアニスを断ち切らんと、刃の如き前脚が輝きを見せた。
丁度、その瞬間であったように思う。女王は、一つの事を思い出した。
狂乱魔導を用いた奴らは、何をしている。
「――『汝は我が騎士である』」
瞬間、地の底から這い出るような声が聞こえた。全身が、何かおかしなものに覆われるのを女王は感じる。
女王はこれを聞いた事があった。耳にした事があった。
「『汝、目を開くなかれ、耳を澄ますなかれ』」
聞こえるはずがなかった。もう聞こえないはずであった。
そんなはずがない。しかし、確かにあの時と同じ調べがするのは何故だ。
「『この世に見聞するべきものなど何もない』」
一瞬、全身がすくみ上る。振り上げたはずの前脚が、何処にあるのか分からなくなった。
「――魔導展開『狂乱の騎士』」
かつて見た黄金の如き魔導の輝きが、女王の眼前で明滅する。
それは魔力の奔流であり、今は失われた古代の神秘である。
振り上げたままの前脚を、女王は勢いよく振り下ろした。
華を手折る余裕ではない。根源の恐怖から来る本能だった。
ここで、この場で、目の前のものを殺しておかねばならないという生物的な本能だけが彼女を突き動かしている。
だが。
「……魔女の力など好きではないと、そう言っただろうに。気に食わん。ああ、気に食わんとも」
白の粘糸に覆われたまま、それは言った。
女王は聞いてなどいなかった。ただ瞬間的に、それを叩き潰していた。
技量も何もない、ただ暴力的なまでの圧殺。
だが、女王は忘れている。
その程度で殺せぬ相手だからこそ、懐にまで呼び込んだのではないか。
粘糸の下から飛び出た黒鉄が、あっさりと女王の前脚を斬り落とす。びりびりと音を立てながら、刃を一閃して彼女は粘糸の塊から脱出した。
「見えん、聞こえん、気に食わん。だが――そこにいるな、女王」
「ナニ、ヲッ!?」
アニスは瞼を閉じたままであった。耳も聞こえていないのか、女王の声は届かない。だが女王はこれをよく知っていた。
かつて見た。かつて聞いた。だがここにいるはずがない。
狂乱の魔女が生み出す尖兵たち。戦場を疾駆する獣たち。
「フザ、ケルナ! キサマハ、イマコノトキニ、イルベキデハナイ!」
馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。
女王は狂乱したように咆哮する。
今は自分達の時代のはずだった。魔女は失われ、人類に力はなく。魔性こそが大陸の覇者となるべき時代のはずだ。
そこに何故、お前たちがいる。
「ココハワレラノ、ワレラガ、シハイスベキ――!」
しかしその咆哮さえも、アニスには届かない。
狂乱の魔女たる者の騎士は、何も見る必要がない。何も聞く必要がない。
彼女らはただ主君の命令を遂行するのみ。その肉体は主君の瞳を通して動いて見せる。
だからこそ。
その振り上げられた刃は――ただ主の思うままに動くのだ。
ヴァレットとアニス、二人の声が共鳴するように響いた。
「アビリティ発令――『金色一閃』」
黄金が、輝いた。忌々しい白を斬りさくように。鬱陶しい障害を取り除くように。
ただ目の前のソレを穿っていた。美麗な上半身と巨大な下半身が、完全に両断される。
麗しい華の棘は、蜘蛛の命を奪い去っていた。アニスは未だ瞼を開かぬまま、ただその手ごたえだけを受け取って口にする。
「女王よ。ただ貴殿の不幸を嘆いてやろう。……但し、その墓前でだがな」




