5、桶狭間
永禄三年(1560年) 六月 京 伊勢貞孝の屋敷 伊勢虎福丸
今川義元が死んだ。桶狭間の戦いで信長に急襲されたのだ。
「呆気ないものだ。東海一の弓取りが」
三淵弾左衛門が厳しい表情になった。隣の細川与一郎藤孝も頷いた。義輝の側近の二人の有名人の兄弟だ。
義輝の代理で来たらしい。桶狭間の戦いの話題で京は持ちきりだ。今川義元が死ぬなんて信じられない。そんな感じだ。
「虎福丸殿、今川は滅ぶのだろうか」
細川与一郎が俺に聞いてきた。ショックだったんだろう。今川ではなく、織田が勝った。受け入れられないのか。
「滅ぶでしょう。今川の主だった家臣も討ち死にしました。井伊、天野、松平といった国人衆は離れるでしょう」
俺が言うと、二人とも顔を見合わせた。
「では織田が台頭すると」
三淵弾左衛門が心配そうに聞いてくる。今川ではなく、織田。もしかしたら義輝は今川に期待していたのかもしれない。三好の力を弱めるために。しかし、その目論見は外れた。
「はい。しかし、織田様も義輝様に忠義立てしておりまする。義輝様の天下が揺らぐことはないかと」
二人の顔色が悪い。どうしたのかな?
「実はな。義輝様の落胆ぶり著しく」
「我らでお慰めしたのだが」
なるほどね。本当に子供で構ってちゃんだな。父上が疲れるのが分かるわ。今川義元が上洛なんかしてみろ。義輝はお飾りにされる。今の三好長慶がいかに義輝を立てて、自分が引っ込んでいるか理解した方がいい。三好は足利に甘いのだ。今川義元の戦死はむしろ義輝にとって、窮地を脱したといえる。
「宮内少輔殿がしきりに虎福丸殿が神童であると義輝様に申し上げてな」
「兄上が言われる通り。義輝様も虎福丸殿の話を聞きたいと」
義輝が俺に会いたがっている? 前に伊勢加賀守様の屋敷で会った宮内少輔が義輝に何か吹き込んだな。全く余計な真似をしてくれる。
二人の顔を見る。嫌だと断れんな。幕臣たちに会いたくはない。頭の良い父上でも疲れるのだ。俺も疲れることは目に見えている。それでも行くしかないか。
「義輝様のお誘いとあらば喜んで」
笑顔を見せてそう言った。嫌な奴の所にも行かなきゃいけない。サラリーマンの辛い所だよ。
永禄三年(1560年) 六月 京 室町第 伊勢虎福丸
将軍義輝が座っている。幕臣がずらりと並ぶ。圧力を感じるな。あまり歓迎はされていないようだ。
「虎福丸、今川治部大輔が死んだ。余は悲しいぞ」
義輝が話しかけてきた。おいおい、そんなこと言っていいのか。三好に通じている幕臣もいるかもしれないんだぞ? 本当にお坊ちゃまだ。いい年をして周りの状況も見えないのか。……諫める幕臣もいない。裸の王様だ。三好にいいように扱われるわけだ。社長も社員も機能不全状態。組織の体をなしていないな。
「真に。今川は尊氏公よりの重臣でございましたのに」
俺はわざと話を逸らした。今川治部大輔が死んで残念だったとは言い辛い。幕臣から三好に漏れたら、伊勢の家はお取潰しだ。俺はお前らと違って慎重なんだ。義輝は笑みを深くする。
「そうよ。今川も赤松も一色も畠山も足利の家人に過ぎぬ。北は陸奥から南は薩摩まで余に従う大名ばかりだ」
「はっ」
表向きはな。でも毛利と尼子の戦いなど、義輝の仲裁を聞かない大名も出てきている。義輝自身私兵も少ない。やはり三好の庇護下にあるといっていい。もうかつての足利の姿はない。義輝は強がっている。それが俺には分かる。
「政や商いに力を出しているようだな。宮内少輔や加賀守が教えてくれた。二歳と少し早いが、父とともに出仕せよ。余の小姓とする」
幕臣たちにどよめきが上がった。俺が寵愛を受けるのが気に入らない連中がいるらしい。伊勢を潰したい幕臣がいるのだ。この席に父上がいない。呼ばれていないのだろう。汚い連中だ。
「その儀は」
「側近くに仕えよ。嫌か?」
義輝がにこやかに笑う。幕臣たちも苦笑いだ。幕臣たちの顔を見ると、引きつった笑いを浮かべている。俺に来てほしくないのがありありと分かるな。せっかく馬鹿をちやほやしてやっているのに俺みたいなのが来ると馬鹿が覚醒してしまうからな。
「いえ、謹んでお受け致しまする」
そう言うしかないわ。こっちはサラリーマンなんだ。命令に従うしかない。領地には遠くから指示を出すことになる。憂鬱だ。この室町第でびくびくしながら過ごさなくてはならんのか。まずは幕臣たちの間で孤立しないこと。まずは三淵弾左衛門あたりに近づこう。弟の細川与一郎とも仲良くしなくてはな。あの兄弟であれば、幕臣たちも文句は言わないだろう。何しろ、義輝のお気に入りの二人だ。




