第二十七話『ヘクティアルの魔境』
ヘクティアルの魔境。
ゲーム内でそう呼ばれるクエストは、五つの種族が混合した魔性の討伐が目的だ。
編成種族は小鬼、狗鬼、戦狼、騎蜂――そうして、大毒蜘蛛。
内、先に挙げた四種族はいわゆる低レベルの魔性。群れならばともかく、単体ならば一般の冒険者でも相手が出来る。レベルをつけるなら高くとも十程度。
本来ならば種族を超えた共闘が出来る知能はなく、縄張り争いの上、同種同士で争い合う事だって珍しくない。都市近郊に沸いたとしても、さほどの危険はないと言い切れるだろう。
だが、アラクネは別だ。
個体の設定レベルは二十、女王ともなればレベルは三十五に到達したはずだ。
更に面倒なのが、こいつらは他の種族と比べて圧倒的に統率面に優れているという事。
尻から吐き出す麻痺糸をもって他種族を統括し、まずは弱い個体を従わせて餌を確保。力がついてきたら、次は更に強い個体を確保して勢力を広げる。それがアラクネのやり口だった。
その所為で、魔女化事象なんてものを容易に引き起こして見せる。
女王を殺さない限り、この事象は決して解決しない。
「――簡易なお迎えしか出来ず、申し訳ない限りです。我らの無力をお許しください」
「構わないわ。暫く、部屋を貸して貰えればそれで結構」
本邸を出て約半月。ようやくクエストの現場に到達した。
ヘクティアル南方、ロウス子爵領。領主たるエッカー=ロウスが邸宅の前で恭しく頭を下げる。
エッカーの表情は疲弊しきった様子で、顔も弱弱しい。公爵であり主君とも言えるヴァレットの前でも、疲れが全く隠せていない。
仕方がなかった。アラクネの率いる五部族同時侵略は、子爵領の街道にまで浸食し始めている。このままでは魔性は街道を蹂躙し、人の行き来は完全に制限される。
商人は行き場を失い他領へ流れ、下手をすれば農民も危機を前に離散しかねない。
間違いなく、エッカーの領土は壊滅的な打撃を受けるだろう。今は、その一歩手前だ。彼の心労は容易に想像できた。
それでも表情の中に僅かな安堵が見えたのは、ヴァレットの事を救援だと信じたからに違いない。
しかし。
「その……公爵閣下。失礼な事をお伺いいたしますが。この度、私兵は如何なされたのでしょう」
エッカーは館の中へ俺達を案内する最中、どうしても留められなかった、という様子で口を開いた。
ヴァレットの瞳が思わず細まる。
答えないわけにはいかない。しかし、相手が期待するものを差し出せない。そんな時、人はどうしても口を開くのが億劫になる。
ヴァレットは、ゆっくりと口を開きながら言う。
「……今回の件は、私達だけで解決します。それで十分だと、私が判断しました」
「え、ぁ――」
まさしく、言葉を失ったという様子。
エッカーの頬はやせ細っており、深い皺が刻まれている。今新たに、困惑の色が塗りつけられた。
館のリビングに、エッカーの声が響く。
「お、お待ちください、公爵閣下! 魔性どもは種族入り乱れながら侵略範囲を広げ、私の兵は防衛するのがやっとです! このままでは、領民は……」
「子爵殿。無論、ヴァレット殿も理解しておられる。相手を甘くみているわけではない。必要な人員だけを寄こしただけだ」
アニスが咄嗟に間に入ったが、エッカーの勢いは止まらない。見た目によらず、気骨がある。
「それを甘く見ているというのです! 兵には多くの死傷者が出ている! 守り切れず、都市へ避難させた村もあります! それをたった四人でどうするというのだ!」
いいや、違うか。彼はただ必死なのだった。
身分で言えば遥かに及ばないヴァレットに対し、エッカーは眼窩を最大限にまで広げるようにしながら言う。
「……公爵閣下とアーリシア侯爵との確執は耳にしております。しかし、それは我が領民には何ら関係がない事! 領民の命を、政争の道具にされるおつもりか!?」
それは絶叫であり、咆哮であった。
エッカーは子爵であり、ヴァレットやアーリシアに比較すればごく僅かな領地を持つにすぎない。都市は精々一つで、農村が大部分だろう。
だからこそ、彼は必死なのだ。都市には外敵を遠ざけるための壁があるが、それも全ての領民を収容できるほどの大きさではない。
このままいけば、必ず限界が来るだろう。誰かを守り、誰かを見捨てなければならない時が来るだろう。
「良いかな」
「グリフ――」
ヴァレットに縋りつくように声をあげるエッカーを軽く抑える。
もはや彼に説得は通用しない。彼が求めているのは救いのみだ。
であるならば、それを約束するしかない。
「エッカー子爵。貴方の言葉を否定はしないさ。ヘクティアル家内はゴタついてる。その所為で俺達はこんなザマだ。だから、俺達に三日間の時間を与えて欲しい」
「み、三日……ですと」
「そうだ。三日で良い。それで全てを片付ける。無理だったなら、俺達は諦める。すぐに周辺の領主から兵士を送らせよう」
エッカーが俺を見つめ、そうしてからヴァレットを見た。
本当に、そうと信じてよいのか。そう問いかける視線。ヴァレットは数秒の動揺を見せたが、しかし俺に視線を注ぎながら言う。
「え、え。構いません。我が従士の言う通り、三日の時間で終わらせられなければ、他の手段を使ってこの領土を救って見せます。ヘクティアル公爵の家紋にかけて、約束は違えません」
「お、おお……」
エッカーが脱力したようにその場で膝をつきながら、両手を重ねる。まるで祈りでも捧げるみたいに、ヴァレットに向けて言った。
「ありがとうございます、ありがとうございます公爵閣下。何卒、領民の命をお救いください……」
心配になるほど、彼は善良だった。善良すぎた。損得勘定が出来るタイプに見えない。
だからこそ、アーリシアによって見捨てられる対象にされたのだろう。この領土ならば、道具にして構わない。あの女ならその程度の判断はしてしまいそうだ。
しかし、一先ずこれでエッカーから最低限の協力は得られるだろう。現地の人間と揉めたままクエストに向かうなんていう馬鹿は避けられた。
後は、そうだな。
凄い顔で俺を見つめている、ヴァレット、アニス、リザ。三人の視線をどう受け止めるかだ。
◇◆◇◆
「どういうつもりだ異形殿! 三日は幾らなんでも譲歩しすぎだ!」
エッカー子爵館にて与えられた客室は、過剰なほどに装飾が施され、隅から隅まで掃除が行き渡っていた。
夜に出された食事も可能な限りの勢が尽くされたもので、彼からの期待が痛いほどに伝わってくる。
「ああでも言わなきゃ収まらないだろう、アニス。それに、彼は間違った事は言ってない」
――政争のために領民の命を使う。
少なくとも、アーリシアがヴァレットに売った喧嘩はそういう類のものだった。
政治のために、現実的な痛みから意識的に目を逸らす行い。
いいやアーリシアの場合、それを意識しているかさえ分からない。
それは持つ者の傲慢。持つ者というものは、持たざる者の声に耳を傾けないのではない。そこに声が存在している事さえ、理解していないのだ。
「勿論、アーリシアの喧嘩を正面から受け止めても良い。君も貴族だヴァレット。政治のために領民を見捨てるのも選択肢だろう」
やけにクッションの良い椅子に座る。正直、そろそろ本の姿に戻って休みたい。魔力の外殻を纏う時間が長すぎた。
「……ナビア商人なら、自分の得になる方を選びますが」
「いずれにせよ三日は短すぎる。せめて七日は欲しい。事前の作戦通りにするとはいえ、ろくな用意ができんぞ!」
リザやアニスが次々に言葉を交わす。
それは彼女らなりの意志の表明だったのだろう。
名誉よりも実利を求めるリザ。確実な遂行を是とするアニス。それぞれが、どのような道筋を生きてきたのか、果たして何をもって何を選ぶのか。それらが実直な言葉となって表れていた。
だが我らが主は、紅蓮の瞳を細めたまま口にする。
「……そうね、グリフの言う通り。エッカー=ロウス子爵は誤っていないわ。きっと彼が正しくて、アーリシアは誤っている。そんなアーリシアに対抗するなら、じっくりとここで時間をかけるべきでしょう」
でも、とヴァレットは言った。
凛然とした横顔が目に入る。それは湖畔都市レーベックで、たった一人でバイコーンへと立ち向かった時と同じ顔だった。
「でも、私はヘクティアル領の主よ。全ての領民を救う義務がある。――前言は曲げないわ。三日で事を治められなかったのなら、潔く立ち去りましょう」
無いはずの心臓が高鳴る。ああ、やはり、とそう思ってしまった。
愚かしいほどまでに真っすぐで、哀れなほどに美しい。
俺はきっと、この横顔に焦がれたのだ。




