96、一触即発(いっしょくそくはつ)
永禄四年(1561年) 十月下旬 安芸国 吉田郡山城 毛利隆元の部屋 小早川隆景
兄の部屋を訪うと、兄が腕を組んで讃岐の地図を見ていた。
「中務大輔よ。公方様が大友と和議を結べとうるさくてかなわぬ」
うんざりしたように兄上が言う。公方様からの書状は兄上にも、そして私の所にも届いている。大友、尼子との和議を結べ、上洛して顔を見せよ。そのことばかりだ。大友義鎮は恐ろしい男よ。簡単に和議など結べぬわ。備前には浦上遠江守が尼子方について当家と敵対している。尼子、大友、浦上は手を結んでいるとも聞く。当家は敵に囲まれてしまった。身動きが取れぬ。
「公方様は大友の野心を御存知ないのでしょう。大内に弟を送り込み、今度は当家に刃を向ける……梟雄とはあの御方のためにあるような言葉です」
「そうよな。和議など結べるわけもない。長門の父上も文でそのように仰せであったわ」
父上は長門国にいる。軍勢二万を率いて、大友に目を光らせていた。尼子攻めは取りやめているから兵を長門に回すことができる。
「中務大輔、大友の足止めに龍造寺を使おうと思うのだが、どうかな?」
龍造寺隆信、肥前の熊と恐れられる猛将だ。家臣団も勇猛果敢と聞く。ただ龍造寺は……。
「神代大和守が龍造寺の行く手を阻みまする。なかなか難しいことかと」
「ううむ……。龍造寺は動かせぬか」
大友の勢いは止められぬ。戦になろう。公方様には、足利に力などない。
「それにしても、公方様もこのような西国の戦に口を挟まれるとは」
「公方様は天下の安寧を願われておる。まあ、大内義隆殿が討たれたことで西国はまとまらぬがな」
そうだ。大内侍従が討たれたことによって、西国はまとまることができなくなった。あの御方が生きていれば、上洛も難しくなかったというのに……。
「中務大輔よ、四国はどうかな? 公方様は讃岐の香川を頼りとしておるようだが……」
「讃岐の香川右衛門大夫、相当に苛立っておるようで」
「ふむ。三好豊前守のことでかな?」
三好豊前守、油断ならぬ男よ。主人であった細川持隆を殺し、その妻を奪って自分のモノにした。さらに国人衆も屠って、王のように振る舞っている。兄の三好長慶と違って、豪胆で容赦がない。
「はい。公方様と香川はつながっておりまする。このまま、六角と畠山が兵を上げれば、香川も挙兵しましょう」
兄上の顔が険しくなった。
「香川の後押しをすれば、三好も気に障ろうな」
公方様が求めるのは香川右衛門大夫を決起させ、三好とぶつけること。そして香川を毛利が後押しすることだ。三好は十河讃岐守が死んだとはいえ、まだまだ強大よ。三好と戦うことは避けたい。
「兄上……」
「分かっておる。香川には文を送る。毛利が後ろ盾故、安心して戦いなされと」
ニヤリと兄上が笑みを見せた。
「し、しかし。それでは」
「香川右衛門大夫が負ければ、毛利で匿う。なに、三好豊前守は気に食わぬ。今のうちに弱らせておくのだ。あの男が力を持てば、毛利とて潰されかねぬ」
「毛利が豊前守に?」
「そうだ。豊前守は虎福丸とも仲が良いと聞く。虎福丸ならば、毛利を取り除くことも考えよう。中務大輔よ、敵は大友だけではない。幕府の内側にもいると考えよ。香川右衛門大夫が望めば、兵糧とてくれてやろうぞ」
兄上が笑みを見せた。三好が毛利を喰う? 背筋に冷たいモノが流れる。考えたことはなかった。ただ、あの豊前守ならやりかねぬわ。気をつけねばならん……。
永禄四年(1561年) 十一月上旬 摂津国 有馬郡三田城 伊勢虎福丸
「西国もきな臭くなってきたな」
俺が言うと、瑞穂が頷いた。
「大友は兵を集め、毛利も長門に兵を集めています」
「隠居の毛利陸奥守が出張って来たか。当主の毛利隆元は吉田郡山城にいるのか?」
「はい。小早川中務大輔とよく会っているようで。大友攻めの算段が話し合われていると思われます」
「ふーむ、大友と毛利がぶつかれば、公方様も心配されような」
「はい。公方様は殊の外、大友と毛利の和議にご執心でしたし」
義輝のことだ。苛立っているのかもしれんな。少し、御所に顔を出してやるか。
「それと香川右衛門大夫でございますが、兵を集めているようでございます。一条、本山、河野とも使いの者が行き来しているようで」
「ふむ。毛利はどうだ? 香川の後ろ盾になりそうか?」
「今のところは毛利の忍びは見ておりませぬ。香川にいる伊勢忍びも多くありませぬ故」
瑞穂の口調が少し重くなる。そうなんだよなあ。忍びを香川にまで送る余裕がない。香川が本気を出せば、阿波も讃岐も揺れ動く。それくらいの爆弾だ。義輝は香川を揺さぶって、その上で六角と畠山に決起を促すだろう。六角も観音寺城を取り戻し、勢力を盛り返している。油断できん。
「なら安心かな。俺は香川右衛門大夫とあと大友だな。西国の動きが畿内に関わって来ると見ている。ここが正念場だ」
俺の言葉に瑞穂が頷いた。忍びには負担を強いている。申し訳ないとも思う。
与次郎を呼んだ。与次郎には内政を任せている。都市の経済の活性化だな。温泉に新しい遊郭を作らせた。他の地域では怖いという若い女たちが有馬郡に逃げ込んできている。それと若い侍たちを遊ばせる。町に活気が出てくる。商人たちも寄り付くようになるだろう。有馬郡は平和で安全だ。そういう噂を流させた。効果は出ている。播磨から逃げ込んでくる者も多い。そういう者のために家も用意してやる。至れり尽くせりだな。
「若を慕って、各国から民が逃げ込んできております。有馬は生まれ変わりましょう」
与次郎が嬉しそうに言った。
「播磨の国人たちから妬まれよう」
「また兵を集めて、有馬に攻め込んできますかな?」
「ハハ……またその時は逃げるだけだ。民は逃げたところについてくる。その内、伊勢を攻めた武士たちは責められるようになる。波多野のようにな。民は良い政をする者についていく」
波多野の評判は悪くなっている。伊勢虎福丸の留守を襲った。卑劣な連中だと、な。民の恨みを買った。この代償は大きいぞ。
「俺は御所に顔を出す。与次郎よ、有馬郡はそなたに任せる。おそらく、年内には帰って来れんだろう」
「御意。幕臣としての務め、御立派に果たされませ」
与次郎が顔を引き締めた。与次郎になら任せられる。文武両道の名将だからな。全く、伊勢の人材は名臣ばかりだ。恵まれているな。義輝とは大違いだわ。




