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第十五話『矜持と誇り』

 人波をかき分け、切り裂くように前へと進む。ヴァレットの小柄と言って良い身体は人の重圧に翻弄されるが、その程度に挫けない意志を彼女は持っている。


 一歩、また一歩前へ。


 そうして、彼女の脚は広場に踏み入った。


 いつの間にか周辺から人がいなくなり、広場は荒野のような静けさに満ちている。朝にみた華やかさは、夕闇の中へ消えてしまったかのよう。


 夜がもう、そこにまで来ていた。


「ォォオオ゛――ッ!」


 その中心では漆黒のバイコーンがこつり、こつりと蹄を鳴らす。いっそ美しさすら覚えそうな光景だった。

 

「――お可哀そうに。無理やり連れて来られたのでしょう。貴方の気持ちは、痛いほどわかってよ」


 対峙するは、紅蓮の瞳を輝かせるヴァレット。


 ローブを脱ぎおろせば、はっきりとその顔つきが見て取れる。憐れむような、慈しむようなそれ。


 理解する。彼女はきっと、自分とバイコーンの境遇を重ねているのだ。


 望んでもいない場所に繋がれ、味方は誰もおらず、遊戯のように命を危機に晒される。


 哀しい事だった。ヴァレットにとっては、都市レーベックの繁栄を楽しむ人々よりも、たった一頭の魔性の方がよほど心を寄せられる相手なのだ。


 だからこそ、ヴァレットは口にした。


「今、楽にしてあげるわ」


「ブルルルルゥッ!」


 ヴァレットは唸りをあげるバイコーンを前に俺を――大魔導書グリフを開く。

 

「そこなご令嬢、お待ちあれ!」


 そこに、一筋の声が放たれた。


 人波に混じる事も飲まれる事もなく、最初からここに居座っていた彼女。


 ――武芸者アニス=アールビアノは太刀をくるりと手元で返しながら言った。


 彼女の額には小さな傷がつき、血液が瞳へと垂れ落ちている。恐らくは鉄柵の崩壊時に傷を負ったのだろう。


 完全に崩壊した鉄柵の残骸を足蹴にしながら、アニスは軽く血の混じった目元で続けた。


「これは己のしでかした事! 手出しは無用!」


 武芸者としての意地か、それとも矜持か。アニスはただ一人でこの場を治めようとしていた。


 バイコーンとの戦力対比で言えば互角だが、負傷している分アニスの方が不利だ。それに魔性と人間では耐久力が違う。長期戦になればそのまま敗北に直結する。


「お黙りなさい」


 ヴァレットはアニスを一瞥しただけで視線を外し、切り捨てるように言った。


「ここは私の領地。全ては私の領民であり所有物。私はそれら全てを守るために生きている。これは私の誇りであり、役目そのもの。グリフ、問題はある?」


 それこそが、自らの存在意義であり。それ以外の役目を知らぬと言わんばかりに、ヴァレットが口を開く。もはや止められる者はいないし、俺も止めようとは思わない。


「無いさ、何もな。魔女の残り香に過ぎない魔性一匹、魔導が御せないでどうする」


「よろしい」


 何せ、ご主人がご要望なのだ。その本領たる魔導を。


 狂乱の調べが、綺麗な唇を伝って宙に響く。


「『不吉な鳴き声』『影に籠った夜の挨拶』『万人が恐怖に飲まれる』――魔導展開『狂乱の夜』」

 

 夕陽が、まるでタイミングを計ったかのように地平線へと消えていく。一切の容赦なく夜の帳が落ちると同時。


 ――ヴァレットを中心に、魔力が勢いよく周辺一体へ伝導していく。


 静かに沈み込むように、まるで咆哮をあげるように魔力が波打つ。


 魔導や魔法について、アテルドミナに仕込んだのはこの俺だ。掛け値なく、この一点においては俺より詳しい人間は存在しない。


 だからこそ断言しよう。『狂乱の道化師』のような派手さはないし、『燃え落ちる唾液(アラガルド)』や『拘束する風糸パル・ヒューム』のような即効性もない。


 けれどこの魔導こそが、狂乱属性の本質を最も明確に表している。


「……何、を」


 アニスが困惑と、何処か怯えを持ったように呟いた。


 彼女には何が起こっているか分からないし、ヴァレットが何をしようとしているかも分からない。


 しかし、自信に満ち溢れていたアニスの横顔に、恐怖と言える感情がにじみ出ていた。そうしてそれは、バイコーンとて同じ事。


 狂乱の魔力は、それだけで不安を呼び寄せる。まるで夜闇の中で、一つの影に出会った時のような不安。


 ――数度の瞬きの後に、それは来た。

 

「チュ、チュチュ」


 鼠が、中央広場へと姿を見せる。街中の何処にでもいるような小さな鼠だ。警戒心の塊であるはずの小鼠は、何故か異様な気軽さで広場へと姿を見せる。


 それも、ただ一匹ではなかった。


「キュ、キー」


「キーキーキーッ゛」


 次から次へと、鼠たちが奥深い暗闇の中から広場へと繰り出してくる。


 僅かな時間に、もう数十匹を軽く超えている。


 それだけではない。街にいついたのだろう野良犬や猫、数々の小動物たちが導かれるように広場へと集って来る。


 もはやその数は数え切れない。更に恐ろしいのは、明らかにその全てが正常ではなかった。異常に興奮し、唸り声をあげながら周囲を嗅ぎまわっている。


 詰まりは――これこそが『狂乱の夜』の効果。


 抵抗力の薄い小動物や羽虫に『狂乱』を次々と伝播させ、その意図を掌握する。小動物たちは、まるで波濤のような勢いで広場に集う。それこそが、自らに与えられた命令だと信じて。


「行きなさい――」


 そうしてヴァレットが、波濤へと次の命令を与えた。数多の小動物たちが、ヴァレットの指先に従ってバイコーンへと押し寄せる。


 バイコーンはレベル三十前後の冒険者に匹敵する戦力だ。鼠や野良犬など話にもならない。その蹄は人間の体も容易く貫く。勝敗は明らかだ。


 無論、一対一の状態であればの話だが。

 

「――ヴヒィイ゛ン゛! ォォオッ!」


 しかして、数は暴力である。


 それもバイコーンを覆い尽くすほどの数が、理性を捨て去って襲い掛かって来たならば。肉に噛みつき、四肢へ取りつき、蹂躙したならば。


 如何に勇猛な二角獣とて、手足は出ない。うめき声をあげながら、バイコーンは広場の中央に強く膝をついた。通常の馬なら足を折っている勢いだ。


「やめなさいグリフ、もう十分」


 狂乱した小動物たちは次から次へとバイコーンへとのしかかり圧殺を試みたが、ヴァレットの一言でぴたりと動きが止まる。『意図』を操られた獣たちは、文字通り彼女の手足に過ぎない。


 こつり、こつりと、ヴァレットはバイコーンへと近寄る。


 バイコーンはうめき声こそあげるが、相変わらず身動きは取れていない。唯一自由になる顔だけでヴァレットを威圧し、隙あらば反撃しようと言わんばかり。


「油断するなよ。やろうと思えば、一息で背骨だって噛み砕けるやつだ」


「大丈夫よ。これでも私、馬には嫌われた事がないの」


 おい、待て。魔性を馬と同じ扱いをすると痛い目にあうぞ。


 そう言おうとした瞬間には、ヴァレットはバイコーンの間合いに入っていた。


 即座にバイコーンの顎が開く。今すぐにでもヴァレットの顔に噛り付かんとする勢いのまま――しかしぴたりと動かなくなった。


 彼に纏わりついた小動物から『狂乱の夜』の効果が伝播したのか。


 いいや、それよりもむしろ。


「ごめんなさいね。人間は必要じゃないものも沢山欲しがってしまうの」


 ヴァレットは何一つ恐れるものはない様子で、バイコーンの顎を撫でていた。


 魔性の馬は彼女の指先を受け入れ、小動物たちに四肢を抑制されながらも心地よさそうにしている。


「冗談だろ。魔性が人間にそう簡単になつくような設定は――いや」


 魔性を真の意味で御せるのは、『魔物使い』のジョブくらいだ。


 設定上、どう足掻いても人間と魔性は敵対するように作られている。そうでなければ物語として、ゲームとして成り立たない。


 今のヴァレットとバイコーンの状態を説明するならば、全く別の理屈が必要だった。


「……魔導の影響か? 考えた事もなかったが」


 魔導を造ったのは魔女で、魔性は魔女から生まれた。魔導は魔女の使用物で、魔性は魔女の残り香。


 推察に過ぎないが、バイコーンはヴァレットを『魔女』と認識しているのではないか。それならば、この光景も理解出来る。


「ほら、他の子も。もう構わないわ。自分のねぐらに帰りなさい」


 ヴァレットが指を鳴らすと、魔導があっさりと『解除』される。あれほどの殺意をもってバイコーンに殺到した小動物たちは、まるで夢でも見ていたかのように街中へと散っていった。


 バイコーンは随分と落ち着いたのか、ヴァレットの手元へ顔を寄せて軽く唸りをあげる。


「大人しい良い子じゃない。本当は暴れたくなかったのでしょうに」


「……まぁ。確かにバイコーンは魔性の中では温厚な種族だ。堕落と邪悪を好みはするが、戦闘を好むわけじゃない。そもそも、本来なら人目につかず森の奥に住んでいるはずだ」


 それがどうして、冒険者の手にかかる事になったのか。少なくともバイコーンを鉄柵に入れていたクランは、さほど高レベルには見えなかった。


 とすると、何等かの事情があって人里近くへと出て来てしまったバイコーンが、慣れない土地で罠にでもかかったか? それならば、もしかすると。


「ちょっとグリフ、ぶつぶつと独り言を言うのやめなさい。怖いわよ」


 そんな引いた目をしなくても良いじゃないか。しっかり役に立っただろうに。俺は君と違って理屈で考える派なのだ。

 

「しかし君、バイコーンをなつかせてどうする。自然に離すにしても、近場じゃあまたすぐに捕まるか殺されるかだぞ。勢いで行動して、どうせ次を考えてないんだろう」


「……うるさいわね、今考えてるのよ。今」


 ヴァレットがバイコーンの顎を撫でながらきっと眦をつりあげて睨みつけて来る。


 大したご主人様だ。


 まぁ、バイコーンについて、やろうと思えば他に手段がないではない。


 そう言おうとした瞬間だった。


「――ご令嬢! おみそれ致しました! どうか己の感謝を受け取って頂きたい!」


 ――事の発端たるトラブルメイカーが、目の前で膝をついていた。


 不味い。一応こいつを探しに来たはずだったのに。今ではすでに離れたくなっている。

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