75、甲斐での変事(へんじ)
永禄四年(1561年) 八月 安芸 吉田郡山城 山内直通
評定の間に皆が揃った。皆、顔色が優れん。尼子との戦に和議を結べと公方様が仰せだ。無視はできぬ。しかし、和議を結べばどうなる? 尼子は力をつけ、毛利を滅ぼすのではないか? 公方様は力をつけたとはいえ、兵を動かせるのはせいぜい数千。尼子が大人しくしているとはとても思えぬ。しかし、毛利が公方様に逆らえぬのもまた事実。公方様の御不興を買うことは避けたい。
「父上、この城に三歳の虎福丸殿が来られるとのこと」
大殿の御嫡男・大膳大夫様が口を開く。大殿が大膳大夫様を見る。
「虎福丸殿は公方様の寵臣にして、三好を退けたる功第一と見える。それほどの方がこの吉田郡山城に来られるのだ。もてなさないわけにはいかぬ」
大殿が穏やかに答える。余裕、といったところか。さすがは大殿よ。この危急にも動じておられぬ。
「されど儂の一存でこの大事、決めるわけにもいかぬ。さて、良き思案がある者はその存念、申すが良い」
大殿が皆に呼びかける。毛利は国人たちのまとめ役に過ぎぬ。そう、大殿は思っておられる。それ故に皆、大殿についていく。尼子や大友とはそこが違うのだ。
「このお話、受けるべきと思いまする。公方様たっての和睦なれば、毛利が断る理由がございませぬ」
桂能登守殿が言う。そうじゃ。公方様あってのこの国。公方様に叛けば、すなわち謀反よ。公方様の意に逆らった陶晴賢は国人衆からの信望を失った。足利こそが武家の棟梁。それは誰もが認めるところよ。
「それがしも能登守殿と同じく。この話、受けるべきと思います」
国司飛騨守殿が能登守殿に同調する。重臣である二人が和睦に賛成とは……。大膳大夫様が眉根に皺を寄せる。御不満なのであろう。
「ふむ。婿殿は如何か?」
大殿が宍戸左衛門尉様に問いかける。左衛門尉様が大殿の方を向いた。
「それがしも同じく。公方様の申し出、断るべきではありますまい」
「ふむ。婿殿もか。大膳大夫、そなたはどうじゃ?」
「公方様の命といえど、尼子の力は強大。和議を結んだとて、いつ破られるか」
大膳大夫様の言葉に頷く者が何人かいた。公方様は無視できん。だが、毛利には毛利の事情がある。尼子と大友、双方から挟み撃ちに遭えば、毛利とて苦戦を強いられるのは必至だ。公方様は尼子と大友と和睦せよというが、そう簡単にはいくまい……。
「尼子、大友よりも恐ろしい者がいよう」
「そのような者がいましょうか」
赤川左京亮殿が言った。そうだな。尼子や大友よりも毛利を脅かす敵? そのような者がいようか? 大殿は不思議なことをおっしゃる。
「伊勢虎福丸殿よ。諸大名にも受けがいい。敵に回せば、毛利は四国の河野、因幡の山名も敵に回すことになろう」
重臣たちがどよめいた。あの名将・陶晴賢を打ち破った大殿が警戒する相手が三歳の童なのだ。これが驚かずに入られようか。
「虎福丸殿を敵に回すということは公方様も敵に回るということよ。ここは素直に仲介に応じるしかあるまい」
「しかし、父上」
大膳大夫様が食い下がる。尼子は悪賢い。和睦の後は公方様に取り入ろうとするだろう。越後の上杉もいつまでも京にいるとは限らない。六角は播磨を治めるに手こずっていると聞く。毛利は孤立しかねぬ。
「良いぞ。大膳大夫。じっくり腰を据えて、話そうではないか。虎福丸殿が来るまでまだ時がある」
大殿が穏やかな笑みを浮かべられた。我らを優しく諭されるおつもりだ。大殿らしいわ。これでお家は和睦に向けて傾こうな。戦はしばらくはあるまい……。
永禄四年(1561年) 八月 京 御所 細川藤孝
「兄上、このままではまた世が乱れましょうぞ」
兄がくるりとこちらを向いた。眉根を寄せて、渋い顔をしている。虎福丸殿が安芸に行かれた。
「近江のことか?」
「はい。六角は浅井に攻め込もうとしておりまする」
兄が唸り声を上げた。六角には困ったものだ。義輝様は浅井を味方と思っている。その味方を攻める、という。それで浅井が降伏すれば良いのだがな。浅井も必死だ。
「それだけではありませぬ。浅井は越前朝倉、若狭の武田、美濃の斎藤と手を組み、六角を包囲する構えにござる」
兄が歩き出した。私も後をついていく。六角右衛門督は浅井を何とかしたい。京に上杉がいるのを好機と見て、北近江への出兵を考えている。追い詰められた浅井は朝倉を頼っている。六角と浅井の仲を取り持つのは幕府の役目。ただ右衛門督は私の言うことに耳を貸さぬ。頑固な御仁よ。部屋に入った。部屋では摂津中務少輔殿が待っていた。
「義輝様は明との商いを考えておられる」
中務少輔殿が我ら両名を見る。
「明でございますか。そのようなこと、今の幕府では」
兄が驚いたように言うと、中務少輔殿は首を振った。
「儂は反対だぞ。明は頑なじゃ。商いに応ずることはあるまい」
中務少輔殿が言う。そう、かの大国は幕府を敵視している。東の野蛮な国と思っているのだ。海賊たちがかの国で略奪を働いたことを根に持っている。そのために明の廷臣たちは幕府に対して不信感を持っている。しかし、明との商いが始まれば、幕府は潤う。銭によって、足利家の力も増す。だ、だが。
「それがしも反対です。六角さえ、意のままにならぬのに。明とて馬鹿ではない。こちらの事情は筒抜けになっておりましょう」
兄が呆れたように言った。
「義輝様は焦っておられるのです。上杉殿もいつ帰国されるか分かりませぬし、六角、上杉がいる内に明国と渡りをつけようとされています」
「早すぎよう。毛利も尼子も大友も従うとは限らぬ」
兄が私を見る。私もそう思う。
「儂もそう言った。そうしたら義輝様に虎福丸がおるではないかと言われたわ」
「まさか虎福丸殿を北京へと?」
「そのまさかよ。虎福丸を遣わし、明国と交渉せんとのお考えよ」
兄がごくりと唾を飲んだ。虎福丸殿を明国に……。
「それだけではない。高山、呂栄、安南、天竺とも通貢すべしと仰せられてな。いやはや参ったわ。その四か国にも虎福丸を遣わす、と」
「何と……!」
兄が言葉を失った。私も沈黙する。義輝様は何をお考えなのか……。早すぎる。あまりにも焦り過ぎだ。
「幕府の勢威を取り戻そうとされておる。儂は反対でそなたらも反対であろうがな。伊勢守殿も薩摩に在国であるし、幕臣たちも皆、乗り気よ。困ったことよの」
中務少輔殿が扇で手をポンと叩く。むむ。大変なことになった。虎福丸殿に知らせねば。
永禄四年(1561年) 八月 播磨 姫路城城下町 伊勢虎福丸
「ふむ。美味よな」
「はい。口の中で溢れる餡子がたまりませぬ」
殿下が頷く。
「しかし旅は良い。しかも民のための旅よ。関白として世の安寧に力を尽くせるのじゃ。これ程、嬉しく思うことはない」
俺たちは団子屋に入って、おはぎを食べていた。殿下の従者は四十人ばかり。しかし、平和だわ。ずっとこういう日常が続いてくれるといいんだが……。
「おはぎを食べた後の茶もまた格別よ」
殿下が湯飲みを手に取った。そして口を付ける。
「うむ。快なり。良き心地よ」
殿下がうんうんと頷いている。殿下の気持ちも分かる。このおはぎはうまい。とろけそうだ。
「お食事中、申し訳ございませぬ。甲斐で大事が起こりましてございます」
男が入ってきた。伊勢の忍びだ。といっても行商人の身なりをしている。
「大事か。何事ぞ。武田太郎義信が謀反したか?」
「いえ、重臣飯富兵部、山本勘助らが謀反。信玄公を隠居せしめ、長子・義信公を擁立した、と」
殿下が俺を見る。俺は皿を置いた。湯飲みを口元に運ぶ。政変だ。クーデターだな。義信は上洛している。まさか義信一派が謀反するまい、と信玄派の油断を誘ったのだ。義信の留守中に飯富兵部が動いた。そして一気に信玄を抑え込んだ。信玄が上杉と同盟したことにより、武田家中の不満が膨れ上がった。信玄は野心を見せて、南の今川を攻めようとした。義信はそれに怒ったのだろう。義信の妻は今川の娘だ。必然的に親子が対立する。そして、それが今回、暴発した、と。
「武田の当主が変わったとなると、上杉は」
「京より離れざるを得ませぬ。武田が上杉領に攻め込む構えを見せましょうし」
「武田太郎……余計なことをしてくれたものよ」
殿下が怒っている。せっかく上杉が上洛したのに台無しにされたんだからな。上杉もすぐには帰国しないだろうが、長くは持つまい。畿内はまた乱れる……。三好が動くか。
「殿下、怒っても仕方ありませぬ。ここは安芸での和議を成し遂げ、西国の安寧を成し遂げるのみ。西が落ち着けば、武田も身動きが取れぬはず」
「虎福丸、すまぬな。そうであったわ。麿には大事な仕事があるでおじゃる。心を乱してはならぬ」
殿下が落ち着きを取り戻したようだ。武田で政変が起きた。ということは上杉でも……。




