1.出会い
ドラゴニア王国王都ドラゴニア。
歴史上稀に見る英耀を誇る国家の、白銀の王城が煌めく心臓部。地上の見張りを任された月がそろそろ太陽と交代しようかと言う時分に、白亜の龍鱗を思わせる王都外壁より、一台の馬車が吐き出された。
華やかな都市をしてなお目を引く装飾の馬車は、その持ち主の財布の大きさを喧伝するかのようで、教養あるものはむしろ眉を潜めるだろう。
やはり身なりの良い御者の男が、焦れるようにひとりごちた。
「クソッ、遅くなっちまった」
身なりのわりに男の所作は粗雑だった。苛立たしげに髪を掻き乱し、乱暴に鞭を振るう。御者台や馬車が揺れることなどお構いなしに馬を急かす。
「これじゃ夜明けに間に合わない……。あぁぁぁ、あのボンが寝こけてますように……」
石で整えられた街道は通常なら揺れを伝えることは少ないが、痛みに加速する馬が常通り丁寧な走りをしないことも相まって、男の尻をひどく苛んでいた。
男は痛みに舌打ちを漏らすが、それ以上に馬車の中がひどい。縦に横に、馬車が揺れる度に中からは小さな悲鳴が折り重なって聞こえてくる。それもまた男を苛立たせた。
「うるせえ! 静かにしねえと叩き落とすぞ!」
怒号を飛ばすと悲鳴は消え、聞こえるのは馬蹄が石材を叩く音と馬車の軋む音だけになった。実際には降ろすことはできない。男の仕事は馬車の中身の運搬だからだ。もし充分な数が確保できなかったら……。男は無意識のうちにうなじを抑えた。そこにはほくろのような赤い点がよっつ並んでいて、うちみっつは同じ色の線で貫かれている。
最後のひとつは守らなくてはならない。まだ死にたくはないのだから。
◯
豪華に過ぎる馬車の中は質素に過ぎるものだった。きらびやかな装飾も、柔らかなクッションも、鮮やかな敷き布もなにもない。外から見えない部分などどうでもいいとばかりに、木材が剥き出しの惨めな馬車。
決して広くはないその中に、少年少女が五人も詰め込まれている。いずれも体に垢が浮き、あちこちに痣が出来ている。着ている服は薄汚れ、肉付きから食事を満足に摂っていないことがわかる。
子どもたちは皆孤児だった。男が王都で集めた孤児たちだ。時に路地裏から、時に空き家から拐って集めたのだ。
馬車の中には押し殺した苦鳴が満ちている。誰もが不安げな表情で、御者の男に怯えている。馬車に乗るまでに振るわれた暴力が、子どもたちの心を支配していた。ひとりの少女がこらえきれず啜り泣くと、連鎖したように他の子達も泣き出した。御者の男にまたも怒鳴られ、びくりと肩を震わせ唇を噛み締める。腕や服で口を覆い、外に漏れないよう怯え泣く。
そんな中でひとりだけ、泣いていない少女がいた。黒髪に虱を這わせ、鋭い目付きを目やにで縁取った少女だ。歳の頃は十の前半か。他の子と比べ痣の薄い彼女は、この中で一番早く男に捕まった子どもだった。
元々王都の隅の路地裏でひっそりと生きていた彼女は、気づいたときにはひとりだった。ゴミを漁り、表通りの健康そうな人々を別世界のように眺める日々。白銀の城を、純白の騎士たちを見て綺麗だなと羨む日々。そんな日々はどうやら終わった。
この馬車に囚われてから丸一日は経ったろうか。食べ物も飲み物も与えられず、衰弱していた。今も、他の子どもが揺れに体を強ばらせるなかでひとりだけ揺れに身を任せている。
馬車に揺られてどれくらい時間がたったろうか。木組みの隙間から微かに光が射している。夜が明けたようだ。男はいつしか怒号を飛ばさなくなり、代わりにぶつぶつと何事が呟いている。子どもたちも何人かは疲れて眠ってしまっていた。馬の呼吸が荒く聞こえてくる。
いつの間にか土を削っていたらしい蹄の音が、再度固くなった。御者とは違う男の声が聞こえる。
「遅えぞ! 夜明け前までにって言ってあったよなぁ!?」
「す、すいやせんナリーさん! 王都を出るのに、衛兵どもの気をそらす必要があって……」
怯えきった声を出したのは御者の男だろう。がばりと開けられた扉から夜明け直後の空気と淡い光が飛び込んできた。目を覚ました子どもたちと一緒に、黒髪の少女も目を細める。
「ほら、さっさと降りろ! お待たせするんじゃねえ!」
「うわぁ!」
扉付近の子どもが服を捕まれ、力任せに引き釣り出され地面に転がった。二人三人と力付くで降ろされると、四人目からは自分で降りた。黒髪の少女もノロノロとそれに続いた。
馬車を降りた先は森のなかのようだった。周囲を木々に囲まれ、そこかしこから鳥獣の鳴き声が聞こえている。正面には古い遺跡のようなものが見え、その遺跡の入り口付近に五人の男と、少し離れて二十人以上の子どもたちがいた。
五人の男の中心に立つ、ナリーと呼ばれた男が叫ぶ。
「言い訳なんざ聞きたくねえ! お前は俺の命令を破ったんだよ!」
ナリーはやたらと装飾の着いた、しかしくたびれた服を着ていた。編まれた金髪もところどころ跳ね、髭も伸びている。指には宝石の着いた指輪をいくつも着けていたが、磨かれていないのかくすんでいた。頭から爪先までを手入れの行き届いていない高級品で包んだナリーは、右手にのみ、尺骨ほどの長さの古びた杖を持っていた。その杖を持つ手に力を込め、神経質そうな目を吊り上げ、威嚇するように振り上げる。
「そ、そんな、ほんのちょっとじゃないスか!」
「関係ねえな。お前は俺を裏切ったんだ! 裏切り者だ! 許しちゃおけねえ!!」
昂った金切り声で叫ぶと、ナリーは杖を御者の男に突きつけた。
「ひぃっ!?」
ひきつった悲鳴を上げ、御者の男は背を向けて駆け出した。もう一度御者台に乗り込むが、馬がへたりこんで荒く呼吸を繰り返している。構わず鞭を振るおうとしたが、ナリーの方が早かった。
「【執行】ぉ!」
叫びに応じて杖の先から赤い光が放たれ、道筋が出来ているかのように大きく湾曲しながら御者の男の首筋に命中した。男はビクンと大きく痙攣すると、体の力が抜けて御者台から滑り落ちた。仰向けになった顔は白目を剥き、半開きの口からは舌が覗いている。零れた涎が呼気に揺れることはない。絶命しているのだ。
森に子どもたちの悲鳴が響いた。
◯
ナリー・ティーは貧乏人だった。
若い頃、年相応の野心があったナリーは一攫千金を目指して冒険者になったが、およそ才能というものに縁がなかった。ないよりマシな魔術を使える荷物持ち。それがパーティでの役割だった。メンバーは決してナリーを蔑ろにはしなかったが、日々の中で少しずつ嫉妬に歪んでいった。
彼の転機はある遺跡の探索にあった。古代の神秘、ロストテクノロジーで編まれたアーティファクトを発掘したのだ。それもふたつ。しかしパーティのダメージも甚大だった。遺跡の出入口付近まで戻った時、生き残っていたのはナリーともうひとりだけ。
もうすぐ出口。もうすぐ帰れる。
先導する仲間の後頭部に向けて、ナリーは杖のアーティファクトから魔術を放ち、仲間を殺した。
アーティファクトをふたつとも手中に納めたナリーは、【隷属】の魔術を使える杖を手元に残し、もう一方のアーティファクトを売りに出した。そうして、ナリーは一攫千金を成し遂げたのだ。もう雑用などしなくていい。泥と血にまみれて魔獣を狩る仕事ともおさらばだ。欲しいものはなんでも手に入る。そう歓喜に沸いた。
だが栄華の時代は短かった。莫大な金を得たナリーだったが、彼は大金に慣れていなかった。孫の代まで安泰かに思われた金は、放蕩に継ぐ放蕩、散財に継ぐ散財に耐えられなかった。
所詮はあぶく銭。また稼ぐ宛などないのに、ナリーは浪費を抑えることができず、気付けば金は底を付き、使用人はみな逃げ出し、館の維持も出来なくなり、借金を背負っていた。身の回りを飾る最低限を除いて、馬車の内装に至るまで手放した。その金でゴロツキを釣り、【隷属】させ身寄りのない子どもを集めさせた。
もう一度だ。もう一度アーティファクトを見付ければ、またあの暮らしに戻れると、目を濁らせて。
◯
「ナリーさん、死体はどうしますか」
残った男のひとり、痩せ細った男が媚びるような声を出した。痩せ男は指で御者の死体を示している。ナリーは吐き捨てるように返した。
「そんなもんほっとけ。時間が惜しい。おらガキ共! こっちに並べ!」
苛立たしげに杖で男の子を叩きながら、ナリーが声を上げた。怯えた子どもたちはナリーの指示に従った。黒髪の少女もそれに倣うが、空腹と乾きのためか動きが遅い。それを見咎められた。
「おいそこのクロ! ノロノロしてんじゃねえ!」
ナリーの檄が飛ぶ。集まった子どもの中で黒髪は自分ひとり。廃墟に隠れ潜んでいた肌には垢が浮きこれも黒い。自分のことかと気付いた少女は自嘲するが、幸いにも表情には現れなかった。
クロと呼ばれた少女はせめてもの反抗とばかりに意識的にゆっくり動き、示された場所、遺跡の入り口に集まった。それを囲うように、武器を持った男たちが立った。剥き出しの刃物をチラつかせ、威嚇している。
「チッ、何人か来てねえな……。まあいい。おいガキども! お前らは今から、この遺跡の探索をするんだ。金になるもの持ってきたら解放してやる。そうでなきゃ殺す」
長く要領を得ないナリーの命令だったが、要約すると以上となる。子どもを使って罠や隠し部屋を見付けたい、ということらしかった。クロの背後に立つ痩せた男が吐き捨てるように呟いた。
「今さらここでお宝なんか見付かるわけねぇだろ……。悪あがきに俺を巻き込むんじゃねぇっつの」
見ると他の男たちも決して好意的な表情をしていない。ナリーの隣に立つ赤い髪の大男など猛獣のような怒気を隠しもせず、今にも剣を抜き放ちそうな威圧感を放っている。ナリーもそれが分かっているのか、背後に人が立つのを神経質に警戒してるようだ。
そう観察していたクロは、足元に虫が這っていることに気が付いた。自分の指ほどの大きさの芋虫だ。
「あっ……」
「なにしてる!?」
小さな声をあげて、クロは膝をついた。その急な動きにナリーが高い声を上げた。クロは尻を叩きながら答えた。
「別に……。転んだだけ」
大きな舌打ちをし、ナリーは自分の近くにいる子どもを五人選び、喚きながら遺跡の中へと押し込んだ。それを見ながらクロは捕まえた芋虫を口に運ぶ。
こんな奴らの思惑通りになんてなるものか。自分は生き延びる。
◯
遺跡は入り口付近から道が三本、少し進むとさらに下に複数に別れていた。かなり大きい施設のようだ。子どもたちは数人ずつに分けられ、それぞれの道を歩くよう命令された。クロのグループは他に男女が二人ずつ。ひんやりした空気に肩を縮ませながら歩いていく。
四人は王都で知り合いだったらしい。男児二人と女児一人はどちらもクロと同い年くらいに見える。三人とも困惑の表情を浮かべながらグズグズと鼻を啜っている。もうひとりの女児は年上、十代の後半くらいだろうか。銀髪の彼女はミラリエと名乗った。
「大丈夫だから。みんなで生きてここを出よう。君も、行くところが無かったら、うちの院においでよ。お金は無いけど、みんないい人だよ」
気丈に笑うミラリエは、指先を震えさせながらクロの手を握ってくれた。
「私たちは同じ孤児院にいたんだ。私なんかは貰い手なんかいなくて、もうそこで働いてるようなもんだったんだけどね。チビ達の面倒も見てたから、院のみんなが泣いてないか心配」
「ルー姉ちゃんはオレたちのこと気にし過ぎなんだよ。ちっちゃいうちにさっさと里子に出てればよかったのにさ」
「そう簡単にはいかないんだぞー?」
大きすぎない声で身の上を語るミラリエたち。クロの緊張をほぐそうというのだろう。松明が照らす石造りの通路に、彼女たちの明るい声が小さく反響した。
「あいつらもバカだよね。ただの子どもが遺跡探索の手解きなんて受けてるわけないんだから、アーティファクトなんて見付かるわけないのに。見張りも付けられてないし、どこかで逃げよう。相当古い遺跡みたいだし、どこかで壁が崩れてるかもしれない」
その言葉に他の三人も顔色を明るくさせた。クロは表情を変えずに通路の先を見詰めている。そうしていると、ミラリエが心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたの? 具合悪い?」
クロが驚いて口ごもると「あ、さっきも倒れてたよね。具合悪い?」と続けた。クロは若干口ごもりながら答えた。
「……お腹が空いてるだけ。……あと喉も」
ミラリエはパッと顔を明るくし、服の中に手を入れた。そして差し出された手には、手のひら大のパンが載せられていた。
「よかったらこれ食べて! 昨日の夜の残りだけど」
クロは先程よりずっと大きく驚いた。王都は食べられるゴミが多く、同輩と奪い合いになることこそ少なかったが、食べ物を貰うのは、彼女にとっておよそ初めての経験だったのだ。
パンとミラリエの顔を何度も視線を往復させ、意味を取り違えていないか恐る恐る確認する。
「……わたしが食べていいってこと?」
「もちろん。私たちは最後にあの馬車に乗ったから、まだ大丈夫! あんたたちも大丈夫だよね?」
ミラリエが三人を振り替えって問うと、三人とも元気に頷いた。クロはおずおずと手を伸ばし、ミラリエの顔色を確認しながらパンを受けとり、口に運ぶ。
するとミラリエの手がクロの頭に伸びた。クロは瞬間体を強ばらせ、その手を凝視する。パンを返すか、急いで口に放るか逡巡するクロを意にも介さず、ミラリエの手はクロの頭を撫でていた。
「大丈夫だよ。取らないから、よく噛んでお食べ」
驚きに頭を真っ白にしながら、クロはミラリエの優しさを、それと知らず噛み締めていた。
◯
「ものをもらったらありがとうって言わなきゃダメなんだよ」
「ありがとう……ミラリエ」
「ミラリエさん、だろ! 恵んでもらったらちゃんとケーイをはらえ!」
「こぉら。怒鳴らないの」
パンを食べ終えたクロたちは歩みを再開させていた。年上ぶる子どもたちの教えたがりをミラリエが優しく窘めている。
ミラリエは王都で冒険者の手伝いをして日銭を稼いでいたらしい。手伝いは荷物持ちや火の番が主なものだ。その中で冒険者についてこの遺跡にも来たことがあるそうだ。
「私はもうひとりの荷物持ちと外で待ってただけだけどね」
ここは王都西の、狭くて何もないことで有名な遺跡。入り口に『選別の登竜門』と刻んであることから、その名前で呼ばれている。外観と中の通路の幅が合わないことから、どこかに隠し部屋があるのではないかと噂が立つが、誰もその隠し部屋も、手掛かりも見付けることはできていない。ミラリエがついてきた冒険者たちもアーティファクト(遥か昔から存在する、魔術の込められた道具らしい)を探していたが、丸一日かけて収穫はまるでなかった。
それを今さら、探索のいろはも特別な技能も持たない子どもだけを集めて、虱潰しのつもりだろうかとミラリエは苦笑した。クロは細身の男の言葉を思い出す。そんな悪あがきに付き合わされたのかと、ふつふつと怒りがわいていた。
「冒険者はいいよぉ。夢があるよね。冒険中に見付けたものは自分のものだし、こういう遺跡で宝物なんか見付けたら、使いきれないくらいのお金がもらえるんだから! 聞いた話ではね、王都一番の冒険者は王様から直接ご褒美を貰うこともあるんだって!」
楽しそうに話すミラリエに続いて歩くこと数十分。松明の明かりに壁が照らされた。押しても叩いてもびくともしない、ただの石積みの壁にしか見えない。行き止まりだ。
ここまで隠し部屋らしきものもなかったし、仕掛けのようなものも見当たらなかった。外に出られるような亀裂も、なかった。
悄然と肩を落とし、ミラリエは言った。
「戻ろう。何もなかったのはしょうがないよ」
子どもたちは不安そうにミラリエの顔を見上げている。少し時間に遅れたからと人を殺すような男だ。それで納得してもらえるだろうか。
クロは壁に近付き手を伸ばした。なにか考えがあったわけではない。隠し部屋よりかは、また食べられる虫でもいないかという思惑のほうが強かった。
不揃いな爪先が壁に触れると、変化があった。積まれた石の隙間から淡い光が漏れ、ゴゴゴゴと重い音を腹の底に響かせながら壁が動き出したのだ。
「な、なに……!?」
咄嗟に手を引くクロを、ミラリエが抱き寄せた。漏れる光はどんどん大きくなる。壁が左右に、扉のように開いていった。
その先にあったのは、広く綺麗な板の間だ。四方の壁は淡い白で塗られ、天井には幾条もの光が細長く固められ室内を照らし、松明に慣れた目を眩ませる。完璧な平面に組まれた木床はどういうわけかツヤツヤと光を反射し、天井からの光量を増していた。正面の壁の上部には小さな社のようなものが組まれ、その下にはなんと読むのか、『心専意一』と筆書きされた書が飾られている。
そしてその書の前には、綺麗畳まれた真っ白な、おそらくは衣服。
「…………」
五人はしばし声を失って立ち尽くした。思いもしなかった展開に。想像もしなかった光景に。たっぷり数十秒経ち、いち早く我を取り戻したのはクロだった。いや、取り戻してなどいないかもしれない。まるで幽鬼のようにふらふらと板の間に踏み入った。
「あ、ちょっと! 危ないよ!」
心配するミラリエの言葉も聞こえていないのか、クロの足は止まらない。ミラリエが板の間に入るのを躊躇う間にもクロの足は加速し、輝くように白い衣服を手に取っていた。
途端、
「なんや嬢ちゃん、力あるなぁ」
太く、重く、力強く、しかし朗らかな男の声が耳朶を打った。