第九話『誘惑はそこにありて』
ズシャータの刺し貫く針のような言葉に、一瞬その場が停止した。
傍らの天霊教司教、ルージャンさえも凍り付いたようにぴたりと動きを止める。打ち合わせの上ではなく、ズシャータの独断であるらしい。
「そ、そなたは一体、何を!」
ルージャンの動揺があふれた言葉を踏みつぶして、ヴァレットが言った。
「――それは、あのナトゥスという男も承知の事かしら」
ナトゥス。灰色の礼服を身に纏った、リ=ヘクティアル家の使者だ。慇懃無礼な所があり、どうにも信用出来ない手合いだったが。
ズシャータははっきりと声に出すよう口を開いて言う。
「ええ。我らへと渡りをつけたのが、ナトゥス殿でしたから」
ヴァレットの眉が固まる。それもそのはずだ。ズシャータが言っているのは、単なる情報の共有ではない。お前の所の分家が反逆を企てていたと、そう言外に告げているのだ。
ヴァレットの母親であるデジレ=ヘクティアルが見境なしに各勢力へ支援を取り付けているのは知っていたが、足を掬われるほど間抜けとは思っていなかった。
要するに、リ=ヘクティアル家はデジレを神輿に担いだ上で、最終的には自分達が成り代わるつもりだったわけだ。次期当主たるヴァレットから当主の座を奪った、という悪名はデジレに押し付けた上で。
「如何でしょう、公爵閣下。リ=ヘクティアル家だけでなく、どの勢力が敵に回るか分からぬ時代です。改めて、異郷旅団をご愛顧頂いては」
「……貴方達は、私の味方になると?」
「ええ、敵だらけの中であろうと、交わした契約を我々は守ります」
ズシャータの言い分は、俺にとっては意外だった。
先のヘルミナの言動、そうして――必ずプレイヤーの前に立ちはだかる、絶対悪であるヴァレット。
どう足掻こうと、ヴァレットと異郷者は対立せざるを得ないと考えていたが。よもや、このような形で協力を求めて来るとは。
何もルージャンがいる横で話し出さなくても良いとは思うが。見ろ、顔がますます青くなってるじゃねぇか。
ヴァレットは数秒唇を閉じてから、くるりと俺に視線を向けた。
おい、やめろ。
「グリフ、貴方はどう思うか聞いてみましょうか」
ふざけんな。俺は可能な限り重要な判断に関わりたくないんだよ。ただの魔導書だぞこちらは。
しかしまぁ、異郷者が持ち出してきた提案だ。俺にも責任の一端はある。
「……この場で決めるには、情報が足りんが」
そう前提を置いてから、口を開く。魔力の外殻が、ぞわりと動いた。
「リ=ヘクティアル家が当主アーリシアはどのような協力要請を?」
「正確にはお答えできかねる。これは、我らとアーリシア殿との契約ですからな」
現代人らしい口をききやがる。取引における詳細は秘匿する、まるで商売人の原理だ。
だが、言外に得られた情報もある。
――我らとアーリシア殿の契約ですからな。
つまり異郷旅団への協力要請は、リ=ヘクティアル家の一部勢力やナトゥスの独断ではない。間違いなく、当主アーリシアの意図を汲んだものだったという事。
「……対立するとなれば本家と分家の全面的な戦争になる。領袖たるアーリシアも、そのための機会を整えているはず。そうなった場合に、異郷旅団は本家側につくと捉えても?」
「我らは、契約に準じた行動をとります。アーリシア殿との契約はすでに前提から崩れた。破棄されたも同然でしょう」
匪賊らしい笑みを浮かべて、ズシャータは言う。
不味いな。本来ならばもう少し情報を集めたいが、今この場で彼の提案を拒否する材料がない。むしろ本家側が異郷旅団の手を取らないのなら、分家側につくと宣言しているようなもの。
ズシャータは後押しするように言葉を付け加えた。
「今、ヴァレット公爵閣下の周囲に敵は多いと存じます。とすれば、味方を作っておくのが上策ではありませんか」
「……それは」
ヴァレットが、反射的に視線を逸らした。彼女は当主の座についたばかり。更には、今までデジレに権勢を握られていたんだ。味方なんざほぼいないに等しい。間違いなく、ズシャータの言葉は真理だった。
しかし、そんな逡巡が。
「いいえ、そんな事はございません! オジョーサマの味方はおりますです! リザもオジョーサマの味方ですから!」
唐突な音量によって全て流されてしまった。
いや、本当に何だ。
振り向けば、茶などの用意を済ませた後、部屋の隅で控えていたリザが両手を誇らしげに開きながら言っていた。
「敵ばかりなどではありませんです。証拠にリザがいるのであります!」
リザは白髪をはためかせながら、この世の公理を語るかのようだった。
凄いなこいつ。普通、主人の会話に使用人は口を挟まないものだ。しかしリザにとっては、その辺りの理屈は通用しなかったらしい。
流石にズシャータもぽかんと、茫然とした表情を見せている。
だが、ヴァレットだけは楽しそうにくつくつと喉を鳴らした。まるで、空気を入れ替えたかのような口ぶりで言う。
「ふ、ふふ。メイドが失礼を致しました。異郷者ズシャータ、貴方の申し入れは有難いものでしてよ。けれど、私も敵ばかりというわけではないようですの。改めて、正式に返事をしましょう。今日はこの辺りといたしましょうか」
言って、ヴァレットはすっくと立ちあがった。もはや話はこれで終わりと、そう告げるかのよう。
「リザ。貴方にお仕事をお願いするわ。お客様をご案内さしあげて」
「はい。リザは承知いたしました!」
リザは自分が会談の空気をぶち壊した事なぞ全く理解しないまま、ズシャータと司教ルージャンを案内しはじめる。その所作だけは完璧だから厄介だ。
ただ単に、彼女はその場の空気を読んで行動する、という能力を放棄しているだけなのだろう。
「……グリフ殿」
「何かな」
ズシャータは、去り際に俺に向かって言葉を発した。それは大魔導書と同じ名前を名乗る俺を怪しんでのものか。それとも、全く別の理由があったのか。
「後悔しない選択をするようにしましょう。我らも、そちらも」
「そりゃそうですな。こんな世界だ、後悔ばかりはしたくない」
互いに、やや口調が砕けた。
もはや公式な場ではなく、ただの雑談に過ぎなかった事。
それにもう一つ。
何故かズシャータから、驚くほどの敵意を感じたからだった。そこになって直感する。リザは良い仕事をしてくれた。あの場で、俺達は頷くべきではなかった。
ズシャータは――否、異郷者は。決して、ヴァレットの味方にはならない。
軽い一言と嫌な緊張感を残したまま、ズシャータはルージャンと共に部屋を出た。その足取りは、まるで二度と来る事がないとでも告げているかのよう。
リザはああ言ってくれたが。やはり、ヴァレットが正しかったかもしれない。会談前の、彼女の言葉を思い返していた。
――この世は敵ばかりよ、昔も今もね。
◇◆◇◆
「そなたは一体、何を考えている! 私の立場まで危うくなる所だ!」
天霊教が司教、ルージャン=バルリングはヘクティアル家の邸宅を出た所で、口汚く異郷者を罵った。
異郷者が常識の通じない集団、というのはアテルドミナにおける共通認識だったが、今回のはその予想をも超えている。
異郷者――ズシャータの提案は、下手をすればヘクティアルの本家と分家、両方を敵に回しかねない。
異郷旅団が勝手に自滅する分には構わないが、隣で聞いていたルージャンに被害が及ぶ可能性も高かった。
しかしズシャータは、馬車の手配を待ちながら口にした。
「――立場がどうとか、すっとろい事を言ってる場合じゃあねぇでしょう。あんた、とっくの昔に尻に火がついてんだからよ」
ズシャータの口調からは、先ほどまで張り付いていた礼儀が取り払われていた。匪賊のジョブを持つ彼らしい口調に舞い戻っている。こちらこそが、彼の素の口ぶりだった。
「……詰まり、そなたのあの提案は」
「出方を見ただけだ。乗ってくれるなら与しやすい。だが、ありゃあ考え直すだろうな」
ルージャンは、ズシャータの言葉に理性が灯っているのに気づき、少しの安堵を覚えた。
ただ自分達の利益だけを貪る輩ではないようだ。ルージャン自身がそのような輩であるからこそ、鼻先は利く。
ズシャータの険しい瞳が、猛禽のように鋭く動いた。
「司教。あんたまさか、ここから乗り換えようってわけじゃねぇだろうな」
「そ、それは……無論だ。そなたらに協力する。聖典に誓っても良い」
ルージャンは額の汗を拭いながら頷いた。
ヴァレットが公爵位を継承した今、ルージャンの将来は暗い。間違いなく辺境の司教に追いやられ、統括司教への道は閉ざされる。
欲深い彼にとって、それは耐えられない事実だった。司教という座を掴んでも、まだ十分とは思えない。その底なしの欲求こそが、ルージャンとデジレを結び付けたのかもしれなかった。
「俺達も、あの女とは組めねぇ。その後、デジレとアーリシア。どっちが上につこうがどうでも良い。あんたもそうだろ」
ルージャンは答えなかったが、それは肯定と同じ意味だった。
ヴァレットさえ除ければ、その後ヘクティアル領内で内戦が起きようが、分家が本家を乗っ取ろうが興味はない。その点で、ルージャンと異郷旅団の利害は一致している。
「なら、露骨にでも動くしかねぇわな」
ズシャータも、また本心を語った。獣性を宿す瞳が細まる。
それは人間としての本能であり、ゲームプレイヤーとしての実感でもあった。
――ヴァレット=ヘクティアルを残しておくわけにはいかない。
アテルドミナはシミュレーションRPGの要素が色濃く注ぎ込まれたゲームだ。
異郷者は自分のレベルを上げ、高レベルの仲間を増やし、勢力を拡大していく。その為の手法は様々だが、端的に言えば如何にして勢力を拡大するか、がこのゲームの命題だった。
その中で繰り広げられる多種多様なキャラクターの存在こそがアテルドミナの魅力だ。選択する内容によって、かつて味方であったものが敵となり、強大な敵であったものが味方ともなる。
だが、ヴァレットだけは別だ。
彼女は、アテルドミナにおける絶対悪。プレイヤーの障害となる最大の枷。
ゲームの中なら、好敵手で良かった。しかしここは、もはやズシャータ達にとって現実だ。破滅の種を残しておくわけにはいかない。
異郷者側の地盤はもう整った。数年前には小クランに分散していた異郷者達も、今や多くが異郷旅団の下に集っている。
「動く、とは。どういう意味だ? 勝手な真似をしては、睨まれかねんぞ」
「デジレもアーリシアも、こうなっちゃなりふり構わねぇはずだ。お互い投資額が違う。結果さえ出れば、追従するさ」
ズシャータは、回されてきた馬車に乗り込みながら言った。
「――取り除ける内に取り除く。簡単だろ」




