72、豊後(ぶんご)の鯨(くじら)
永禄四年(1561年) 八月 丹波国 船井郡桐野河内 摩氣神社 近衛前久
「関白殿下、町の賑わい、民の活気、凄いものでおじゃります」
山科さんが声をかけてきた。真よの。他の公家衆も驚いている。虎福丸に誘われて、この地に避暑に参った。にしても人が多い。人の笑い声に満ちている。皆が明るく暮らしている。京の民とは大違いよ。
「虎福丸は政にも才を振るうか。末恐ろしいでおじゃる」
「いえ、頼もしいというべきではおじゃりませぬか。春齢様も虎福丸さんを高く買っているようですし」
持明院さんが麿をたしなめるように言う。頼もしい、か。武家の世に留まらず、宮中までをも統制せんと見えるが、その時は麿も虎福丸の言いなりにはなれぬ。幕臣たちが虎福丸に恐れおののくのもよく分かる。この神童、化け物ではおじゃらぬか。少し背筋が涼しくなる。かつて万人恐怖と恐れられた武家の棟梁・足利義教殿は意のままにならぬと公家衆をも殺したという。武家が威を持てば、公家に牙を剥きかねん。いや、虎福丸に限ってそれはないか……。
「公家衆の皆様、ようこそおいでくださいました。伊勢虎福丸にございまする。この夏は暑うございます。ゆっくりと宿にてお過ごしくださいませ」
虎福丸が出てきて頭を下げる。後ろには見目麗しき女子を二人連れている。巫女か。神々(こうごう)しいの。まるで神の世界から降り立った使いにすら見える。
「出迎え御苦労である。虎福丸殿。道も広く、民が生き生きとしておる。良い政をなされておりまするな」
「関白殿下、お褒め戴き、ありがとうございまする。政を民のために懸命にやってきました。そのことで民が生き生きとしているのなら良かったです」
公家衆が口々に虎福丸を褒める。
「さすが伊勢守殿の孫よ」
「義輝殿がお側に置かれるのであらば、余程の知恵者と思っておったが、の」
虎福丸は笑みを浮かべながら、礼を言う。恐ろしき童子よ。まだ領地も小さいというのに、公家衆の心を奪っている。義輝が頼るのも分かろうというもの。
一しきり話に花を咲かすと公家衆は神社の木々を見て回りはじめた。麿はすかさず、虎福丸に近づく。そして、小声で言う。
「虎福丸殿、公方より密書を預かっておじゃる」
虎福丸がこちらを見て、にこりと微笑んだ。
永禄四年(1561年) 八月 丹波国 船井郡桐野河内 摩氣神社 伊勢虎福丸
「安芸吉田郡山城に向かい、毛利、尼子、大友の和平を成し遂げよとは」
「無理かの?」
「公方様の命ですので、無理と思ってもやらなければなりませぬ」
「公方はこの国を足利の元にまとめたいのよ。それには毛利、尼子、大友が足利に従わねばならぬと考えておじゃる。そして、その任は虎福丸殿が適任じゃとな」
「過分なお言葉でございまする」
おいおい、また厄介ごとか。どうせ九州にまで足を伸ばす羽目になるだろうからな。大友宗麟と会えるのは嬉しいが。でも領内を権之助たちに任せることになる。丹波の奴らは桐野河内に食いついてくるだろう。
殿下から書状を受け取る。そこには義輝の文があった。三者の和平を何とかしてまとめよ、そして上洛させよ、とある。無理を言ってくる。義輝は大内義興の例を持ち出してきた。かつて西国の覇者と言われ、上洛して十年将軍家を支えた英傑だ。大内義興の例を出して、大友らを説き伏せよ、とある。そう単純にはいかんだろう。
「不服かの。義弟たる赤井には麿から伊勢に手出しするなと言っておこう。案ずることはない。すでに天下の趨勢は定まった。従兄弟殿がこの国の政を行う。毛利も大友も大人しく従おう」
「……甲斐武田も揺れておりまする。東国も戦の機運が高まっておりますれば、そう簡単にはいきますまい」
「虎福丸殿は武田で内乱が起きると見ておるのか?」
「はい。武田太郎義信、なかなかの食わせ者でございまする。今川とも手を結んでおる由」
忍びからは武田の内部対立がひどいという報告が届いている。山本勘助が隠居し、信玄の弟・武田典厩信繁が事態の収拾に乗り出しているが、国人衆は信玄派、義信派に分かれて睨み合いとなっている。甲斐は火薬庫で爆発寸前だ。
「ホホホ。武田太郎が謀反するとでも?」
「十分に有り得まする。信玄公は謀にて家を大きくした。不満を持つ国人衆が義信様にくっついているのです」
「愚かな。武田太郎謀反せば上杉弾正少弼殿も越後へ帰らねばならぬ……」
「致し方なき事。武田家が他国の国人衆を力でねじ伏せてきたが故の御家騒動。信玄公の身から出た錆でございましょう」
「冷たいの」
「私も今は自らの領地を豊かにすることに力を注ぐことしかできませぬ。武田もなるようにしかなるとしか言えませぬ。しかし、公方様が私の力を必要としてくださるのであれば、吉田郡山に赴くことにいささかの疑念もございませぬ」
「おお! 引き受けてくれるのでおじゃるか」
「はい、殿下。幕府の為、虎福丸は微力ながら、働きたく思いまする」
俺は平伏した。大友宗麟、毛利元就にも一度会ってみたいしな。甲斐の武田は放っておくしかない。領地は権之助たちに任せよう。桐野河内を失ってもいい。いずれ取り戻すののだからな。それよりも祭りに参加できないのが残念だ。
永禄四年(1561年) 八月 豊後国 八幡浜 吉岡長増
ざっぶーーーんッ、バシャッ、バシャッ。
「ぷはっ、むごおおおっ」
殿が泳いでいる。近習たちが殿に続く。まるで鯨よ。大海を泳ぐ鯨。殿は丹生山の堅城を出て、たびたび泳がれる。女房衆の黄色い声が上がった。殿は三十二歳におなりだ。筋骨逞しい北九州の王。九州で殿に敵う者などいるはずがない。
「フンっ、フンっ」
バシャッ、バシャッ、バシャッ。
だが海の向こうには毛利がいる。大内を滅ぼし、大友に戦を仕掛けんとする謀略の人・毛利元就。なかなか手ごわい。九州に攻め込むという風聞まである。
それならば迎え撃つまでじゃっ。大友の力を存分に見せつけてくれんっ。
ビシャァァッ。殿が陸に上がった。そして、ニイとお笑いになる。悪童よな。三十を越えようと殿は稚気に満ちている。
「越前ッ、公方様よりの書状が参った。読めいッ」
女房から書状を渡される。目を通す。
「関白殿下と伊勢虎福丸が大友・毛利の和議を仲介すると書いてありまする」
「三歳の童が和議の仲介とな。笑いが止まらぬであろう。うわっはっはっはっは」
殿がお笑いになる。儂も笑い声を上げる。随分と大友も舐められたものよ。三歳の童が? できるわけがないッ、無理じゃ、無理じゃ。
「その上、上洛して御所に顔を見せよ、と。フフフ、天下の主は己だと言わんばかりよの」
「そのようなことを。公方様も周りに人なきように見えまする」
「俺には越前がいる。だが、公方様には小才の利いた者しかおらぬのだろうよ。越前、また泳ぐぞ」
「お供致しまする」
「爺、無理致すな」
「何の。まだまだ若い者には負けませぬぞ」
殿がお笑いになった。むう。風が心地よいわ。公方様への返事など決まっておる。戦により、上洛は無理。敵は毛利陸奥守の大軍よ。九州には九州の流儀がある。京の理を押し付けてもらっては困る。




