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第十八話『反逆者デジレ=ヘクティアル』

 デジレ=ヘクティアルの気分は最悪だった。喉を搔きむしりたくなる苛立ちを、赤ワインを流し込んで無理やり洗い流す。

 

「早く替わりを持ってこないか! あたしを苛立たせるな!」


 彼女の怒声に怯えるように、使用人がワインボトルを持って駆け寄る。


 憎悪すべき実子――ヴァレット=ヘクティアルが生還した日から、デジレはずっとこの調子だった。


 目の前にあったはずの勝利が、栄誉が、奴一人のために脆くも崩れ去ってしまった。


 余りにも耐えがたい屈辱と焦燥感。


「奥様。度が過ぎてはおられませんか」


「ッ!」


 従者のように控える男、アーリシア=リ=ヘクティアルが名代ナトゥス。


 一切の礼儀を欠かないこの男を、デジレは憎悪すべき敵でも見たかのように睨みつけた。


「黙れ! 全てはお前たちが無能なのが悪いのではないか! リ=ヘクティアルの兵は惰弱ばかりか!」


「反論の余地もございませんな」


 ナトゥスは軽く頭を下げたまま、デジレの面罵を受け止める。


 実際、そう反論出来たものでもなかった。


 ヴァレットが当主となったあの夜。リ=ヘクティアルが貸し出した兵が彼女の命を奪ってさえいれば、全ては上手くいっていた。まさか逆らう手段もない少女一人を、訓練を受けた兵が取り逃すはずがなかった。更には異郷者も手を打っていたと聞く。万全に万全を期したはずだった。


 しかし――彼女は生き残った。生き残ってしまった。


 結果、デジレを中心とした諸勢力の思惑は悉く崩壊した。無論、デジレ自身にそこまで思いを馳せる能力はない。ただただ、自分の不遇を嘆くのみだ。


「ですが、ご安心を。我らを始めとして、異郷旅団や天霊教も未だ奥様への忠誠を誓っております。決して、ご息女に肩入れする事はないでしょう」


 事実だ。彼らはデジレの勝利を前提として投資をしている。その投資金を回収するまで、デジレを見捨てる真似は出来ない。


 しかしデジレは眉間に深い皺を寄せると、錆びついた声で言った。


「……アレを息女と呼ぶな。アレはあたしの子ではない」


 そう言い切って、デジレは新たに注がれたワインに唇を浸した。


「失礼しました」


 ナトゥスは深く切り込む事はしなかった。意味がないし、それがデジレの急所だと理解していたからだ。


 実際の所、間違いなくヴァレットはデジレの実子である。そうでなくて、どうしてヘクティアル家の継承者となれようか。


 ヘクティアルの血を継ぐ者だからこそ紋章は受け継がれ、前当主は彼女を跡継ぎに選んだ。


 それは分かっている。当然の話だ。だが、それを受け止めきれるかは当人次第だろうとデジレは思う。


 デジレはリ=ヘクティアルの系譜に近い分家の娘だ。決して貧しい幼少期では無かったし、不幸でなかったとは言わないが、庶民に生まれるよりはずっと幸福であっただろう。


 いいやその上、本家たるヘクティアル家の当主に見初められたのだ。これ以上は望めない。そう断言しても良い幸福。


 ――分家の人間としては、だが。

 

 しかしデジレが幸福の絶頂にいられたのは、ヴァレットを産み落とすまでだった。


 ヴァレットの顔を見た瞬間、湧き出たのは歓喜と――大いなる疑問だ。


 待てよ。


 どうしてこの子供は、生まれた時から将来が約束されているのだ?


 どうしてあたしの娘であるのに、あたしが背負った苦しみを背負わずに生きていけるのか?


 分家。それも本家から遠くかけ離れてしまった血筋。


 かつて本家の人間は勿論、使用人からさえ侮蔑に近い視線を向けられたことをデジレは覚えている。


 貴族という血筋と権威が何よりものを言う社会において、幾度辱められた事か、幾度見くびられた事か。日常は幸福でありながら、常に不安に苛まれていた。


 その不幸を、ヴァレットは永遠に知らないまま終えるのだ。


「あたしに、子はいない。ヘクティアル家はこのデジレ=ヘクティアルのものだ。人は何時だって名に従う。その名をようやく手に入れたんだ!」


 デジレが猛烈な勢いで言う。ナトゥスは無言のままに受け止めながら、話題をゆっくりと切り替えた。


「……奥様。改めてご報告がございます」


「報告?」


 怪訝そうにデジレが返した。頬には言葉を弄ぶ笑みが浮かんでいる。


「またお前らが何かを失敗した、という話か? 無能話なら聞き飽きたぞ。異郷旅団も、ルージャン司教もまるで当てにならん。何時になったらお前らはまともな話を持ってくるんだ」


 皮肉と嘲笑に満ちた言葉だったが、ナトゥスは表情一つ変えずに言った。


「そのルージャン司教からですが、至急お耳に入れたい話があるとの事。ご息女、いえ公女近辺の者を引き入れられたとか。金銭を積んだのでしょう。これで相手方の動きはつぶさに観測できます」


「ふん。あの男に出来るのはそれだけだ。金を積む以外に能がない」


 嫌味を言いながらも、デジレはナトゥスの話を大人しく聞いた。どうやら、悪い報告ではないと理解したらしい。


 ナトゥスは口調を整えながら言葉を続ける。


「また、リ=ヘクティアル領の盗賊騒ぎが治まったとの報告がありました。もう間もなく、我が主人――アーリシア侯爵が到着されるはずです」


「なっ!?」


 この日初めて、デジレが動揺した表情を見せた。


 アーリシア=リ=ヘクティアル侯爵。分家筆頭の彼女が直接足を運ぶとなれば、流石に軍勢は引き連れられないだろうが、周囲の近衛騎士を伴っているはず。


 ヘクティアル本家の私兵たちは、未だ家内の状況を静観していた。前当主の妻たるデジレ、現当主たるヴァレット。明確にどちらへの恭順を示す事なく、ただ訓練を続けるのみだ。


 恐らくは、家内の事柄に口を出す気がないのだろう。ヴァレットかデジレ、どちらかに軍配が上がるまで今の立場を堅持するはず。


 それならば、アーリシアの近衛騎士と異郷旅団がいれば武力としては十分だ。


 それに分家筆頭たるアーリシアがデジレを正式な当主と認めれば、前当主の遺言を無視する形になるとはいえ、他の諸侯も追随するはず。


 デジレにとっては、福音と呼んでも良い出来事だ。


 しかし、彼女は唇を強く引き締めながら言った。


「……何時、こちらに来る? すぐにではないだろう」


 まるで神妙に、語りたくないものを口にする様子だった。


 先ほどまで流し込んでいたワインが、途端に喉を通らなくなる。


「いえ、こちらに連絡が来るのが遅れておりましたが。随分前に領地をたたれたようです。もう、間もなくこちらに到着いただけるかと」


「アーリシア本人が、か」


 喜ばしいはずの知らせに、デジレは顔をひきつらせていた。


 分家出身であるがゆえに、デジレはアーリシアがどういう女かよく知っている。


 まだ年若いにも関わらず、その駆け引きの上手さだけでリ=ヘクティアル家の当主に成り上がった女。謀略の主であり、彼女の手元には常に誰かの命が握られているとさえ言われる。


 素行だけを見れば、醜悪なゴブリンのような女だ。食らいついたものは決して逃がさず、食い尽くすまで止まらない。


 デジレがヘクティアル当主についた後ならば良かった。アーリシアとの上下は明確になっている。彼女は否応なく頭を下げざるを得ない。


 しかし、今この混沌とした状況でアーリシアはどう動く。


 本当にデジレの味方となるのか? それとも、全く別の思惑を抱えているのか。


 デジレは自分の能力の限界をよく知っている。だから恥も外聞もなく、周囲の力を借りる。


 けれども、不意に思った。考えてしまった。

 

 ――この状況、最も得をしているのはアーリシアではないか。


 ヘクティアル本家の当主位がヴァレットとデジレによって争われ、諸侯は態度を決められず、兵力はまともに動かせない。ヘクティアル公爵家全体が、凍り付いたような混乱に襲われている。


 この状況を作り出したのは誰だ。ヴァレットを殺す為に用意された兵は、やけに質が悪くなかったか。


 デジレが頭を痛めた瞬間に、来客のベルが鳴った。


「案内は結構よ」


「お、お待ちください!」


 使用人が声をあげるが、押し留める暇もない。優雅な足音とともに、声が響き渡る。


 ――女は、当然のように部屋へと入り込んできた。


「あら――まだ日も高いというのに、随分とお酒を嗜まれていますこと」


 左右に武装した従者を引き連れ、当人自身はいくつもの絢爛な装飾をつけたドレスで着飾る。


 手にはめた白く美しい手袋だけで、一体どれほどの値段がするものか想像もつかない。


 しかし数多の装飾の中、最も輝かしいのは彼女自身だった。


 美麗な蒼の瞳と、くるりと巻かれた頭髪。ドレスに着られるのではなく完全に着こなし、それでいて尊大に見せない。まるで彼女のために世界が用意したのだと言わんばかり。


 容貌は誰もが振り向く彫刻のようであるのに、瞳の奥にはぎらぎらとした熱が存在している。


 そう、熱量だ。アーリシアから発される熱は、彼女自身を世界から隔絶させている。恐ろしさすら感じるほどの熱さ。


「感心しませんわね。わたくしもお酒は嗜みますが、量が過ぎれば毒となるもの」


「ぅ、あ……アーリシア」


「ご安心なさいませ。わたくしが必ず、親愛なるデジレ叔母様のお力になって見せますわ」


 ――輝かしい熱量とともに、アーリシア=リ=ヘクティアルは微笑を浮かべながら言った。


 デジレはただ、思っていた。今さらながら、疑問を感じていた。


 自分は、本当は薬ではなく、毒を飲み込んでしまったのではないか?


 もはや意味をなさない疑問が、ただデジレの脳内で響いていた。

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