55、関白殿下
永禄四年(1561年) 七月 越後春日山城 伊勢虎福丸
春日山城には長尾越前守の部屋が用意されている。長尾越前守政景、上田長尾家の当主で政虎の姉を正室に迎えている上杉の重臣だ。政虎の重臣の一人だが、上杉家中からは警戒されている。
俺は京にいる母上に越前国に逃げるように伝えた。越前には縁戚の光秀がいる。怖いのは三好日向守だ。謀将にして、三好の重鎮。この機に伊勢を攻めようと考えるかもしれん。伊勢一族を亡命させ、力を温存させておくしかない。
明日には春日山を出陣すると決まっている。その前に俺は長尾越前守に呼ばれた。話がしたいらしい。部屋の中に入ると越前守と女がいた。色白の美人である。これが政虎の姉・綾姫か。俺は越前守に挨拶すると、二人に対面した。
「虎福丸殿、来ていただき、ありがとうございまする。それがしが長尾越前守政景にございまする。これは妹の桃にございまする」
「虎福丸殿、お初にお目にかかります。長尾越前守政景の妹で桃と申しまする」
何だ、綾御前じゃないのか。しかし、長尾政景の妹とか、マイナー過ぎて誰も知らないだろうな。俺もよく知らないし。
「妻が虎福丸殿を屋敷にて歓待したいと申しまして。これから我が屋敷にて饗応を行おうと思っております。前関東管領の上杉憲政様、関白殿下も来られまする。虎福丸殿も出席されますかな?」
「嬉しいお誘いありがとうございまする。奥方様に招かれるのならば、是が非にでも行きとうございます」
春齢様も上臈局も喜ぶだろう。それにしても上杉憲政と関白殿下か。やはり、綾御前は上杉家中では力を持っているようだ。政虎が結婚しないから、外戚に力がない。そこで姉の綾姫が力を持つようになったのだろう。政虎は来ないだろうが、人脈を広げるにはもってこいだ。俺が二人を見ると、越前守も桃姫もニコニコと微笑んでいる。俺を取り込みたい、そんなところだろうな。
永禄四年(1561年) 七月 越後春日山城下 長尾政景の屋敷 伊勢虎福丸
大きな屋敷だ。俺と春齢様は出迎えに現れた侍女の後ろについていく。侍女が声をかけて、襖を開けると、長尾越前守と女性がいた。他にも多くの人がいる。二、三十人はいるな。
「まあ、虎福丸様ようこそおいで下さいました」
女が笑みを浮かべる。上品でいて、嫌味がない。政虎の姉である綾姫だろう。やっぱり美人だな。
「お招きいただきありがとうございまする。伊勢虎福丸と申しまする」
俺は頭を下げる。長尾家を実質的に取り仕切っている女人だ。親しくして損はない。
「虎福丸殿、越後名物のお菓子を用意致しました。どうぞ召し上がって下さい。女房衆の方々も、さあ」
侍女たちが膳を運んできた。見るときなこ餅が乗っている。おいしそうだ。いい匂いが漂ってくる。
「おいしいですわ。虎福丸様」
春齢様ことお春が笑みを浮かべた。ふむ。もぐもぐ。むう。絶品だ。蕩けるような甘さが口の中で広がる。母上たちに買って帰りたいな。
「真に。美味でございまする」
俺が言うと、綾姫が袂で口元を押さえて「オホホ」と笑い声を上げる。喜んでもらえたようだ。本当においしかったからな。
「下総より越後に戻って参った甲斐があったというものよ。綾殿の菓子を口にできるとは」
俺は後ろを振り返ると美男子がそこにはいた。気品があるが、武骨さも感じる。この男は公家だと直感で分かる。身のこなしが武家のものではない。
「まあ。関白殿下。世辞がお上手でございますね」
「世辞ではおじゃらぬ。綾殿が菓子屋から買われる菓子は真においしいのでおじゃる。虎福丸殿も春齢様も夢見心地でおじゃろう」
関白殿下。ということは近衛前久公か。上杉謙信、織田信長、島津義久。大名たちの元を流浪した異色の公家だ。藤原摂家の近衛家の当主であり、義輝の従兄弟でもある。今回の上杉上洛の黒幕とも噂される人物だ。近衛公の後ろからぬうっと男が顔を出す。
「殿下、この方が伊勢虎福丸殿ですか」
「そうじゃ。兵部少輔殿と同じく神童と噂されておる御仁よ」
兵部少輔。ということはこの男は上杉憲政だろう。関東管領職を政虎に譲ってはいるものの、キングメーカーとして春日山にいるという話は聞いたことがある。北条氏の上野侵攻で政虎を頼って春日山に亡命してきた人物だ。
四十近いのだろうが、男前だ。時代劇なんかじゃ、無能とされるが、この世界ではどうかな。
「私も三歳で家督を継いだ。皆、私を軽んじたものです。上野の者たちも裏切り申した。しかし、虎福丸殿が春日山に来られれば、上野の国人衆も怯えましょう」
憲政が無念を滲ませながら語る。関白殿下が頷く。
「兵部少輔殿の申される通りよ。虎福丸殿を担いで都まで攻め上る。北条など右往左往して攻めてこぬでおじゃろう」
やれやれ、勝手に俺が義輝の代わりにみたいに担がれているな。迷惑だが、逃げることもできん。
「でも、三好の力は強大でしょう。兵力も五、六万と言われていますし」
綾姫が不安そうに言う。
「然り。多くの血が流れようぞ」
憲政が綾姫に同意するように言う。そうだな。三好も強い。上杉が容易に勝てるとも思えぬ。だが……。
「その顔。三好を打ち負かすことができると考えているのね」
春齢様、いやお春が言うと、皆の視線が俺に集中する。
「はい。三好は十河讃岐守様亡き(な)後、家中が乱れておりまする。和泉は十河熊若丸様幼少で頼りなく。大和も松永義久様に国人衆が従っておりませぬ。六角、畠山、小寺が動けば、三好も苦しくなるでしょう」
「上杉が近江に兵を出せば、六角、畠山、小寺も三好に攻めかかると?」
「はい。三好は周りを敵に囲まれることになりまする。弾正少弼様が三好に勝つことは難しくありませぬ」
綾姫、殿下、憲政が驚いている。俺が負け戦に乗るわけがないだろう。この戦、必ず勝つ。いや、勝たせて見せる。




