8、鬼の一族
永禄三年(1560年) 九月 京 伊勢貞孝の屋敷 伊勢虎福丸
「見事な器よ」
俺が感嘆の声を上げると、目の前の歩き巫女が頷いた。
「津島の職人が焼いた皿でございます」
津島。尾張の港町だ。焼き物で有名でもある。忍びたちは相模や駿河、遠江、三河に配置してある。それでも人数が足りない。もっと欲しいところだ。
「鈴奈、忍びだが、増やせぬか」
「そうでございますね……。なかなか一から忍びを育てるのも難しゅうございますし」
鈴奈がはあと溜め息をつく。
「丹波の波多野の村雲党、近江六角の甲賀忍者。いずれも結束が固く、我ら伊勢忍びには寝返りませぬ。このまま少ない人数でやっていくしかありませぬ」
鈴奈が困ったように言った。鈴奈は伊勢忍びの頭領の一人だ。二十くらいの年齢だが、忍びの中では腕利きだった。
「今川が衰えたとはいえ、息子が継いでおりますから。国人衆の結束も強いです。何といっても、甲斐の武田。相模の北条の三国同盟も健在ですし」
「引き抜くことは難しいというわけか……」
鈴奈がこくりと頷いた。今川は動揺しているものの、残された者たちの結束は固い。鵜殿、朝比奈、井伊といった強者も残っている。
俺が今、狙っているのは近江と丹波だ。近江の六角は当主の六角右衛門督義治だ。しかし、筆頭家老の後藤但馬守賢豊と対立関係に入っている。右衛門督は当主だが、実権はない。隠居の父親・六角義賢が実権を握っている。八月に戦があった。六角に臣従していた北近江の浅井氏が反乱を起こしたのだ。六角親子は浅井を討伐しようとした。しかし、浅井の若殿・浅井新九郎賢政は兵を率いて出陣。六角は野戦にて浅井に敗北を喫した。
六角は弱体化した。さらに当主六角右衛門督は美濃斎藤家との婚姻を独断で進め、父親と対立。当主の権限を剥奪されて、軟禁状態にあるという。
がたついているのは丹波も一緒だ。丹波は三好家臣の勇将・内藤備前守宗勝が治めている。しかし、国人衆に反乱の気配があり、情勢は不穏なものとなっていた。近江と丹波、この二つが火薬庫となっている。
「六角ががたついているから、六角に忍びを投入したいところだが、義輝様も今川・北条のことを知りたがっておられる。そこで鈴奈たちを近江に張り付かせるのもなあ。足利家の中で俺が重用されなくなる」
やはり、俺の利用価値は北条・今川の動向を調べることだろう。義輝もそれを望んでいる。今の義輝にとって、三好の力を削ぐことが何より大切だ。それには長尾景虎の北条征伐の成功が欠かせない。
北条の動向といえば、俺、伊勢虎福丸が幕臣の中では一番詳しい。それ故に伊勢の利用価値が上がってくる。
しかし、このままではジリ貧だ。伊勢は滅ぶ。進士美作守が兵を動かしたことでも分かるだろう。伊勢には危機感というものがない。祖父も父も淡々と幕府の仕事をこなしている。三好の天下平定に疑問を抱いていない。
俺が何とかしなければ。
「鈴奈、屋敷が囲まれておるぞっ」
大声を出したのは大木佐兵衛忠光。俺の部屋に駆け込んできた。三十ばかりの忍びだ。背が高く、筋骨隆々としている。旅芸人の一座を率いて、今川・北条を探っていた。今回は鈴奈と一緒に京に帰ってきていた。
「落ち着きな。伊勢の護衛兵たちがいただろう?」
「駄目だ。全員姿を消している。殺されたかもしれん」
大木佐兵衛が落ち着きなく、叫ぶように言った。鈴奈がびくびくっと全身を震わせた。
「そんなことあるわけが」
鈴奈が立ち上がろうとすると、手裏剣が畳の上に刺さった。
「あ、え……キャアアああああああっ」
鈴奈が動転したようにそのまま畳に倒れ込む。大木佐兵衛が刀を抜いて俺の前に立つ。
「今川の忍びか。鈴奈たちをつけて参ったな?」
俺は庭を見た。旅芸人、行商人、遊女、山伏、そんな恰好をした者たちが突っ立っている。人数は二十人ばかり。天井も足音がうるさい。潜んでいるな。百人か。それくらいはいる。
「ヒイィィィッ、虎福丸様ぁっ」
鈴奈が俺にしがみついてきた。怖がって、俺を逃がそうという算段か。忠義者よ。
「何故、鬼の面をつけておる?」
俺は中央の女に聞いた。皆、鬼の面をつけている。女が進み出た。
「私たちは鬼の一族にございます。ずっと今川家を支えて参りました」
「しかし、今川義元公はあえなく桶狭間で戦死された」
「はい。私の父も命を落としました。もう今川にはついていけませぬ」
「今川上総介氏真公がおられるではないか」
「氏真様は父・義元様の器量を受け継いでおられます。しかし、三河の松平元康はそれ以上の器量と思いまする。今川は武田と松平に挟まれ、滅ぶこととなるでしょう。私は一族を滅ぼすわけには参りませぬ。我ら鬼の一門は北条高時様にお仕えし、その後、足利、今川と鞍替えいたしました。この乱世で生き残るには強い殿方につかねばなりません。それ故に伊勢虎福丸様にお仕えしたく」
「なぜ数多くいる大名の中で俺なのだ?」
「二歳にして、その器、尋常に非ず。私が皆を説き伏せました。幕臣の中でも抜きん出た才覚をお持ちでございます。天下を統べる才をお持ちと」
「買いかぶられたものだな。丁度、丹波・近江に物見が欲しかったのだ。伊勢も幕府では疎ましがられている。活路を開かねばならん。協力してくれるか?」
「はっ。我ら鬼の一族、虎福丸様に忠義を尽くしまする」
女が鬼の面を外した。あどけない顔立ちだった。まだ十四か。それくらいだな。
「女、名は?」
「瑞穂と申しまする」
「瑞穂、護衛の兵たちを解放してくれ。もうそなたたちの力はよく分かった」
「はっ」
よく通る声だ。強力な味方を手に入れた。これで領土拡大に動き出せるぞ。