第一話『始まりの鐘』
ゴォン、ゴォオオン。日付の変更を告げる鐘の音。
天霊教会から響き渡る音は、地を這う荘厳さと背筋を刺す剣呑さが絡み合っていた。
ヴァレット=ヘクティアルは血塗れになりながら、十七歳の誕生日を迎えた。
よって先代当主の定めにより――彼女がヘクティアル家の当主である。
「相変わらずうるせぇな。もう日が変わったのかよ」
「おい、良かったな。今日からお前が当主だ。ここで死んじまうがな!」
兵の一人が脚を大きくあげ、ヴァレットの頭蓋を蹴り砕く勢いで振るった。
弱り切った彼女の身体では受け止めきれない。ボロ雑巾の如く、彼女は死ぬだろう。
兵士たちは自分達の残虐な欲求を満たし、満足して雇い主の前に戻ったはずだ。
――昨日までならば。
「……おい、何だよ、それ」
兵の一人が言う。赤黒い靄が、ヴァレットに絡みついていた。それは兵の脚を受け止め、彼女全体を覆い尽くしていく。
血のように赤く、暗闇のように黒い靄。
それはどんどんと量を増やし、彼女の姿を見えなくしていく。
「ッ! おい! 殺せ、早く!」
兵の内一人が、即座に現実に対応した。
今までのような遊びではなく、槍を持って勢いよくヴァレットに向け突き刺す。
だが、通らない。
槍は靄に絡めとられ、そのまま『分解』されていく。穂先の鉄が崩れ、持ち手の木材が粉々になって地面に落ちた。続けざまに振り抜かれる他の槍や剣も同様だ。
ここに至って、兵達が顔を青ざめさせている。
自分達には何かを間違ったと、そう気づいたのだ。
「――ヴァレット。君が当主になるまで長かったな。堪えきれなくなりそうだった」
大魔導書グリフ。三大霊性の一。かつて魔女のみが扱った魔導を、人に伝導するもの。
ゲーム『アテルドミナ』における契約条件はただ一つ。
その者が、ヘクティアル家当主である事。プレイヤーが条件を満たすのは大変だが、ヴァレットはただそこにあるだけで条件を満たせる。
十七歳となった、今この時であれば。
「貴方、グリ、フ……?」
ヴァレットが靄に包まれたまま、声を返す。
契約者が出来た今、俺の声はようやく外界にも響くようになったらしい。良かった。全てが俺の妄想だったらどうしようかと。
「ん、だよこれ。何が――」
目の前には、武器を失った兵どもが狼狽えている。彼らの使命はヴァレットを殺す事。
しかし今、魔導書から漏れ出る奇妙な靄が全てを分解してしまう。
このままでは、使命を果たせない。そうなれば、今度は自分達の命が危うい。ただでさえ、次期当主の首を取るという危うい使命。失敗したとなれば、口封じに殺されても何ら不思議はない。
「――なぁ、聞きたいんだが」
「な、誰だ! どこにいる!?」
俺の声が響くようになると、兵達の動揺は深まる。
逃げ出す素振りを見せる奴さえいた。けれどそいつは駄目だ。
お前ら、揃いも揃ってヴァレットを殺しにきたわけだろう?
なら、失敗した時は死んでも仕方がない。少なくとも、俺はそう思う。
「ここでお前らが死んでくれれば、一先ずは解決だよな?」
返事は聞かなかった。俺を中心に、赤黒い靄が増大していく。
契約者が出来た以上、多少の魔力を拝借し、単独で魔導行使に導いてやるくらいは出来る。
発動した魔導は――『貪欲の靄』。
触れた物体を悉く分解し、呑み込み続ける水属性の魔導。かつて魔女が行使した際には、町一つをこれで食い尽くした事もあるという、いわくつきだ。
それが今、急速に物置全体を覆い尽くし、兵達を追い詰めている。
「ふざけ、ふざけんな! こんな事聞いてねぇぞ!」
「ぁ、ぁぁああ゛!? なんで、こんな!?」
扉が靄に包まれた瞬間、そこに触れた兵の手が分解される。
骨の白さと、肉と血の赤がはっきりと見えた。絶叫をあげる兵を後目に、彼らの全身を靄に覆い包んでいく。これで声も聞こえない。
後はただ、死ぬだけ。
残酷な事だった。以前の世界にいた俺だったら、こうまでしただろうか。しなかったかもしれない。
だが、長年ともにいた相方の恨みを晴らしてやるくらいは許されるだろう。
「ヴァレット、聞こえるな。ここでお前に死んで貰っちゃ困る。俺もお前以外を主人にするつもりは今のところない」
「……夢、かしら。貴方が話してるように聞こえるわ」
兵士たちを『分解』し尽くし、貪欲の靄は少しずつその姿を消していく。残ったのは、血塗れのヴァレットと俺だけだ。
彼女の意識は朦朧とし、このままでは危うい。
「残念ながら現実だ。じっとしててくれ」
ゆっくりと、魔力を絡ませた声を響かせる。
「『四界の門を開き』『ここを寄る辺とし』『癒しを与えよ』――魔導展開『生命の息吹』」
設定的には、肉体だけではなく魂の傷をも癒すとされる特別な品だ。
高級な魔導だが、ヴァレット相手に出し惜しみする必要はない。魔導書内にため込んだ魔力もそう長くはもたなそうだが、何の問題がある。
知った顔が目の前で死んじまう事の方が、俺にはよっぽど重大だ。
「どうだ。マシになっただろう。これでも大魔導書様だ、効果はあるはずだがね」
言うまでもなく、ヴァレットの傷はみるみる内に癒えていく。
服に傷が入ってはいるが、身体は万全なはずだ。失った血液も、生命活動に必要な分は補給される。
魔導とは、それほどのものなのだ。
そもそも、大魔導書グリフ自体、ゲーム内の隠しアイテムなのだから当然だった。
――『製作者』の一人である俺が、気まぐれで込めたイースターエッグプログラムであり、ゲーム内の規格を超えたお遊び。
本来、プレイヤーには絶対に使えない敵専用アビリティたる『魔導』の習得を可能にした代物。
だからこその、大魔導書。
ヴァレットは自分の指先が再び存在する事に感動したように数度手を握りしめ、そして再び俺を掴み込んだ。
「グリフ」
「礼は言ってくれなくていいぜ、ヴァレット」
てっきり、感涙でも見せながら胸元に抱き寄せてくれるのかと思ったが。
どうやら違うらしい。
ヴァレットは眦をつりあげながら、ひくひくと頬をひくつかせている。
「……感謝はするけれど。貴方、口が利けるならどうして今まで話さなかったわけ?」
「えっ」
もしかしなくとも、お怒りでいらっしゃる。
予想外の展開だ。褒められはすれ、責められるとは思ってもいなかった。
「いや、それはお前が契約者になる資格を得るのが、十七歳になってからだからで……」
「とはいえ上手くやれば話す事くらい出来たんじゃなくて!?」
そう言われても。
そりゃ出来る限りの試行錯誤をしたか、と言われると甘えはあったかもしれないが。
「だが別に今話せるんだ、それで良いだろう?」
しかしヴァレットは、震える両手で俺を掴みながら言う。
まるで縋るような、祈るような声だった。
「……貴方が喋れたなら、毎日がもう少しマシだったじゃない」
それは、どういう。
意味を聞く前に、ヴァレットは俺を胸元に抱き寄せた。その場に座り込み、静かに涙を零している。
流石に、ここで声をかけるほど野暮じゃない。柔らかな感触がどうとか、子供時代から知ってる相手に思いたくなかった。
ヴァレットにしては珍しい感情の発露。しかしこれは、ある意味当然だったのかもしれない。
彼女は今まで一人で戦ってきた。一人で生きて来た。ずっとずっと生き抜いてきたのだ。
今、ようやく俺は彼女の手元にはいてやれる。魔導書なんて、ちっぽけな存在だが。なら暫し、その感情を受け止めてやるべきだ。
そう、思ったとほぼ同時だった。
新手の声が響いてくる。
「んぅ~。兵士さん達は何処いったんですかねぇ。もうそろそろ終わってて良い時間なんですけどぉ」
続いて、ピコンという場違いなアラーム音が鳴った。俺の眼前に一つのウィンドウメッセージが現れる。
何だこれ。ゲームの中の仕様が、この世界でも生きてたなんざ初めて知ったぞ。
その内容に、思わず目を疑った。
――他の異郷者と接触しました。