第十七話『役者は集う』
アーリシア=リ=ヘクティアル。
分家筆頭たるリ=ヘクティアル家の首魁にして、デジレ=ヘクティアルに与する者。
だが。
リ=ヘクティアル家の領地は湖畔都市レーベックの遥か東方。馬車での旅でも辿り着くまでに一か月以上がかかる距離だ。ヴァレットの当主就任を知ってから動いたわけではないはず。
即ち、アーリシアはこの時期にこの場へ到着しておくべき理由があり、そのための謀略がある。
「どうするヴァレット、何か企んでるのは間違いない」
デジレがヴァレットから簒奪した当主の地位を奪う予定だったのか。それとも、デジレに対して仮初の忠誠を誓うはずだったのか。
考えればキリがない。
アーリシアはゲーム上でも謀略の主として描かれる。本来の歴史ならば、数年後には彼女の手によってヘクティアル家内の東西紛争が勃発し、ヴァレットはその対応に忙殺される。
その後はヴァレットが家内を統括するものの、ヘクティアル家自体はローティス連合王国内での影響力を失う未来にあった。
――それこそが、ヴァレットの破滅に繋がる序章と言っても良い。
「……どうするもこうするもないわよ。当主は私、彼女は私の家臣。それ以上があって?」
ヴァレットは窓の外を進む馬車の列を見ながら、心ここにあらずといった様子で呟いた。
明らかに強がりは含まれている。顔つきは青みを持ち、何処か怯えているようにも見えた。
仕方のない事だった。
ヴァレットは膝元のレーベックへの視察ですら、護衛や従者を引き連れられない。だというのにアーリシアは、まるで自らが主人とでも語るように、数多の馬車と騎士を率いている。
実際の立場は別としても、どちらがより権勢を保持しているか。その一点で見るなら、ヴァレットが勝ち得る点はなかった。
アーリシアがこうも素早く行動をとって来るのは想定の外。ヴァレットはデジレだけではなく、アーリシア本人とも正面から立ち向かう必要が出て来た。
「……アーリシア殿とは余り上手くいっていない、といった所か?」
「否定は出来ないな」
アニスの問いかけに、軽く肩を竦めて返す。
嘘を吐く必要はなかった。軽く調べれば、今のヴァレットがどんな状況にあるかはすぐに知れる。
「――帰るわよ、グリフ。あんなもの見たくないわ」
ヴァレットは自らに言い聞かせる様子で言って、窓から視線を背ける。
見たくないものから目を逸らす素振りだった。
「おい待て、少し落ち着け」
「落ち着いてるわよ! 私の何処が焦ってるというの!」
彼女の肩に魔力で造った指を置く。途端、感情が噴き上がった紅蓮の瞳が俺を貫いた。
将来を彷彿とさせるような形相。美人だからこそ、迫力が凄まじい。
俺とて、出来れば彼女の言う通りにさせてやりたいが。
「少なくとも、冷静じゃあないさ。君らしくもないな。よく考えてもみろ、今すぐ宿を出て馬車に乗るかどうかで、状況が変わるか?」
背景はどうあれ、アーリシアはもうレーベックに到着しているのだ。ヘクティアル本邸は目と鼻の先。その事実はどう足掻いても動かない。
「今は、この先どうするかだろう。アーリシア本人がいるのでは、デジレの出方が違うはずだ。こちらの攻め方も守り方も変わる」
「…………」
ヴァレットは明らかに憤激を抱えながら、肩に置いた俺の手を握りしめた。紅蓮の瞳には昏い感情が渦巻き、今にも飛び掛かりそうな勢い。
がちりと彼女の犬歯が強く噛み合う音。しかし同時、ぼそりとその唇が声を出す。
「……ごめんなさい。冷静じゃなかったわ。ええ、その通りよ」
大きな呼気が吐き出される。ヴァレットは軽く目元を抑えつけて、ベッドに再び座り込んだ。
「馬鹿をやってる場合じゃないわ。どうかしてるわね、私。無暗に動いても意味がないなんて、誰よりも分かってるはずなのに。必要なのは事実であって、悲観的観測じゃない」
ヴァレットは前髪を弄りつつ、呼吸を整えるように言葉をまき散らす。
「グリフ。次からは私の事は殴って止めて」
「ふざけんな、物騒すぎるだろ!」
「駄目よ。私、自分で思ってるより冷静じゃないみたい」
恐らくはバイコーンと対峙した時からそうだったのだろう。あの時もヴァレットは明らかに冷静さを欠いていた。本来の彼女であれば、あり得ない光景だ。
彼女が自覚出来ないほどに、実母との対立状態は彼女の精神を締め上げていたらしい。
「よろしいかな?」
ヴァレットが落ち着いたのをみて、アニスが腰元の刀を軽く傾けて言う。
先ほどまでは何処か柔らかな雰囲気を保っていた彼女だが、今は何処か厳粛なものを纏っている。ある意味で、非常に武芸者らしい様子だった。
「詳細は知りかねるが、どうやら物騒な状態である事に間違いはないようだな」
「まぁ、ここでゆっくりショッピングを楽しむわけにはいかなくなった。君も余り俺達と関わり合いにならない方がいいかもな」
ただでさえ今、ヴァレットの周囲には味方がいない。下手に関わりがあると認識されれば、アニスにさえ被害が及びかねなかった。
一度談笑をした程度の間柄に過ぎないが、それでも巻き込んでしまうと寝ざめが悪い。俺より、特にヴァレットがそう思うはずだった。
しかしアニスは、俺の思惑とは全く正反対の事を口にする。
「いいや。そうはいかん。己は恩を受けて、未だその恩を返せていない」
ヴァレットが目を丸くして、惚けたように口を開く。一瞬、アニスが何を口走っているのか理解出来なかったのだ。
その間にも、アニスは紫色の頭髪を艶やかに輝かせて言葉を続ける。
「――未熟な己は、誰かに仕える事は出来ん。だが、未熟であれ恩を返さない人間は低俗だ。人間はそうあるべきでないと、己は信じている」
その場に、アニスが膝をついた。恭しく主人に仕えるかのような振る舞いだった。
「ヴァレット殿。今ひとたび、貴君の災いが過ぎ去るまで、恩返しの機会を貰えないか。未熟でも、盾くらいにはなれるだろう」
それは紛れもなく、武芸者としての矜持があふれ出た言葉であり、アニス=アールビアノそのものであった。
完全な仲間ではない。しかし敵ではなく、味方として手を取ってくれると言う。明らかにヴァレット側が不利だと理解しているだろうに、彼女は当然のようにヴァレットを選んだ。
それは惚れ惚れしそうなほどの精神の美しさだった。不安になるほどの透徹さだった。
「……悪いけれど、私が一歩間違えば貴方も破滅するのよ。勝ち目なんて最初からないのかもしれないわ。それに私だって、善良な人間とは到底言えないもの」
「己は善悪を問うた事は生涯一度もない。善もなく悪もなく、斬られれば死ぬ。武芸者とはそのようなものであるし、己はそのような世界でしか生きられない」
だから、とアニスは言葉を継いだ。
「だからせめて、受けた恩は必ず返す。その程度の信条は守っておきたいのだ、ヴァレット殿」
アニスがゆったりと持ち上げた顔を見て、ヴァレットは頬を柔らかく緩める。
それは一人の少女の顔ではなく、領主としての顔だった。広大な領地を呑み込み、数多の人間を懐に抱える人間の表情。
声色をやや重くして、ヴァレットが言葉を継ぐ。
「良いでしょう、アニス=アールビアノ。ヴァレット=ヘクティアルに力を貸し、恩を返す事を許します。私も、私の窮地に貴方がいてくれた事を決して忘れないでしょう」
「有難きお言葉。必ずや、お力になってみせましょう」
形式に従った言葉を、ヴァレットとアニスが紡いだ。
個人的には、素晴らしい事だった。俺は両者を接触させただけ。しかしその両者が、こうして手を取り合ってくれている。アニスは良くも悪くも、ヴァレットを裏切る真似はしない。
――俺も、何時までもヴァレットの手元にあるわけにはいかないのだ。早々に彼女の味方を増やし、その地盤を固めなければ。
一頻り儀礼的な振る舞いを終えると、アニスは立ち上がり腰元の刀に手を掛けながら言う。
「では、行って来よう」
「ん?」
いや何の話だ。
今回ばかりは本当に意図がくみ取れず、俺もヴァレットも顔を見合わせる。
「あの馬車を両断してくれば良いのだろう?」
任せろ。そう言いたげにアニスが自信満々の顔を見せつけて来る。
「いや本当にやめろ!? 白昼堂々何をする気だ!?」
「ええい離せ異形殿! 恩をここで返すと言っただろう!」
「ちょっと、そういう意味で言ってたわけ!?」
武芸者であるアニスの膂力は俺一人では止めきれない。ヴァレットと二人がかりで両腕を抑えつける。
「何故だ!? この場で仕留めれば万事解決ではないのか!?」
「落ち着きなさい!?」
宿屋全体に響くような騒がしさ。
結局、アニスが考え直すのには数時間の時を要し、即ちアーリシアの馬車が街道を通り切るまで騒ぎは続いた。
まさかこんな事で悪目立ちさせられるとは。バイコーンに引き続いて、最悪な騒動だ。
――いや、流石にそれは言い過ぎか。これから先に比べれば、今はずっとマシなはずだ。
デジレ=ヘクティアル。
アーリシア=リ=ヘクティアル。
天霊教に異郷旅団。
これで役者は揃った。揃ってしまった。
ここからは、如何にしてヴァレットが彼女らを敵に回して勝利するのか。それとも、破滅するのか。ただその一点にのみ注力せねばならない。
肉のない異形の体であるはずが、まるで心臓が脈打つ様な感触を覚えていた。




