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2.無垢

 日本は東京の一画。首都とはいえ主要部を離れたそこは、華やかな喧騒とは無縁の区画。色褪せた風景に紛れるように、錆びと汗が臭い立つような古びた道場があった。

 空手の道場である。

 時は早朝。中には男がひとり。あちこち擦り切れボロボロになった道着を着て、汗を迸らせながら虚空に正拳を打つ姿があった。

 男の名は■■■■、五十六歳。子どもの時分に空手に出会い、格闘技にのめり込む。以来四十数年、二日と稽古を休んだことはない。道場に通わなくなってからも、自室で公園で、欠かさず突き蹴り型を繰り返した。


 ◯


「なんや立派なモン持っとるやないか。真っ当なことに使ったらんかい」

 

 地元の中学で喧嘩を覚え、不良を相手に柔道家やボクサーとも喧嘩をした。


「教師がビビってイモ引いとったからワシが代わりにやったったんやないか!」

 

 高校は過激ないじめをする不良を病院送りにし、一年の半ばで中退。


「なんで万引きしよったオッサン殴ってワシが悪いねん、けったくそ悪いわぁ」

 

 転職をしては素行不良でクビになるの繰り返し。温厚な両親は■■の扱いに困り、追い出すように音信不通になった。独り暮らしをするに当たり長年通った道場も退会したが、酒も煙草も興味のない■■の唯一の趣味だ。結局すぐに舞い戻ることになった。違う流派の道場に通ったり、柔道や躰道の門を叩くこともあった。

 履歴書に不毛な書き込みが増え、年齢も三十を越えた。部屋に盾や賞状が増え、雇ってくれるところもなくなったころ、■■に転機が訪れる。

 ようやく採用までこぎ着けた老人ホームの仕事で、空手を教えてくれた恩師に再開したのだ。


「センセ……、園部センセやないか!!」

「おお……、■■。元気してたか」


 久し振りに会った恩師は顔のシワに紛れるほどに目を細め、笑った。


 介護の仕事は■■に合っていたようだ。鍛えた体は力仕事を容易にこなし、歯に衣着せぬ物言いはホームの利用者に気に入られた。利用者同士の喧嘩や利用者からの突発的な暴力を受けると、園部が「いい稽古だ」と笑った。確かにそうだと、■■も笑った。

 勤め上げて数年が経ったある日。園部が大病を患い入院した。入院に必要な諸々の用意は■■が行った。その折りに園部の家族に会ったが、家族の態度はそっけないものだった。

 それから数日。容態が急変した園部は帰らぬ人となった。


 園部が鬼籍に入った翌日。厳めしい顔をした遺族が■■を訪ねた。ちょうど仕事が終わり、帰り支度をしてホームを出たところだった。なんでも遺言状に不満があるらしい。

 目を通して見ると、そこには信じがたいことが書いてあった。■■が幼少の頃通い詰めたあの道場を、彼に譲ると、園部の字と押印の横に、そう書いてあったのだ。

 数十年ぶりに嗚咽した。止めどなく涙が溢れた。子どもの頃厳しく鍛えてくれた姿と、入院の直前まで背筋を伸ばして自立した姿が思い起こされた。遺族の言葉などもう聞こえていない。なにやら責め立てるような声を背に、■■は走り出した。

 通りに出てタクシーを捕まえ、アパートの自室から道着だけを持って道場に向かった。その間も涙が途切れることはなかった。


 久し振りに目にした道場は、記憶の中のそれと比べて余りにも寂れていた。

 通っていた頃と変わらず入り口横の植木鉢の下に隠されていた鍵を使い、中に入る。床板に積もった埃が舞い上がった。ようやく乾いた目を郷愁に湿らせ、押忍、と小さく呟く。

 まずは掃除だ。靴下を埃に汚しながら雑巾とバケツを取りだし、足音も高く雑巾掛けを始めた。


 ◯


 あれから二十余年。■■は自身の座右の銘ともなった『一意専心』の書を前に、ひた向きに正拳を放つ。

 園部は現金化させるつもりでここを■■に遺したのかもしれないが、■■は売らなかった。なんのノウハウもないままに直情的に道場経営を始め、なんとか道場主を勤めてきた。

 今日は園部の命日だ。道場は休み。朝から稽古をして、昼前に墓参りに行くのが、いつの間にか出来上がった習慣だった。

 墓参りのため長い石段を登る。急勾配のそれが何段あるのか、園部の指導で走り込まされたが、いつも途中で数える余裕がなくなってしまう。ふと思い立ち、今日は一段一段数えながら登ることにした。

 一段登り、過去を思う。空手との、園部との出会いは、■■の人生で一番のイベントだった。

 一段登り、思い出す。園部の言葉。「拳には自分の信念を握りなさい。(つよ)く握りしめなさい」

 一段登り、思い出す。「開手には他人の信念を乗せなさい。柔らかく受け止めなさい」

 一段登り、思い出す。「バランスが肝要だ。剛柔相済(ごうじゅうそうさい)。どちらが欠けても、寄ってもいけない」

 いつの間にか涙が溢れていた。二十年も経ったというのに、いや、経ったからこそだろうか。

 結局また数がわからなくなってしまった。もうすぐ石段が終わってしまう事実に苦笑しながら涙を拭い、顔を上げる。■■はこの時何かを決心したのだ。何かとの決別を決めた。はずだ。

 その決心が結実する寸前に、突然の衝撃と、浮遊感。目に映るのは直前までの石段など欠片もない、吸い込まれるような蒼穹。直後に襲い来る背中への痛み。酩酊感。痛みは背中から肩へ頭へ腕へ足へ腹へまた背中へ。ごろごろと音がする。自分の転がる音と、口の中を歯が跳ねる音と、何かが喉の奥からせり上がる音だ。

 無限にも感じる石段を落ちながら、その落下を終える前に、■■の命は燃え尽きていた。


 ◯


 目が覚めた時、■■は自分の道場にいるのだと思った。蛍光灯を這わせた天井の汚れに見覚えがある。神棚も、『一意専心』も馴染みのものだ。

 ()な夢見てもうたわ。体を起こそうとして、自分を覗き込んでいる人物がいることに気が付いた。垢に汚れた肌。目やにのこびりついた目。痩せこけた頬。ボサボサの髪。あまりに粗末な衣服。浮浪者のような風体の少女だ。何事かと訝しむ間もなく、少女は無造作に手を伸ばし、■■を持ち上げたではないか。

 あかん。こらあかんわ。褒めたらな。


「なんや嬢ちゃん、力あるなぁ」


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