サイレント・ブレイキン・ハート
落ち着いた雰囲気のカフェの店内。机もテーブルも、壁も床もそのほとんどが木材で統一されていた。店内には僕以外では窓際の席に大学生風の男が一人いるくらいでがらりと静かだった。控えめな音量で流されているクラッシックが心地いい。
僕はそんな店内のレジから一番遠いテーブル席に座って、香ばしいオリジナルブレンドのコーヒーをゆっくりと舐めていた。
窓の外に視線を向けると、楽しそうなカップルや背広姿の疲れ切った顔をしているサラリーマン然とした男性、子連れの若い女性など様々な人がごちゃごちゃと行き交っていた。
コーヒーを舐め、溜め息交じりに腕時計を見た。昼時を僅かに過ぎている。
その時、カフェの出入り口の扉が開いた。取り付けられたカウベルが間抜けな甲高い音を鳴らした。一人の男が入ってくる。その男は店員と短いやり取りをした後、店内を見渡して僕を見つけると笑みを浮かべながら歩いてきた。片手をあげて「よう」と僕に向かって挨拶する。僕も片手を上げた。
「よう。ハルキ」
ハルキは僕の向かいにドカリと腰かける。僕よりも頭半分ほど背が高く、肩幅も広くてガタイがいい。彫りが深くて爽やかな顔立ちをしている。ハルキは僕と同じ大学の同じ学科の同期だ。僕が一番初めに話すようになり、気を許したのはコイツだった。
ハルキは申し訳なさそうな表情をして片目を閉じた。
「わりい、教授が離してくれなくてさ」
「いいよ。そんなに待ってないし」
ハルキは店員にアイスコーヒーを注文する。店員がハルキのコーヒーを持って来るまで僕達は他愛のない世間話をした。やがてアイスコーヒーがやって来て、ハルキの前にコースターを敷いて置かれた。ハルキはついていたストローを使わずにグラスに直接口を付けた。持ち上げた拍子にグラスが掻いていた汗がぽとぽととテーブルに落ち、そして跳ねた。
ハルキは三分の一程を飲んでグラスをコースターの上に置くと小さな溜息を口から吐き出した。
僕はハルキが一息ついたのを確認し、腕を組んで背もたれに背中を預けながら「それで」と口に出した。ハルキの目を見る。その言葉でハルキも僕の目を見てきた。僕はハルキのスッと爽やかな目元をみて、何度見ても綺麗な目をしているなと声に出さずに独り言つ。
視線が、コーヒーの置かれたテーブルの上で交叉する。
「それで、僕に相談ってなに?」
僕はハルキに相談があると言われ、このカフェに呼び出されていた。ハルキは大抵の悩み事や問題を誰にも相談せずに一人で解決させてしまう為、ハルキのことを親友だと思っている僕には少々物足りない部分があった。そんなハルキから相談があると連絡があった時は大層驚いたものだ。顔には出さないようにしているが、内心なにを話されるのだろうとドキドキしている。
ハルキは身を乗り出し、両腕をテーブルの上に置いて指先を組む。そして「……ああ、早速だが本題に入るか」と切り出した。僕は無意識に唾を飲み込み、喉を鳴らしていた。
「相談というのはな、犀川コノミについてなんだ」
「犀川コノミって、僕達と同期の?」
「ああそうだ」
犀川コノミは僕はハルキと同じ学科の同期の女の子だ。女性にしては長身ですらりとしたモデルの様な体型をして、そして出るところは程よく出ていてそのシルエットは神々しさすら感じる程綺麗だ。
容姿も、そこらの顔で売っている女性アナウンサーにも引けを取らない位整っていた。普段は爽やかな表情をしているのに、時折見せる子供のような無邪気な笑みがとても愛らしい。
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花と言う言葉は彼女の為にあると言っても過言ではないくらいだ。極めつけに頭もよく、聞いた話では新体操をしているらしく運動神経もいいようだ。
才色兼備。
羞花閉月。
朱唇皓歯。
国色天香。
そこを通るだけで誰もが振り向くようなそんな女性だ。大学のマドンナであり、日々悩める男子大学生を悩殺している。
僕は嫌な予感がした。
ハルキはぺろりと唇を舐めて湿らせた。
「実は……俺、彼女のことが好きなんだ」
瞬間、強烈な耳鳴りがした。キーンとモスキート音にも似た雑音が頭の中を駆け巡る。視界が端の方からゆっくりと狭まり、座っているにもかかわらず立ち眩みのような眩暈が僕を支配した。吐き気がする。
「どうした? 気分でも悪いのか」
「……い、いや、大丈夫」
僕はテーブルの端を片手で強く掴んでふらつく身体を固定した。もう片方の手で太腿を力一杯に抓って無理矢理に眩暈を弾き飛ばす。
そして恐らく引きつっているであろう笑顔を浮かべる。
「ちょっと寝不足でね」
「そうか、体調が悪いなら言えよ」
「うん」
それよりも、と僕は未だ鳴り続けている耳鳴りを不快に思いながら言った。
「犀川コノミが好きって、いきなりそんなことを言われるとは思わなかったよ。ハルキってあまりそんなことに興味ないのかと思ってた」
ハルキはいろいろなことに大して大雑把でありサッパリとしているのであんまり恋愛だとかに興味がないと勝手に思っていた。と言うよりもハルキと、恋愛だとか恋だとか言う甘ったるいモノとが僕の頭の中では結びつかないのだ。
ハルキは身体を起こして背もたれに身体を預けると、ふんっと鼻を鳴らした。
「バカ言え、俺だって一人の男である前に一人の人間だぜ? 人並みに男女関係に対して興味はあるし、そもそも性欲って言う本能がある。お前だって恋をしたことくらいあるだろ?」
「……まあ、うん」
僕はハルキの顔を見た。真っすぐな瞳がこちらを見ていて、思わず視線を外してしまった。ハルキがコーヒーを一口飲んだ。
「話を戻すが、俺は犀川コノミに恋をしている。それで、だ」
ハルキはそこで一呼吸を置いて続ける。
「告白してみようと思うんだ」
僕はコーヒーカップに伸ばしかけていた手を止めた。落ち着いてきていた耳鳴りが再び激しくなり始めた。
「告白?」
「ああ、告白だ。相談って言うのはどうやって告白するかって事なんだ」
僕は夢の世界にいるような錯覚に陥った。思考と身体の動きにラグがあるような、何処かふわふわとした感覚を覚える。身体と精神が乖離したかのような、変な感覚だった。
気持ちを落ち着けるために、すっかり温くなったコーヒーで口を潤した。縺れそうな舌でなんとか「そうなんだ」と言った。「でもさ」と続ける。
「それなら男である僕じゃなくて女の子に聞いた方がいいんじゃない? どう言う告白をされたいかって言う質問には僕よりも断然使える答えが返ってくると思うけど」
「女友達いねえんだよ俺」
イケメンの部類にやすやすと入るであろうハルキに女の子の友達がいないと言うのは意外だった。「妹や姉は?」と聞くとハルキは首を横に振った。
「兄ちゃんが二人いるだけだな。そもそもそう言う恋バナとかって兄弟同士ではあんまりやらないんじゃねえの?」
「そう言うもんなのかな」
一人っ子なのであまり分からない感覚だ。僕は兄弟のところを両親に置き換えて考えてみた。……なるほど、確かに話しにくいかもしれない。こっぱずかしいと言うか、むず痒いと言うかよく分からない気持ちになった。
ハルキが口を開く。
「んで、どうしたらいいと思う? ラブレターでも書こうかなとは思ってるんだけどな」
僕は腕を組んだ。
「うーん、やっぱり直接想いを伝える方がいいんじゃないかな。高校時代にスクールカースト上位の女子が話していたのを聞いたことあるんだけど、『男がラブレターを書くのって女々しくて、なんかきもいよねー』って言ってたよ」
「そ、そうなのか……」
僕は冷めきったコーヒーを飲み干して店員におかわりを頼んだ。
それから僕とハルキは暫くどう告白すればいいかについて話し合った。ハルキに向かって、僕の中のスカスカな恋愛観を語りながら、自分は何をしているのだろうと思った。何故、自分が不利になるようなことをしているのだろうと。
しかし、ハルキの告白が失敗するように無茶苦茶なアドバイスをするほどの度胸も、そんな素晴らしい性格も持ち合わせていなかった。
窓の外はいつの間にか雨が降っていた。街並みが白く煙って見える。
ハルキは「よしっ」と言った。
「決めた! 直接想いをぶつけてみることにするよ」
「そう、応援してる」
僕の口からすらりと嘘が転がり出る。応援なんかしたくないし、多分できない。
ハルキは立ち上がった。財布から三千円を取り出してテーブルに置く。ハルキの分と僕の分を合わせても足りる額だ。
「今日はありがとうな! 俺頑張るよ。じゃあまた大学で」
「うん。じゃあね」
ハルキがカフェを出て行った。激しく降る雨の中を駆けていく。ハルキの姿が見えなくなってから、僕はテーブルに肘をついて飲み干したコーヒーカップの中を見た。底に黒いコーヒーだったモノがこびりついている。
犀川コノミとハルキが寄り添って歩いている姿を思い浮かべてみた。美女美男子のお似合いのカップルの姿が容易に想像できた。ハルキは決めたことを必ず実行する男だ。近いうちに犀川コノミにその胸に秘めた想いを伝えるだろう。犀川コノミは告白してきた男を悉く弾いているが、ハルキならば、あるいは成功するかもしれない。ハルキはいいやつだ。
僕はハルキの告白が成功するのか、はたまた失敗して玉砕するのかぼんやりと考えてみた。しかしそれは途中でやめた。
成功しようがしまいが、変わらない事実があるから――
――僕のハルキに対する想いが、完全な一歩通行であると言う事実があるからだ。
僕は窓の外を見る。
まだ雨が降っている。サラリーマンと思わしき背広の男が、鞄を傘代わりにしながら早足で駆けていくのを見るでもなく見た。
ハルキの告白が、どう言う結果になろうが僕には関係ない事だが、それでも失敗するくらいならば成功して欲しいと思う。いや、無理矢理にそう思うようにした。
だって、好きな人が落ち込んでいる所を見たくはないから。
……この雨はいつ止むのだろう。
僕は今日、傘を持って来ていない。