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第二十八話『メイドの逡巡』

 愚かしく、馬鹿らしい。


 リザ=ベルエストは苛立つ心を抱えながら、調理場を借りて紅茶を入れる準備を整えていた。


 湯を沸かし、茶葉を選別する。子爵領とはいえ、高級な品種が揃っている。流石は貴族、見栄を張れるだけの金はあるようだ。


 ここの所、リザの主人――ヴァレット=ヘクティアルは寝る前に紅茶を欲しがる。肌寒い季節でもないのに、温かい紅茶を口にしてから寝たいらしい。


 公爵閣下にしては質素な趣味だ。


 その紅茶を入れるのは、リザの仕事であった。別にそれ自体に腹は立たない。仕事をこなすのはリザにとって喜びであるし、求められるのも悪い気分ではない。


 苛立つのは、主人の不甲斐なさにだ。


「感情に流され、自分の利益も追及できないですか」


 ぼそりと、苛立ちをぶちまける。グリフとかいう奇妙な従士と揃って、馬鹿ばかりだ。


 三日間。ヴァレットが領主エッカーと約定した日程だ。それを超えればヴァレットは全てを諦め、周辺領主へと要請を出す。そう約束してしまった。


 ――それは即ち、アーリシアとの対立を前に屈服するという事。


 となれば未来は決まっている。ヴァレットが正式なヘクティアル家当主となる道は閉ざされ、いずれは廃嫡となるだろう。次にその席に座るのは、デジレかそれともアーリシアか。


 リザにはどちらでも良かった。ただどちらが自分の利益になるかだけを考えていた。


 彼女には、ナビア商人としての自負がある。


 追及するのは正義でも道徳でもなく、自己の利益。利益を持たざる者は、正義も道徳も手に出来ない。


 機械の如く正確な損得だけがナビア商人の心臓には沈殿している。


 決して揺るがず、消え去る事もない信念。


「ナビア商人は、追及出来ない利益に拘泥してはいけない」


 心得の一つを口にしながら、リザは懐から布袋を取り出した。


 小さなそれは、天霊教が司祭たるルージャンから与えられたモノ。


 彼は利益に聡く、ナビア商人に良く似ていた。目的が正しければ、常に手段は肯定される事を知っている。


 ――隙を見て、奴らを始末するのだ。それが出来れば、波紋石は砕いて構わん。それを神命完遂の合図とする。


 首に引っ掛けた波紋石を指でなぞる。


 この館に備えられた紅茶は、何時もとは品種が違う。『毒鳥蛇バジリスクの唾液』の臭いがしても、茶葉の違いだと押し切れるはず。


 ヴァレットだけではない。馬鹿な従士も、声が大きく鬱陶しい武芸者も。纏めて始末出来る絶好の機会だった。このまま魔性の討伐に出てしまえば、リザも巻き込まれかねない。

 

「馬鹿のために死ぬのは、嫌ですね」


 利益を追求して死ぬなら構わない。


 命を炉に捧げて、金貨を鋳造するのがナビア商人だ。しかし情に流されて利益を失うのは、彼女らにとって最大の恥だった。


「――」


 とすれば、やはり今夜だ。今夜終わらせるべきだった。


 目の前には淹れたての紅茶。ここに粉末を混ぜるだけ。それだけで銀貨三十枚が手に入る。


 銀貨三十枚あれば、新たな商売を始める元手には十分だった。


 白髪を蔑まれ、故郷を追い出された自分が。紹介状一つなく、下働きを続けざるを得なかった自分が。


 店を構える事だって、出来るかもしれない。


 あいつらを見返してやれる。人生をやり直せる。誰にも見下されない日々を生きられる。


 それならば――。


「……一匙で人を殺せる、でしたか」


 リザは震える指先を自覚していた。小袋に手を伸ばしていた。眉間に皺が寄った。下唇を知らず知らずの内に噛んでいた。


 こんな事、何でもない事のはず。とっくの昔から、自分は利益のための道具になったはずだ。利益のためならば、なんでも出来る。そのはずだ。

 

「――リザ。時間がかかってるみたいだけれど、大丈夫?」


 背中にかかった声に、リザは思わず小袋を手元で握り込んでいた。


 まるで爆発するかのように心臓が高鳴っている。胸元に小袋を隠し、振り向く。


「ちょ、ちょっと。顔が青いわよ。どうしたの」


「い、いえ。大丈夫です。オジョーサマ」


「それなら良いけれど。無理はしなくていいのよ」


 そこにいたのは、今まさにリザが命を奪い取らんとしていた相手。


 ヴァレット=ヘクティアル。彼女はリザに近寄りながら、その顔をまじまじと覗き込んだ。


 心臓がますます跳ねた。主人がメイドにする態度ではない。


 不味い。こちらが何を企んでいるかは察知できずとも、不審には思われたという事だ。もうそう簡単に紅茶に口をつけないはず。


「あら、淹れてくれていたのね」


 そんなリザの胸中とは別に、ヴァレットはあっさりとリザが用意していた紅茶に手を伸ばす。


 まさか。


 そう思った瞬間には、ヴァレットはそれに唇をつけて喉奥へと注ぎこんでいた。


 リザは茫然とその様子を見ていた。彼女には警戒心というものがないのだろうか。毒見も無しに、怪しいメイドが用意したものに易々と口を付けるとは。


「ありがとう、美味しい紅茶だったわ。グリフとアニスにもあげて頂戴」


 ヴァレットは自分の分を飲み干すと、笑みを浮かべながら言った。


 きっと彼女は、本当に良い紅茶を知らないのだとリザは思う。自分の紅茶の淹れ方など、本当の使用人には遠く及ばない。無様と思える程の手際だ。


 それでも、彼女は美味しいとそう語る。語ってくれる。


 リザは軽く視線を落とした。


「……リザ。明日からの事だけど」


「はい。アラクネの討伐とお伺いしているです」


 ヴァレットが新たに口を開いた時には、リザは何時もの調子を取り戻していた。


 これ以上、腹の中を勘ぐられるわけにはいかない。空気が読めず、能天気なメイドを演じなければ。


 紅蓮の瞳が自分を貫くと、思わずリザはどきりとした。


「貴方は、この邸宅で待っていなさい。グリフは何かを手伝わせようとしていたみたいだけれど、メイドを連れていくような場所じゃないわ」


 リザは自然とグリフの言葉を脳内で思い返していた。商人の修行として、見聞きしたものは全て記憶に刻む習慣が彼女にはあった。


「確か、廃村に赴かれるのでしたね」


 リザから見ても、グリフは不思議な男だった。常に輪郭がぼやけ、はっきりとした印象を抱けない。


 特殊な霊性を持つがゆえに、近い症状を起こす商人を見た事はある。あれもその類だろう。


 そのグリフが言う所によると、アラクネ討伐のために向かうべきは根城と思われる森林や洞窟ではなく、すでに住民が避難した廃村跡であった。


 そこに何があるのか、何故そう判断したのかまではリザも想像できない。商売ならともかく、戦闘となれば流石に自分の領域を超えている。


 そういう意味では、ヴァレットの言葉は道理にかなっていた。リザを連れて行って、どうにかなる戦いでもない。ただ危険が増すだけだ。


 しかし。


「いえ。オジョーサマ。どうかリザもお連れくださいであります!」


「……リザ?」


 離れて行動していては、どんなチャンスも飛び込んでは来ない。


 どのような場所であれ、共にいれば寝首をかく機会は幾らでも回って来るはずだ。


「折角ついてきたのですから、リザだけ待っていても仕方ありません。お力になれるのであれば、勿論ついていくです」


 だから、着いていくと決めた。ヴァレットの首には銀貨三十枚がかかっている。


 ――それが不当に安い金額だと理解している。ルージャンが約束を守るのか、もしかすれば自分に罪を着せるつもりではないのか。それも理解している。


 けれど、それでもリザは他の選択肢を取れない。自分が何も持たない者であり、例え騙されていたとしても利益を追求し続けるしかない。そう信じていた。


「……そ。先に言っておくけど、無事に帰れるかなんてわからないわよ。怪我どころか、死んじゃう事だってあるんだから」


 その点、この主人は非常に分かりやすい。


 時折冷酷ぶってみせる時もあるが、その根幹にあるのは余りに人間らしい感情だった。アーリシアのように、酷薄たる天秤を掲げられる人間ではない。


 領主の如く支配するのではなく、将軍の如く命令するのでもなく。


 ただ――いや、自分は何を考えているのだろう。


 リザは咄嗟に思い直しながら、こくりと頷く。


「はい。リザも覚悟しております。ですが、オジョーサマの行くところに、行かないわけにはいきません」


 想いのままにそう言っていた。後先の事を考えてなどいなかった。


 ヴァレットについていかなければ。ただ、それだけを考えていた。

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