第二十三話『闘争の幕開け』
夜が明け、朝が来る。茜色の朝日を浴びてもなお、俺は昨晩の事を忘れきれなかった。
ヴァレットのどろりとした瞳。絡みつくような、世界にしみ出すかのような圧倒的な感情。神聖とさえ思えるような歪み。
だが最も恐ろしいのは、その感情の底が見えなかった事だ。
改めて俺は、相対している相手の事を思い出していた。
彼女はヴァレット=ヘクティアル。――世界一つを、破滅させてしまえる女なのだ。
思う。人間が誤りに気づくのは、何時だって物事が過ぎ去った後に過ぎない。
俺は何処かで何かを間違えていないだろうか。階段を踏み外したにも関わらず、再び階段を駆け上がろうとしているのではないだろうか。
しかし、一晩の時間があっても、問いの答えを見つける事は出来なかった。
「アーリシアの従者が、改めて話をしたいと言ってきたわ。口論ではなく、意義のある会話をしたいですって。まるで私が暴力的みたいな言いぶりね」
ヴァレットは部屋を出る準備を整えながら、微笑を見せて言った。
心の内を全て吐き出したかのように、すっきりとした顔色だ。しかし何処か、昨日までの彼女とは明確に違うような気配があった。
「使用人も連れて良いらしいわ。リザ、貴方もきて頂戴」
「承知しました、オジョーサマ!」
アーリシアとの会議の場には、貴族の邸宅ならば何処にもである長机が設置された会食室が指定された。
ここからそう遠い部屋でもない。ヴァレットが準備を終えて私室から出ると、俺とアニスが続いた。
「……おい、異形殿」
「せめてグリフにしてくれ」
廊下を歩く間、アニスがひっそりと声をかけてきた。
声が少し硬い。襲撃を懸念してヴァレットの私室にあるソファで寝ていたからか、やや紫の頭髪が乱れている。
「ヴァレット殿は、何時も『ああ』なのか?」
それが何を指し示すかは、問い返すまでもない。
良かった。流石に昨日のヴァレットの様子は、アニスにさえも違和感を覚えさせるものだったらしい。
この世界ではあんなものは普通だ、と言われたらどうしようかと思っていた。
軽く首を横に振りながら言う。
「それなりに長い間いるつもりだが、初めてみた」
「昨日が特殊だったわけだ。とすると、気を付けた方が良いぞ」
何をだ。そう問いかける前に、アニスは続けた。
「一度箍が外れれば、人間は何をするか分からんものだ。そうだろう? ヴァレット殿にとって、昨日がそうであったかもしれない。それだけの話だ」
アニスは平静な顔つきで、軽く自分の首元を擦る。
「少なくとも、バイコーンの時よりずっと悪寒がした。武器も持たない相手にだぞ」
その言葉を胸中で受け止める。何かを返そうと思ったが、言葉が続かなかった。
それに――もう時間がきてしまった。会食室の扉を前にすると、異郷者の存在を示すポップアップウィンドウが目の前に現れた。やはり、彼女も来ているらしい。
「ご足労頂き感謝いたしますわ、ヴァレット公女」
本邸内の会食室。今や議場と化したそこに入ると、すでにアーリシアが席についていた。護衛は最低限。昨日のように数に任せてこちらを威圧しようという考えはないようだった。
建設的な会話がしたい、という伝言もある程度は真実が込められているらしい。
彼女に並ぶようにして、異郷旅団のヘルミナ、ルージャン司教まで列席している。恐らくは、ヘクティアル家に関わる有力組織の代表者が招集されたのだろう。
だがまぁ、彼らだけならばまだ良かった。
「……」
問題は、アーリシアの傍らに座らされている女だ。
彼女の切りそろえられた金髪は艶やかだが、その下に眠る瞳は酷く濁った輝きを発している。
彼女――デジレ=ヘクティアルは一言も発する事なく、ヴァレットを睨みつけていた。
ヴァレットもまた、デジレを一瞥するだけで言葉は交わさない。リザが引いた椅子に座り、俺を隣に指定する。
ヴァレットとアーリシアが対面になると、ようやく話が始まった。
「それで、アーリシア。私を呼びつけたのだもの、良い話をして貰えるのでしょうね」
口火を切ったのはヴァレットだ。昨日のような動揺した様子は見えない。ある意味、調子が良く見える。
「……ええ、ヴァレット公女。お互い、必要以上の話をするほど暇ではありませんもの」
アーリシアは蒼の瞳を瞬かせ、唇を滑らかに動かす。
正直、今はヴァレットの様子が一番気にかかるが、こうなってしまっては仕方がない。この会議の内容次第で彼女の今後が決まるのだ。今はこの場に集中しなければならなかった。
頭を動かし、ゲーム上で発生するイベントに思考を馳せる。
「ヘクティアルは枝葉の多い大家。些末な分家の言葉まで聞いていては幾ら時間があっても足りません。それゆえに、わたくしがその代表としてここに座っております」
「つまり、貴方の言葉はリ=ヘクティアル家の当主としてだけではなく、全て分家の言葉と受け止めて良いわけね」
「ええ、結構かと」
ヘクティアル家はリ=ヘクティアル家を筆頭に、数多の分家を持つ。
それは勢力の拡大のためでもあり、確実に血筋を継承するための生存戦略でもあった。
貴族――血縁によって地脈を支配する者は、血縁が絶える事を極端に恐れる。彼女らは血を引き継ぎ続ける事で、土地を、権利を、そうして魔力の拠り所たる紋章を継承するのだ。
自身の一族以外にそれらの財産が流出するなど耐えがたい事。
なればこそ、ヘクティアルは次々と分家を生み出し、自らの血をばらまき続けた。それはヘクティアルに大きな権力を与えるとともに、一つの脆弱性を生んでいる。
即ち、本家たるヘクティアル家当主が強権を発揮出来なければ、分家を含めた全てが瓦解しかねないという脆さ。
分家といえども、貴族にして一家の主。領土を持ち、民を有している。彼ら全てが反旗を翻してしまえば、如何に強大な本家と言えども成り立たない。
言うならば領邦国家の王と同じ宿命をヴァレットは背負っているのだ。本質的に本家と分家は協力し合う間柄でありながらも、権力を奪い合う対立者でもある。
「結局のところ、ヴァレット公女が分家の信任を得るには、力をお見せ頂くのが一番かと思います。丁度、手ごろな事案が発生していると聞いていますわ、司教」
アーリシアは、ルージャン司教へと目配せをする。彼はハンカチで額を一度拭きながら、聖職者らしいよく通る声で言った。
「え、ええ。仰る通りですリ=ヘクティアル侯爵。ヘクティアル領南部。王都に近しい地域で、魔性が活性化しているとの報告を天霊教本部から受けました。かつてないほどの規模であり……恐らくは魔女化事象の一端ではないかと」
魔女化事象。かつて魔女に支配されていたこの大陸では、強力な魔性が生まれ落ちる事をそう呼称している。
魔女化事象は人類が協力して阻むべき事案であり、領主間は勿論、時に国家間さえもそのために結託するもの。
人類同士での諍いは平和な証拠。魔女の如き魔性が生まれてしまえば、人類国家そのものが失われてしまうかもしれないのだ。
天霊教は領地、国家を超えた人類の共存を求めるために設立された。
――無論。その建前がどこまで現実に通用するかは全く別の話だが。
「異郷旅団側でも確認はしてますね~。ゴブリンやインプのような低レベルの魔性だけではなく、オーガのようなハイレベルな魔性の動きも確認されているとかぁ、もう間もなく都市部にも被害が出そうなほどです」
ちらりと、ヘルミナの眠たげな瞳がこちらをみた。その視線は棘のように痛い。
ヘルミナが何を言わんとしているかはよく理解していた。
ヘクティアル領における魔性の活発化、これは――ゲーム内で設定された強制イベント『ヘクティアルの魔境』に該当する。
湖畔都市レーベックで出会ったバイコーンも、他の魔性が活発化した事で森から追い出された個体だろう。
このイベントによってヘクティアル領内は混乱の極致に至り、アーリシアが介入する余地を広げてしまう。その結果、本家と分家が正面から衝突する『ヘクティアル東西紛争』イベントに繋がるのが本来の歴史だ。
しかし、そんな面倒な真似をさせてたまるか。
「当地の領主では治めるのが困難な様子。この機会に――」
「――ヴァレットが治めて見せる事で、力を見せろ。言いたいのはそんな所か」
アーリシアの言葉を食い取ると、彼女はゆっくりと頷いた。
「その通りです。最も明瞭で分かりやすく、原始的な方法ですわ」
力がある事を示し、威嚇し、屈服させる。君のやり方そのままだと言ってやりたかった。
だが、彼女の言う通り当主として分かりやすい方法ではある。魔性どもを鎮圧すれば、多くの分家がヴァレットに靡くだろう。
問題があるとすれば、一つ。
「……現地領主の手に余る、とは。軍隊が魔性を前に撤退したのか? 聞いた事がない規模だ」
アニスが呟いた通り、魔性の規模だった。
通常、魔性は単体、多くとも部族単位で行動するために、活性化してもさほどの規模には至らない。地方貴族が持つ私兵軍で十分追い散らせる範囲だ。
それが撃退されてしまったとなれば、部族を超える単位で魔性が集結している。そんな場所にヴァレットを送り込むというのは、つまり――。
「だからこそ、ヴァレット公女のお力を示す良い機会になるかと」
――アーリシアに思惑があるという事だ。
ヴァレットに討伐を失敗させ、その力不足を公にするか。もしくは、その場で再び殺害を試みるか。
いいや彼女の事だ、両方の手段を用意しているに違いない。
もしヴァレットが生き延びたにせよ、その名は文字通り地に落ちる。その後に、アーリシアがリ=ヘクティアル家の私兵をもって魔性を鎮圧する手はずなのだろう。
その際には当然、異郷旅団や天霊教も全力で支援するはずだ。アーリシアが当主に相応しいと喧伝するかのように、それはそれは盛大に。
予想はしていた。不利な条件は全て揃っている。何一つ良い話ではない。受けても危険ばかりがあり、受けなければ臆病者と笑われるだろう。
けれどヴァレットは、俺が口を挟む前に、至極当然とばかりに言った。
「――構わないわ。ヘクティアル領内で起こっている事は、全て私にも関わりがある事」
アーリシアが、流石に僅かに眉を上げた。こうもあっさりとヴァレットが頷くとは思っていなかったのだろう。
しかしヴァレットは意にも留めず、こう告げた。
「アーリシア、全ての分家に伝達をなさい。貴方が、彼らの代弁者なのでしょう」
「……一体何を?」
ヴァレットがゆっくりと口にする。
「私が魔女化事象を鎮めるまでに、態度を決めなさい。アーリシア、貴方もよ」
言って、ヴァレットは席を立った。この場にもはや用は無いと、そう告げているかのよう。
彼女が長机に背を向けた瞬間、一つの声が放たれた。
「っ、ヴァレット!」
その声は、彼女の実母たるデジレの口から零れたもの。
ヴァレットが本邸に帰還したあの夜以来、二人は会話を交わしていない。ヴァレットも、返事をしようとはしなかった。
ただデジレだけが叫ぶように言う。
「お前に、本当の味方などいない。誰一人、誰一人だ! 忘れるな!」
噛みつくような、呪うようなそれ。そこに謀略はなく、ただ感情だけがあった。
思う。間違いなく、彼女らは親子なのだ。
ヴァレットは背中を向けたまま、言った。
「どうか、お母さまもお気を付けて。誰が味方で誰が敵かなど、分かりませんから」
そのまま、ヴァレットは部屋を後にした。不思議な余韻が、空気に入り込んでいた。
まるでそれは、戦場を前にした血の気が引くような静けさであった。誰もが、感じていたのだ。
今日この日ここに集った人間が、もう一度集まる事はないだろう。
きっと誰かが死に、誰かが失われ、誰かだけが生き延びる。
何故なら誰もがこの闘争の当事者で、誰もがこの闘争から抜け出す気など、更々ないのだから。




