プロローグ『誰にも愛されない君』
「――世界が舞台で、誰にでも役が当てられるのなら。きっと私は悪役でしてよ、グリフ」
ローティス連合王国が公爵令嬢――ヴァレット=ヘクティアルが語った一言を、俺は生涯忘れないだろう。
声は決して安易な自虐ではない。鉛のように重く、匂いさえ沸き立ちそうな事実だ。
彼女が公爵令嬢として過ごした約十七年は、それそのものが時間の形をした地獄であった。
俺は五年間という時間、それをすぐ傍で見ていたのだ。
彼女に他愛ない会話を出来る友人はいなかった。色事を語れる恋人もいなければ、無償の愛を捧げられた事もない。
彼女は公爵令嬢という身分にありながら、誰からも愛されていなかった。いいやむしろ、忌み嫌われていたというべきだ。唯一の例外は、彼女が生まれて間もなく死んだとされる父親くらいか。
理由は様々。
彼女の輝かしい眼差しが、凡人には鋭すぎた所為か。
はたまた――その身に莫大な公爵家の領地を継承する権利を預かっていたからか。
「近づいてくるのは、どいつもこいつも。領地狙いの奴ばかり。笑っちゃうと思わない、グリフ」
人生という舞台、ただ善良に生きる事を許される者がいる反面、剣を振り回さねば生きられない者がいる。
ヴァレットは間違いなく、後者だ。
周囲を取り巻くは嫉妬と悪意。誰もが心の底では自分を嫌いで、誰もが自分を利益のために使おうと企んでいる。
彼女が生き延びるためには、他人の道具に成り下がらないためには、毅然と立つしかなかった。
たとえ、母親でさえ生意気な自分を毛嫌いしていようと。
生きるために、彼女はそうあるしかなかったのだ。そこに正誤はない。彼女は十七年、たった一人で戦い続けてきた。
そうして、その結果。
「さて、誰が来るのかしら。お母さまかしら、それとも分家の従妹殿かしら。笑っちゃうわね。どうせなら、綺麗に殺して欲しいものだけれど」
今、彼女は生死の狭間にある。
本邸から離れた別邸。その人目につかない地下の物置で、彼女はけらけらと久方ぶりの無邪気な笑いを見せていた。
それは彼女なりの情念であり、脈動する生き様だ。
切っ掛けは明瞭。彼女が幼い頃に亡くなったヘクティアル家当主たる父親は、あろう事か当主としての全ての権限を娘のヴァレットに捧げた。
当主の証明になる紋章は貴族にとって最大の家宝であり、魔力を通して身体に刻印されるがゆえに、他者が奪い取る事も出来ない。
それこそ――殺害でもしない限りは。
ゆえにヴァレットは幾度も『不慮の事故』に遭遇しかけた。食事に毒が混じりかけた事もあれば、馬車の車輪が外れ、崖に落ちかけた事も。
かろうじて彼女が生存してこられたのは、彼女を忌み嫌う母親や親戚が、遠回しな手段に拘っていたからだ。貴族としての体面もあるし、それにまだ時間があった。
彼女の父は聡明だったのか、それとも何も考えていなかったのか。ヴァレットの当主権限に時間的な猶予を与えたのだ。
「お母さまもどうせ殺すのなら、誕生日の前日なんて真似はやめて欲しかったわね。みっともないわ」
即ち、ヴァレットが十七歳となり成人した時。初めて当主たる権限は正式に彼女へ与えられる。
それまで、当主の座は空白。代理当主たる彼女の母が家中を切り盛りしていた。
ヴァレットが十七になるまでの間、何処かで事故に見せかけて殺す。その手はずだったのだろう。周囲は彼女の敵だらけ。簡単なはずだった。
しかしそれがどういうわけか今日この日まで生き残ってしまい、とうとう躍起になって直接的な手段に出始めた。
公爵家の邸宅には、そのご令嬢を殺すための兵が幾人も入り込んでいる。
「グリフ。流石に、貴方とも今日ばかりでお別れになりそうね」
グリフ――そう呼びかけられる俺は、彼女の胸元に抱えられる一冊の本に過ぎなかった。
大魔導書グリフ。この世全ての魔が治められし霊性。それが俺の役回りだ。
しかし、その役目はまるで果たせていない。彼女の前では、俺はただ文字を連ねる本と同じ。
「……おいおい、そう悲観するなよ。まだだ、今日を乗り切れば勝機はある」
俺は、魔力を絡めて声を発する。少なくとも、彼女の気持ちを否定しないように。
――しかし何時も通り、彼女には全く届かない。確かに音は宙に響いているのに、俺の声は彼女の耳には入らないらしかった。
それとも本に過ぎない俺が、声を発していると思い込んでいるだけなのか。
もしくは俺自身、長すぎる悪夢を見ているに過ぎないのか?
これは俺が、地球ならぬこの異郷世界――いいやRPGゲーム『アテルドミナ』の世界に来てから五年間繰り返し続けている問答だ。
何故、どうして、どういうわけで俺が。
ありとあらゆる疑問は意味をなさない。残念ながら俺自身、誰かに回答を貰えた経験はゼロだ。
せめて自由に身動き出来れば良かったが、あろう事か与えられた役割は魔導書。身動き一つとるのも簡単じゃない。
結果、俺は五年間、ひたすらにヴァレットという少女を見守り続けるしかなかった。
扉の外で、足音がする。慌ただしく何かを探す様子。
「……そろそろ、来るわね」
俺は彼女が持つ本として生き、彼女の不幸を間近で感じ、そして何も出来ないまま彼女の死を見届けようとしている。
最低だ。脳髄に熱湯を流し込まれてる気分だった。本当に死ぬのか、殺されるのか。一片の幸福さえ感じさせない瞳のままにか。
そりゃあ、ヴァレットがゲーム内でどんな役回りかは知っている。
決して善良じゃあない。悪役かと問われたら、頷かざるを得ないさ。
しかし、ならば。
誰も彼もに嫌われて、母親からさえ命を狙われ、どうやって善良であれって言うんだ。
最後まで大人しく善良に、いいように利用されて殺されるのが素晴らしいのかね。
「ヴァレット」
必死に声を捻りだす。聞こえない、聞こえるわけがない。それでも口にせざるを得なかった。
「諦めるなよ。まだ逃げられる。まだ終わっちゃいない。ここからが君の大舞台だ」
凍り付きそうなほどに、ヴァレットの表情には諦念が浮かんでいる。
足音が近づいてくる。鍵がかかった扉に圧力が加えられた。
改めて、彼女を見る。
彼女の頭髪は力強い茶に紅が混じった色合いで、薄暗い室内でもよく映える。高くつり上がった鼻梁は、彼女の気丈さを象徴しているかのよう。
しかし最も印象的なのはその瞳だ。紅蓮、いいや灼熱ともいえる瞳が、彼女からそれ以外の印象を欠落させる。
目の前の全てに食らいつきそうな獰猛さ、しかして特有の気高さが同居している輝き。
間違いなく美麗の類だが、だからこそ彼女が元来から持つ鋭利な雰囲気を強調してしまっている。
今、そこに儚い死の美しさが絡みつこうとしている。
扉の外から、声が響いた。
「間違いない、ここだ! 必ず顔を潰して殺せ!」
圧力の勢いが増した。数人が結託して、扉を蹴り破ろうとしている。
元より強固な扉ではない。男の手にかかれば、数分ももたないはず。
顔を潰して殺せ。言葉から察するに、奴らはヴァレットを失踪させるつもりらしい。
彼女は成人を前に、ヘクティアル家の当主という地位に押しつぶされ逃亡した。身元不明の死体が一つあがったのは、偶然に過ぎない。
そんなシナリオだろう。わざとらしくたって構わない。ヴァレット以外、誰も文句は言わないのだ。
今後の実権は母親か、分家の従妹殿が持つ事になるだろう。ヴァレットの名など、すぐに忘れ去られる。
「おい、ヴァレット!」
「グリフ」
奇跡だった。ヴァレットは手元の俺をはっきりと見ていた。
声に応じたのだ。今まで絶対に彼女に届かなかったはずの、俺の声が。
彼女は諦めきった表情に、あまりに美しい笑みを浮かべて言った。
「生まれて一度も、良かったと思った事がない世界だったけれど。どうしてでしょうね。貴方には見守られていた気がしたわ――」
「おい、待て」
違う。聞こえていない。これは彼女の独白で――遺言だ。
「――ありがとうグリフ。こんな持ち主で、ごめんなさいね」
扉が、蹴り破られた。
兜を被り、剣や槍を手にした兵が続々と物置へと入り込んでくる。
物置とはいえ、さほどの大きさはない。何人もの大人が捜せば、そこに誰かいるかいないか、なんてすぐに分かる。
だからだろう。ヴァレットは呼気を呑み込みながらすっくと立ちあがった。
「不躾ね。ここはこのヴァレット=ヘクティアルのための別邸。兵の出入りを許した覚えはありませんわ」
毅然として気高く、されど孤高。ヴァレットの死に際の言葉は、特別な響きを伴っていた。
絶望でもない、希望でもない。
ただ自分はここにいると、咆哮するような声。圧倒的な熱量。
一瞬、兵どもはヴァレットに気おされた様子を見せた。指先はびくりと跳ね、勢いは失われて立ちすくむ。
しかし、すぐに自分たちに下された命令を思い出したのだろう。
「……ここで、死んで貰う」
数多の刃先が、ヴァレットに向けられた。物置の壁を背にしたものだから、逃げ場はない。
奇妙な雰囲気があった。殺す者と殺される者が明確に切り分けられ、今この場で殺戮が起きようとしている。だというのにヴァレットは、素知らぬ顔で言ったのだ。
「そう。どいつもこいつも、私を殺したい奴ばかりね」
言って、ヴァレットはただでさえ鋭い眦をつり上げる。猛禽類の如き瞳を押し開きながら、言葉を続けた。
「殺したいのなら来なさい、殺せると思うのなら」
凄まじいものだった。本当はその場でしゃがみこんで震えたいほどの恐怖だろうに、ヴァレットは背筋をぴんと伸ばし、兵達に決して譲ろうとしない。ヘクティアル家の当主という自負だけが、彼女を突き動かしている。
けれど、敵がその気高さを理解出来るわけではない。むしろ怯えて命乞いをしないヴァレットに、苛立ちさえ感じているようだった。
「ッ! 強がってんじゃねぇ! お前はどう足掻いても死ぬんだよ!」
苛立ちゆえだろうか、兵が放った槍の穂先はヴァレットの足元に狙いをつけていた。
まるで獲物を追い詰めた猫が、戯れに相手をいたぶるように。
「アッ、ぅ、ぐ――ッ!」
鮮血が地面を汚した。ヴァレットの右足が深々と穂先に貫かれ、生の証とばかりに幾度も血を噴き出す。
兵どもが苦痛に顔を歪めるヴァレットを見て、下卑た笑みを見せる。
「見ろ。貴族って言っても俺達と同じじゃねぇか! 死ね! お前は死ぬんだよ!」
「お前みたいな貴族がいるから、俺達平民は苦労するんだ! いなくなりゃ楽になる!」
次々に、兵士たちがヴァレットへと剣を、槍を突き出す。まるでそれは余興のようだった。
最初に両脚を、次に両腕を、玩具のように突き刺していく。その度に噴き上がるヴァレットの悲鳴は、彼らにとっては心地良いサウンドだったのだろう。
俺はただ、それを見ていた。見させられていた。逃げる事も、目を覆う事も出来ない。
ただ五年間付き添ってきた彼女が、少しずつ死に近づいてゆく光景を見ていた。
肌がどんどんと火照りを失い、瞳から輝きが消えていく。もはや両腕に力はなく、俺も彼女の手元から零れ落ちた。地面の埃臭い感触が、全身を覆う。
「ぁ……っ」
「大事に抱えてると思ったら、ボロい本じゃねぇか」
「技能書の類なら、『異郷者』に高く売れるぜ」
ヴァレットが再び手を伸ばすより先に、兵の一人が俺を掴み上げる。
もはや彼らにとって、ヴァレットは楽しんで殺すための対象でしかない。楽しい時間は、長く引き伸ばそう。そんな戯れが垣間見えていた。
一人が、俺をぱらぱらとめくってみせる。
「……何だこれ。何も書いてねぇじゃねぇか」
詰まらなそうに兵が言って、乱暴に俺を床に落としやがった。本でも痛みはあるんだぞ、この野郎。
当然だ。こちらは曲がりなりにも大魔導書。読める相手は限られる。少なくとも、兵とは名ばかりのゴロツキに読まれてたまるか。
しかし今は、そんな事を気にかけてる暇はなかった。
「ヴァレット。おい、まだ生きてるだろ。もう少し生きててくれよ……」
きっと、この声も届かない。しかしそれでも言葉にするしかなかった。
すでに彼女は息も絶え絶え。出血多量で何時死ぬかも分からない具合だ。しかし、ここでそのまま死んじまうなんて、それはないだろう。
「今日だ、今日さえ乗り切れば君は当主なんだ」
だから、せめてそれまで。
「グリ、フ……」
ヴァレットの細い指先が、血を垂れ流しながら俺へと向けられる。それはまるで、救いを求めるかのよう。
「おい! 勝手に動いてるんじゃねぇ。お前は俺達に殺されるんだよ!」
俺に伸ばしたヴァレットの手が、容赦なく兵に踏みつけられた。彼女の表情が苦痛に酷く歪む。
「ッ…ぅ、あ……!」
「お前が死ねば全て解決するんだとよ。代理当主様も、異郷者どももそう言ってる。お前に味方はいねぇよ。諦めるんだな」
ヴァレットの手を潰すように踏み躙りながら、兵が言う。
それは彼にとっては、遊びに過ぎなかった。ここに兵達にとって、ヴァレットがすぐに死ぬか、数分その命が伸びるかに、大した意味はない。
しかし、俺にとっては違う。
「グリフ、は……私のもの、よ」
兵の言葉に耳を貸さず、ヴァレットは片手を踏みにじられたまま、全身を這いずらせてもう一本の手で俺に触れた。
いいや、もう彼女には何も聞こえていないのかもしれない。ただ、五年間をともにした俺に触れる事だけを考えてくれたのかもしれない。
「てめぇ! 勝手な真似するんじゃねぇって言っただろうが!」
兵達は、もう武器を使わなかった。這いつくばったヴァレットを、固い靴底で踏みつけにしていく。身体を、両手を、両脚を、頭を。そのまま踏み殺さんと言わんばかり。
けれどヴァレットは、決して俺から手を離さなかった。そうして、言ったのだ。
「グリフ……ごめんなさい、ね」
そんな謝罪の言葉。
それと同時に、音が鳴った。
――日付が変わった事を示す、鐘の音だった。