第1話 声を失った令嬢、喋りだす指輪
王宮の大広間には深紅の絨毯が敷き詰められ、天井からは煌びやかなシャンデリアが光を放っていた。
銀のグラスが触れ合う音、貴婦人たちの優雅な笑い声、甘やかな香水と香木の匂いが空間を満たし、まるで夢の中にいるかのような幻想的な社交の舞台となっていた。
その華やかさの中にあって、レティシア・フォン・アルヴェルはまるで絵から切り取られたように完璧な姿で佇んでいた。
金糸を編んだような巻き髪に、鮮やかな深紅のドレス。その気品と美貌は誰よりも目を引くはずだった。
しかし、彼女の周囲にはぽっかりと空白の輪が生まれていた。
令嬢たちはあからさまに距離を取り、笑顔の裏には侮蔑の色が宿る。
それでもレティシアは表情一つ変えない。公爵令嬢としての誇りと矜持を全身に纏い、背筋をぴんと伸ばしていた。
(また陰口……いいわ。慣れてるもの)
孤独には慣れている。だが、誰にも触れられないこの沈黙には、どうしても慣れきれなかった。
そのとき——
空気がわずかに張り詰める。
登場したのは、王太子アレクシス。
均整の取れた体躯に整った顔立ち。堂々たる立ち姿は、王宮の光を味方にしているかのようだった。
彼は、レティシアの婚約者。かつてふたりは、政略で結ばれながらも“お似合い”と称され、多くの祝福を受けていた。
「レティシア」
その優しげな響きを持つ声に、会場の空気が一斉に止まる。
レティシアが静かに振り返ると、彼の手には美しい指輪があった。
「君に、贈り物がある」
アレクシスが手渡したのは、白金の光を放つ精緻な細工の指輪。中央には黒曜石のように深い黒の宝石が埋め込まれていた。
「……これは?」
戸惑いつつも、彼女はその指輪を受け取り、薬指にそっとはめる。
——その瞬間、冷気が走るような感覚が全身を貫いた。
(なに……?)
視界が揺れ、足元がふわりと浮くような錯覚に襲われる。喉が、何かに締めつけられたように詰まり、息が苦しくなる。
「お似合いだ、レティシア」
アレクシスは微笑んでいた。その笑みは優しさから生まれたものではない。どこか勝者の余裕を感じさせる、冷たいものだった。
レティシアは声を発そうと口を開く。しかし——
——音が、出ない。
喉は虚しく開閉を繰り返すばかりで、空気すら震えない。
驚愕と困惑、恐怖が混ざり合い、彼女の瞳が見開かれる。
「……っ!」
「声が出ないだろう? ふふふ、解呪魔法を唱えようとしても無駄だ。詠唱ができぬのだからな」
その様子を見届けたアレクシスが、会場に向かって静かに語りかける。
「皆様、本日は重大な発表があります」
王太子アレクシスの静かな声が、大広間の空気を切り裂くように響いた。
ざわめきが生まれ、集まった貴族たちの視線がレティシアに集中する。彼女の唇は震え、必死に何かを伝えようとするも、声はまったく出なかった。
その痛々しい沈黙を冷ややかに眺めながら、アレクシスは表情を崩すことなく言葉を続ける。
「強欲で哀れな公爵令嬢レティシア・フォン・アルヴェルは、呪われたアクセサリーに手を出し、声が出なくなってしまったようです。私としても至極残念ですが――彼女との婚約は、本日をもって破棄とする」
会場に衝撃が走る。令嬢たちは目を見開き、貴族たちは口元を隠してささやき合い、空気が一瞬にして凍りついた。
「実家が黙っていない? いいや、家族すらキミには愛想が尽きたそうだ。だから君にはもう、なんの価値もない」
その言葉は冷酷で無慈悲だった。
レティシアは思わず一歩踏み出し、何かを言おうと口を開く。
(そんな……私は……)
けれど、喉は固く塞がれたまま。いくら口を動かしても、何ひとつ言葉にならない。
彼女が助けを求めるように周囲を見渡せば、返ってくるのは同情ではなく、冷笑と興味の視線。
「ようやく反省したのかしら」
「声も出せないなんて、因果応報ね」
嘲笑を交えたささやきが、まるで刃のようにレティシアを切り裂いていく。
アレクシスは一拍置き、口調をやや落ち着けてこう語った。
「ちなみにこの指輪は、義母上から贈られたものだ。彼女の助言に従い、私はレティシアに渡した」
人々の間に再びざわめきが走る。アルヴェル家の当主の後妻、すなわちレティシアの義母は、宮廷でも有名な策略家である。
「お前は、言葉によって人を支配してきた。ならば、その声を奪ったらどうなるのか……確かめてみたくなったのだ」
アレクシスの瞳には、怒りも哀れみもなかった。そこにあったのはただ、他人の運命を弄ぶ者の、冷たい好奇心。
そして、さらに追い打ちをかけるように口を開いた。
「そして私の次なる婚約者は、彼女──アルヴェル家令嬢の妹君だ」
驚きの声が漏れ、それはやがて祝福の拍手へと変わる。会場は新たな婚約者の登場に湧き立ち、祝辞が飛び交った。
その熱狂の中心にいたはずのレティシアは、まるで取り残された影のように立ち尽くす。
そして──静かに、崩れ落ちた。
深紅の絨毯の上に膝をつき、肩を震わせるその姿は、誰よりも美しく、誰よりも孤独だった。
(どうして……なぜ、私が……)
彼女の心の叫びは、誰にも届かないまま、静寂に溶けていった。
宴が終わり、月明かりだけが静かに庭園を照らす頃。
人気のない中庭の片隅で、レティシアはひざを抱えるように座り込んでいた。
頬には涙の跡。濡れた睫毛が微かに震えている。
(もう……全部、終わったのね)
誰も信じてはくれなかった。言い返すことも、守ることも、何ひとつできなかった自分。
それが悔しくて、情けなくて、そして……悲しかった。
ふと、ドレスの裾から覗く膝に、擦り傷があることに気づく。
(……魔法で、治せるはずよね)
微かに震える手を膝にかざし、指先に魔力を集める。
柔らかな光が灯りかけたその瞬間——
魔力の流れが、喉で止まった。
(詠唱しないと……発動しない……)
魔法は“言葉”によって形を成す。詠唱がなければ、魔力はただの光の粒に過ぎない。
口を開いても、声は出ない。空気すら震えない。
(やっぱり……使えない)
魔法が使えない自分は、もう誰も癒せない。誰も守れない。
そう思った瞬間、こみ上げてくる涙を止められなかった。
そのときだった。
指にはめたままの指輪が、じんわりと熱を帯び始めた。
「……っ!?」
驚いて手を振り払おうとした瞬間、指輪から、まるで誰かの息吹のような気配が伝わってくる——
まるで、誰かがそこに“いる”かのように。
そして——声が、響いた。
「お困りのようね、お嬢様?」
澄んだ、どこか挑発的で、明るさを含んだ声が、指輪から唐突に響いた。
レティシアは反射的に手を振って指輪を外そうとした。けれど、びくともしない。
(なに……っ……誰……!?)
確かに聞こえる声。しかし、あたりを見回しても誰の姿もない。
「ふふっ、そんなに怖がらないで。私はあなたの敵じゃないわ」
声の主は、明らかにレティシアの状況を理解している様子だった。しかも、会話をしているというより、直接心に語りかけられているような感覚。
「自己紹介が遅れたわね。私は桐島エリス。あなたの世界とは違う場所で、“配信”というもので多くの人を魅了してきた存在よ」
聞き慣れない単語に戸惑いながらも、レティシアの意識にはその言葉が念話のように流れ込んでくる。
「指輪越しだけど、状況は分かってる――あなた、声が出せないんでしょ?」
まるで見透かされたようなその言葉に、レティシアの心臓が一瞬強く脈打った。
「本当に酷いわね、あの王子といい、あなたのお義母さんといい……でも安心して。私があなたの“声”になってあげる」
(え……あなたが……私の……?)
「そう。私は今、あなたの指輪に宿ってるの。まあ……“精霊”みたいなものだと思ってもらえればいいわ」
現実離れしたその言葉。しかし不思議と、心の奥に染み渡るような力強さがあった。芝居がかった口調とは裏腹に、彼女の声には確かな意志と熱が宿っている。
(……あなたは、本当に誰なの? どうして、私に……)
レティシアの心の声に応えるように、指輪から柔らかな響きが返ってきた。
「私は“桐島エリス”。あなたたちの世界とは違うところで、VTuberっていう立場で活動していたの。喋って、笑わせて、何万人もの人を夢中にさせてきたわ」
(……何万人も?)
「そう。ファンを楽しませるために、あらゆるキャラを演じ分けてきた女よ。アンチすらファンに変えるのが私の芸風ってやつ」
エリスの語りは軽妙なのに、どこか誇らしげだった。
「でもね、あなた……声を奪われたんでしょう? あの王子と、その義母に。なるほど、これは典型的な呪い。しかも、陰湿でよくできてる」
(呪い……)
レティシアの胸がざわめいた。たしかに、自分の喉が封じられた瞬間の感覚は、単なる体調の異常とは思えなかった。
「声がなければ、あなたは魔法も使えない。詠唱魔法において、“声”は力そのもの。王子はそれを理解していた。だから、あなたの力を封じたのよ」
(……あの人は、それを分かっていて……)
悔しさに手が震える。
「でも安心して。あなたの声、しばらくの間は私が代わりに届けてあげる。しかも、完璧な再現付きで」
(……本当に、そんなことができるの?)
「できるって言ってるでしょ? 私は何百、何千という“キャラの声”を演じてきた女。あなたの声くらい、朝飯前よ」
明るく言い切るその声に、不思議と力をもらえた気がした。
「いい? あなたの評判も、運命も、声が変わればすべて変えられる。さあ、一緒に始めましょう。あなたの人生、これからは私がプロデュースしてあげるわ」
(……プロデュース?)
「こっちの言葉で言えば、“演出”ってこと。あなたの変化を世間に見せつけていくの」
最後にエリスは、やや真剣な口調で付け加えた。
「声を奪われたって、沈黙する必要はない。むしろ今こそ、自分の物語を始めるときよ」