54、上洛の決意
永禄四年(1561年) 七月 越後春日山城 伊勢虎福丸
小さな部屋に通された。重臣たちの前では上洛の話ができないからな。上杉も一枚岩ではない。情報が漏れることを恐れて信用できる者たちだけで本音をぶつけ合おう。
部屋に入ると、美人がいた。政虎には妻はいない。ということは政虎の姉・綾御前だろうな。優し気な目で包み込むような抱擁感を感じる。すごく視線を感じるのだが、俺は何かしただろうか?
「虎福丸殿、我が姉と夫の長尾越前守政景にござる」
政虎が言うと、二人が頭を下げた。俺も頭を下げる。政虎が中心に座った。
「お察しの通り、新御所の造営の件でわざわざ越後にまで来たわけではございませぬ」
「やはり上洛にござるか」
「はい。公方様は弾正少弼様が軍勢を率いて上洛をなさることをお望みでございまする」
俺が言うと、皆の顔が強張った。上洛。上杉の上洛の条件は整っている。俺は懐から密書を取り出した。
「伊達左京大夫様からの密書にございまする。弾正少弼様の上洛しやすいように蘆名を抑えるのでご安心を、との内容でございました」
政虎が密書を受け取ると、押し広げる。真剣な表情だ。加賀にいた時に伊達からの密書が届いて驚いたな。伊勢家と仲良くしたいと書いてあった。伊達かあ。政宗はまだ生まれていないはずだ。今は政宗の父・輝宗と祖父・晴宗の代だろう。輝宗は義輝から一字を拝領しているし、晴宗も足利義晴から一字を拝領している。奥州では親足利の筆頭といっていい。蘆名の動きを止めるとしたら、伊達だろう。伊達は晴宗と隠居の稙宗が派手な親子喧嘩をやっている。いわゆる天文の乱ってヤツだ。その乱を仲介したのが義輝で、よく義輝が自慢話に天文の乱の時の話をする。晴宗は義輝に恩を感じてるらしい。密書にそう書かれていた。
「美作守、駿河守、与兵衛、そのほうらも読め。伊達左京大夫は俺の上洛を褒めたたえている。上杉殿の忠孝、抜きん出て候、だと。はっはっはっは」
政虎が本庄美作守に密書を渡す。本庄美作守、宇佐美駿河守、直江与兵衛実綱、長尾越前守政景、そして上杉左京亮景信、政虎の重臣五人。上杉家オールスターだな。まあこの五人なら口が堅いだろう。
「伊達が公方様の命に服するとなりますと、蘆名修理大夫、城に籠りましょうな」
宇佐美駿河守が上機嫌で言う。政虎の軍師だ。政虎が頷いた。
「蘆名も北条も動かぬ。これで兵を動かすことができるというものよ」
政虎が笑みを深くする。
「では御上洛なされますか」
俺が念押しで聞くと、政虎は頷いた。
「軍勢を率い、上洛致しまする。公方様の政をお支えしますぞ」
政虎が力強く言う。上洛か。歴史が変わるな。母上は大丈夫だろうか? 三好が母上を襲いかねん。あの三好日向守であれば、どんな手でも使ってこよう。越前、若狭あたりに避難させておくか? 高揚感はない。どうせ義輝と政虎が京を支配したとしても畿内は落ち着かない。美濃を織田と武田が獲れば、上杉と敵対するかもしれん。同盟など、脆いものだ。義輝は自分の権威が高まっていると勘違いしているが、義輝に従うのは朽木くらいのものだろう。軍事力。それがどこでも物を言う。徳川慶喜みたいに軍事力がなければ、寺にでも籠るしかない。大久保利通や西郷隆盛、板垣退助たちの強みはやはり軍事力を手に入れたことだ。そして彼らは軍事力を使うための資金力も併せ持っていた。それに比べて伊勢や細川に頼っているような義輝は脆弱だ。俺は冷静に捉えている。三好を京から追い出したところで平穏になるわけではない。上杉の家中だって揉めている。それがいつ暴発するか……。
「虎福丸殿もそれがしの上洛にご同行願いたい。公方様の御威光であると諸大名に知らしめたいのでございまする」
政虎が目を細めた。全身が硬くなる。俺を上洛に同行させる? 正気か? ちょっと待て。俺を巻き込むなよ。いや、越後まで来た時点で俺は義輝と政虎の罠にはまったのかもしれん。俺を義輝の代わりとして、朝倉、六角、一色らの兵を集めるのか。母上がますます危なくなる。使者を京に遣わそう。急がねばならん。それと春齢様たちは春日山にいてもらおう。戦になる。上杉と三好の戦だ。壮絶なものとなるだろう。身震いがしてきた。武者震いかな。
「弾正少弼様。私には京に母がいます。一族郎党皆殺しに遭うやもしれませぬ。同行はお引き受け致しますが、母を越前に逃がそうと思いまする。それまで兵を動かすを待ってもらえませぬか」
「承知した。虎福丸殿の御母堂が襲われるのは本意にはござらぬ。上杉の忍びも御母堂をお助け致しまする。フフフ。しかし、楽しい。虎福丸殿と戦場を駆けれられるのでござるからな」
政虎が俺を見る。やれやれ、戦闘狂だな。しかし、戦場に引っ張り出されるとは。腹をくくるしかない。毒を喰らわば、皿まで、だ。




