58、謀将
永禄四年(1561年) 七月 山城国 京 伊勢貞孝の屋敷 伊勢虎福丸
夜も更けてきた。俺は眠らずに文机の前で文を書いている。宛て名は一条兼定宛てだ。殿下たちは帰っていった。嫌がるお春は屋敷の中に残っている。やれやれだ。三好豊前守のところまでついてくるつもりかな?
一条様は長宗我部、安芸など諸侯を従えて上洛する気はありますか? とそれとなく聞いてみる。本気じゃない。豊前守への脅しだ。豊前守は南に畠山。北に上杉、西には一条という敵を抱えている。四面楚歌だ。早く帰りたくてうずうずしているはずだ。
「虎福丸様」
低い声がした。五十鈴か。女中をまとめている侍女だ。年は二十五かその辺りだな。怖くてよくガミガミ怒るらしい。
「何だ? 構わぬ。入って参れ」
五十鈴が襖を開く。五十鈴の後ろに一人女がいる。確か稲乃とか言ったな。年の頃、十七か。最近入った新人だ。武家の娘だとは聞いている。
「三好の忍びが屋敷の周りをうろついています。それだけではありませぬ。それ以外の者も」
五十鈴の正体はくノ一で母上の警護も任せている。普段は口うるさいが、それも演技で周囲に目を光らせていた。俺は頷く。五十鈴が襖を閉める。
「足利か?」
「おそらくは上杉の手の者ではないかと皆、言っております。私もそう思います」
「上杉か」
上杉も一枚岩ではない。とうとう俺は監視するか。政虎も俺が気になるようだが。
「屠りますか」
五十鈴が口の端に笑みを浮かべる。怖いな。これが忍びの本性だろう。
「いや、泳がせておけ。それよりも俺は和泉岸和田に行かねばならん。五十鈴。母上を頼んだぞ。そなたたち侍女に化けたくノ一にこの屋敷は守られている」
「分かっています。ただ」
五十鈴が困ったような表情を浮かべる。隣の稲乃も顔を強張らせた。
「屋敷の中に間者がいるやもしれませぬ。時折見られていると思うことが。奥方様のお命が危ないと思います」
座がシンとなる。間者だと。この屋敷の者はみんな顔見知りだ。少なくとも五年以上仕えている伊勢の者ばかりだ。新参者は稲乃を含めて二、三人。
「三好め、母上の命を狙ってくるか」
憤りを覚える。三好日向守だろう。あいつなら伊勢に間者を放つこともするだろう。まんまと潜り込まれた、というわけだ。
「五十鈴、母上の側にいろ。昼も夜も母上を守るのだ」
「はっ、交代で護衛の者をおきまする。虎福丸様の寝所も厳重に」
「うむ」
ちらりと稲乃を見た。怯えた表情をしている。だが、感じる。時折俺を窺うような目で見ている。そう、五十鈴と話している時だ。怪しいな。そうか、それで五十鈴は稲乃を連れ来たのか。屋敷内部に間者がいる。その一人が稲乃だと俺に伝えるために。五十鈴を見ると、わずかに笑みを浮かべる。正解か。
「取り合えず、泳がせておく。そして機を見て捕える。任せたぞ、五十鈴。俺は岸和田に旅立たねばならぬ」
五十鈴が返事をした。笑みが深くなる。誰が間者か検討はついているんだろう。くノ一は怖い。後で殺さぬように言っておかねばな。尋問してどこの手の者か知りたい。まあ、十中八九三好日向守だろうが。
永禄四年(1561年) 七月 和泉国 岸和田城 評定の間 伊勢虎福丸
岸和田城に来ると、評定の間に通された。今度は家臣の野依二郎左衛門たちを連れてきている。奥に座るのが三好豊前守義賢だろう。兄・長慶に似て、美男子だ。三好というのは美男の家系なんだろう。優しそうな風貌だが、目は笑っていない。謀将だ。
俺が岸和田に来る前にも上杉優位に事は進んでいる。丹波から赤井直正が千の兵を率いて上洛。上杉軍に加わっている。赤井直正は近衛関白の妹の婿だ。それに伴って、丹波に潜伏中の瑞穂たちを京に戻した。母上の警護につける。伊勢屋敷にも兵を入れた。
父上から文が来た。薩摩は気候も温暖でいいところらしい。島津家の次男である島津又四郎忠平と仲良くなって釣りに誘われているそうだ。又四郎忠平、誰かと思うかもしれないが、猛将島津義弘の最初の名前だ。戦国時代好きならワクワクしてくるような名前だな。お春と上臈局はまたついてきている。好奇心旺盛なお姫様だ。また二人で菓子屋に行っている。俺も後で来るように言われている。ホントに旅行気分だな。この後は大和か土佐にでも行きたい。しばらくは膠着状態だろうからな。大和には松永久秀が逃げ込んだ。長慶を裏切ったとの風聞が流れている。三好長慶・義長親子は芥川山城で息を殺している。
「公方様の懐刀たる虎福丸殿が来られるとは。ご用向きは何ですかな?」
豊前守が訊ねてくる。ニコニコしているが、焦っているのだろう。扇を持つ手が微かに震えている。さすがの謀将も気が気ではないようだ。
「公方様よりの使いで参りました。公方様は上杉家と三好家の争いに心を痛めておいでです。豊前守様に兵をお退きくださるようお願いすると仰せられました」
「何と公方様が」
「公方様は上杉、六角にたぶらかされておるのだ!」
「殿、戦いましょうぞ!」
家臣たちから口々に好戦的な意見が出てくる。豊前守がじっと俺を見てくる。こんな状況じゃあ、豊前守も阿波に退き上げることなどできないだろうな。
「公方様は我が兄を四国に追おうというおつもりか」
「はい。そして自ら政を為したいとお考えでございます」
「政か。兄とてゆくゆくは公方様に政を行ってもらいと考えていた。上杉に政ができるとは到底思えぬ」
「細川管領家がおりまする」
「細川など政元公亡きあと、力などあるまい。それ故に三好が畿内を治めてきたのだ」
豊前守が俺を見る。決意は固いようだ。確かにここで退けば、三好は戦わずに逃げたことになりかねない。それでも退かねば包囲網で撃滅されるだけだ。そのことは豊前守も分かっているはずだ。
気持ちが揺らいでいる。もう一押しだな。一条の話を出す。豊前守の尻に火が付いていることを教えてやる。




