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第二十二話『狂気の在処』

「そう。では、グリフ――わたくしの従士になりません事? 決して退屈はさせませんわ」


 アーリシア=リ=ヘクティアルの唐突な宣告。彼女の柔らかな指先が、優雅な振る舞いで俺の手を掴み取っていた。笑みは年相応の女性のように朗らかで、作り物なのか定かではない。


 謀略の名手であり陰謀を愛する彼女にとって、情動とは突き動かされるものではない。自ら操作してみせるもの。この表情さえも、どれほどの真実が込められているか定かではない。


 たった一つ。間違いがないのは。


「――私の従士から手を離しなさい、アーリシア=リ=ヘクティアルッ!」


 俺のご主事様、ヴァレットはもはや感情の落としどころを失ったという事だ。


 邸宅に踏み入っただけではなく、従士を奪い取ろうとする態度は当主への宣戦布告と同じ。


 間違いなく、アーリシアもそれを狙ったのだろう。


「ヘクティアルの従士に手を出すとは、覚悟は出来ているのでしょうね」


 ヴァレットの全身から怒気が滲み出る。先ほどまでアーリシアを前に見せていた気負いはない。純然たる敵意と憎悪に満ちている。


 いや本当に、今にもアーリシアの喉首に噛みつかん勢いだ。


 そこまで感情に身を任せろといった覚えはない。待ってくれ。


 反射的に、バグリッシを始めとした騎士たちも身構えている。ヴァレットが動いたならば、躊躇なく剣を抜きかねない。いいやむしろ、彼らはそのためにここにいるかもしれなかった。


「待て待て。そこまで大層に対応してもらうほどの事じゃない。アニス、我らが公爵閣下を止めてくれ」


「う、うむ。ヴァレット殿、流石に素手では数の分が悪い。落ち着かれよ」


 アニス。お前も少しずれてるぞ。数の分があったらアーリシアを殺していたかのような発言をするな。

 

「っ――グリフッ!」


 だがそれでもご主人様は落ち着かなかったらしい。獰猛な牙を見せる勢いで俺を睨みつけてみせる。


 おいおい、まさか俺が本当にこのまま裏切ると思っているわけでもあるまいに。


 吐息を漏らしながら、俺の手を取ったままのアーリシアへと視線を向ける。


 痛いほどの視線を周囲全てから浴びながら口を開いた。


「折角のお誘いだが、俺の主人は五年前からヴァレット=ヘクティアル一人だ。他の誰かにつく気もない。悪いが、丁重にお断りしよう」


「そう、残念ですわね。……後悔しますわよ」


 アーリシアはそっと手を離すと、名残惜しそうな様子を見せて口にした。


 これもまた演技なのだろう。末恐ろしい。人間とはこれほどに感情を偽り、仮面を被れるものなのだ。


 自分とは別の人格を、自分自身より上に置ける。これもまた、貴族の資質と言えるのかもしれない。


 彼女は一歩を引くと、改めて礼を尽くすように言った。


「わたくしはヘクティアルの分家。本流たるヘクティアル家に逆らう気はございません。ただ、当主の座についていただくのにも、手続きというものがありましょう」


 未だ憤激の牙を隠しきれないヴァレットを抑えつけるように、アーリシアは告げた。


「他の分家の意見も統括して参りました。――後日、デジレ叔母様もお呼びし、改めて場を整えましょう」


 ◇◆◇◆


 ヴァレット=ヘクティアルは早足で私室に戻り、扉を閉じる。ともに部屋に入ったグリフとアニスが見守る中、吐息を幾度か繰り返し、胸中をなだめる。


 しかし全く、熱が冷めない。思わずヴァレットは眦をつり上げながら歯噛みした。


 ねじくれてしまいそうな情動は、胸を押しつぶさんばかりに拡大している。


「オジョーサマ、おかえりなさいませ! ご気分は如何でありますか?」


 新たにアニスを引き連れて帰っても、リザは平時と変わらない様子でヴァレットを出迎えた。


 今この瞬間は、その空気の読めない言動こそヴァレットの救いだった。彼女に下手に気を使われるよりずっと良い。


「……良いとは言えないわ。濃い紅茶をいれて頂戴」


「承知であります!」


 椅子に腰かけ、全身をすっかり預けてしまってから口にする。それ一つが重労働だった。


 リザが紅茶を用意してくれている中、アニスがヴァレットの顔を覗き込んだ。


「しかし、不可思議だ。バイコーンを相手に見せた『魔法』の手管を使えば、あの人数でも相手にならないだろうに。どうして使わない?」


 武芸者らしい率直な意見だった。


 彼女らに政治という考えは通用しない。力は力によって討ち果たされるべきものであり、生き残るは常に力強きもの。背後に残るのは屍しかない。


 そんな世界観に、彼女は生きている。


 清々しいな、とヴァレットは僅かに頬を緩めた。羨ましくもあり、心地よくもある。彼女のような世界で生きられれば、どれほど真っすぐに生きられるものか。


「アレはそう簡単に人前で使えるもんじゃないのさ。見ただろ、普通の魔法とはわけが違う」


「まぁ、見ているだけで悪寒がするのはそうだが、使えるものは使うべきだろうに」


 グリフが間に入ったが、アニスはまだ満足していないようだった。彼女の美学に反するとでも言いたげだ。


 あの魔法――実際には魔導は、本来人前で易々と使えるものではない。


 魔女の絶対権能であり、他者をひれ伏せさせるための技法。


 更には、忌々しい狂乱と名のつく属性。


 適性について告げられた時、ヴァレットは反発しながらも何処か受け入れている自分にも気づいていた。


 ああ、やはり。前向きではない。そんな後ろ向きの諦念。


 実を言うと、ヴァレットは物心ついた時にすでに多くのものを諦めていた。

 

 人生を、権利を、人並の幸福を、何より自分自身を。とっくの昔に彼女は、自分自身をただの人形に過ぎないと答えを出していた。


 必要がなくなれば捨て去られ、誰にも顧みられない人の形をしただけのモノ。


 デジレの虐待そのものの行いと、それに追随する使用人らの振る舞い。幼いヴァレットの尊厳をどれほど踏み躙り、多くのものを失わせた事か。今もなお、ヴァレットはその渦中にいる。


 ゆっくりと、彼女の唇が動いた。


「グリフ」


 だからこそ彼女は信じたのだ。自分はきっと、最後はぐちゃぐちゃの肉片になって、酷い目にあって終わりを告げる。そんな自分に、福音が告げられるはずがない。


 狂乱属性という宿命も、お似合いに思えた。きっとろくな目にあわない。魔導なぞという強大な力を手にしても、いずれ誰かに奪われてしまうのだろう。


 そう――アーリシアのような輩に。


「どうしたヴァレット。アーリシアが言っていた分家どもの意見の件なら、まぁ大体想像はつく」


 魔力によって構成された外殻を軽く動かしながらグリフは言う。


「大方、分家どもの代表として、無理難題を押し付けて来る気だろう。異郷旅団やデジレ、ルージャン司教を味方につけた上でな。上手いといえば上手いが、狡いやり口だ」


 彼は聡明だ。そうヴァレットは思う。


 人の悪意を読み取る事しか能がない自分と違い、淡々と場の流れを掴み取ってみせる。今日アーリシアに叩き潰されなかったのは、彼が前に出てくれたからだ。

 

「で、どうするのだ。その場で奇襲でもかけるのか」


「アニス。武力行使から離れてくれ」


「無茶を言うな! 己に死ねというようなものだ!」


 アニスの言動にグリフは頭を抱えた素振りを見せながら、続ける。


「まぁ、やりようはあるさ。アーリシアは少し、上手くやろうとしすぎる。外堀を幾重にも埋めて、味方もこれでもかと造り上げて来る。だがそんなやり方は、一つ崩れれば全部崩れるもんだ」


 グリフは笑みのようなものを浮かべてヴァレットを見た。恐らくは彼女を安心させようとしたのだろう。


 その形相は魔的だ。魔力の流動によって常に少し変わって見え、時に骸骨のように、時に仮面のようにさえ見える。とても人に好かれる様相ではない。


 だが、ヴァレットにとっては何よりも落ち着く表情だった。いいや別に、魔力の外殻など纏わなくても良い。ただ傍にいてくれるだけでも良かった。


 ずっと、そうしてきたように。


「その話じゃないわ。アーリシアやお母さまへの心配なんてするものですか。そんなもの無意味でしょう」


 彼女らの悪意が、どんな展開を呼び込むのか。その点の予想においては、ヴァレットも自信があった。


 グリフのように上手く捌けるかは分からないが、それでも心配する事ではない。ヴァレットにとって、終わるべき時に終わるのは不安につながらない。


 心を揺るがすのはただ一つ。


 ヴァレットは両手で彼の頬に触れた。正確には、頬と思われる場所へ。


 そうしてから、唯一気がかりだった問いを発する。


「グリフ、貴方――アーリシアに誘われた時、少しでもあの子についていこうと思った?」


 頭の中が、得体の知れないもので染まっていく感触をヴァレットは味わっていた。


 気味が悪いが、しかし酷く心地よい。


「ヴァレット?」


「答えなさい。それとも、答えられない?」


 グリフの困惑に似た問いかけを、ヴァレットは噛み潰す。


 紅蓮の瞳が驚くほどの純度で魔を見ていた。アニスも、紅茶を持って帰って来たリザも流石に言葉を呑む。


「……思うわけがないだろ。それに彼女だって本気じゃないさ。アレは君への挑発行為だ」


 分かっているだろう、そんな様子でグリフが言う。


 しかし、分かっていないのは彼だとヴァレットは断言する。


 アーリシアは、謀略を得意とする。必要あれば手段は問わない。


 だが。


「分かってないわね。あの子は、無能や気に食わない人間を配下に加えるような間抜けじゃない。それもよりによって、傍仕えになる従士にしようだなんて思うはずがないじゃない」


 グリフはきっと、アレの何かに響いたのだ。そうしてアレは、躊躇なくその手を取ろうとした。


 理解不能な感情がヴァレットの脳髄と肺腑を焼き尽くす。


「グリフ。私はね、自分自身をどうだって良いと思っていたわ。死ぬときは、何時だって死ぬ。人間なんてそんなものでしょう。でもね、もし貴方が私の手元から離れるなら」


 その時は。


 そう言いながら、ヴァレットは自然と笑みを浮かべていた。全てを焼き尽くされた後の感情は、思った以上に清々しかった。


「――私だけでなく、他の全てがどうなっても構わないと、そう思うわ。何もかも滅茶苦茶になって、誰も何も残らなくても構わない。そんな気分よ」


 アニスやリザは勿論、恐らくはグリフさえ今日この日まで実感していなかった。


 ヴァレットに魔導をもたらしたのは、間違いなく大魔導書たるグリフ。彼なくしてヴァレットは力を行使できず、再び死の運命をたどるしかない。


 しかしながら。


 ――狂乱の魔導の根源たる感情は、常に彼女の奥底に眠っている。


 とあるゲームにおいて、世界を破滅に導くのは、紛れもなくその感情そのものなのだ。

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