48、近江騒乱
永禄四年(1561年) 六月 尾張 清州城 織田吉乃
小姓の呼ぶ声に私も殿も飛び起きました。殿が立ち上がります。
「斎藤が近江に兵を出したと申すか」
「はっ」
小姓が返事をしました。
殿は頷くと私の方を見ました。
「吉乃、どうやら今度は虎福丸殿が狙われているようだ」
虎福丸殿。殿の甥御様であり、政所執事の伊勢伊勢守様の孫と聞いています。会ったことはありませぬが、殿は最近、虎福丸殿の話ばかり。婿に迎えたいとおっしゃった時は思わず笑ってしまいましたわ。聡いために神童と呼ばれています。御正室のお濃様の甥御様、でもそんな幼い子を巡って、戦が起こるとは……。
「面白くなってきたわ。美濃攻めの口実ができた。信玄坊主に先を越されてはなるまいて」
「美濃を攻めますか」
「攻める。義龍には国人衆はついていけぬであろう。倅の喜太郎も器量なしと見える。近江に兵を出すなど、たわけたことだ」
「まあ」
「斎藤の家中は乱れている。調略をかけねばな。勝三郎、五郎左、藤吉郎あたりに国人衆を説き伏せるように命じよう。フフフ。忙しくなってきたわ」
「しかし、駿河の今川家が」
「氏真には家臣がついて行かぬ。それにな、武田が今川を喰らうであろう」
「武田と今川は同盟を結んでいるのでございます。そのようなこと有り得ましょうか」
殿が獰猛な笑みを浮かべられます。まあ、怖い。
「信玄は父を追放した男だぞ。長男を斬るくらいのことはしよう」
私は思わず袂で口元を押えます。武田信玄公の長男・武田義信殿は今川家の姫を娶っています。つまり、武田は今川との同盟を切るということも有り得るということ。そんな恐ろしいことが。いえ、今は戦国の世。どのような恐ろしいことでも起こり得るのですね……。
「はっはっは。虎福丸殿よ、でかしたぞ。これで美濃を攻め取り、上洛にも近づけたわ」
殿がお笑いになる。戦になるのでしょうか。斎藤との戦、そう簡単に織田が勝てるとも思えないのですが。
永禄四年(1561年) 六月 近江 須川山砦 安藤守就
「皆、大儀でござった」
俺の言葉に皆が返事をした。小気味いいわ。これも婿殿のおかげよ。軍勢は五千にまで膨れ上がっている。郡上八幡の遠藤も兵を率いてやってきた。兵を出さぬのは稲葉、氏家、不破、それと東美濃の遠山家だ。フフフ。御屋形様が京の伊勢家にいる間、我ら安藤の者が家をまとめる。家中の俺を見る目も変わろうて。いっそ、横山城、小谷城を落としてやろうか。浅井を丸飲みにしてやるのも良いな。それと伊勢虎福丸よ。あの童をこちらに引き込めば。幽閉などしたら、外聞が悪い。奥方様に押し付けよう。喜太郎様の小姓にするのもいいかもしれんな。所詮は童よ。丸め込めばどうとにもなる。兵を出して、三日。織田も武田も動かぬ。六角もだ。六角右衛門督も城から出て来ぬ。婿殿の読みが当たったわ。皆、上杉の動きに目を奪われておる。俺、安藤伊賀守が動くとは夢にも思っていなかったであろうな。稲葉、氏家、不破を出し抜けた。ククク。痛快! 愉快よ! いかん、笑ってはならぬ。頬を引き締めねば。皆の前ぞ。
「織田上総介、清洲から動きませぬな」
長屋信濃守道重がぽつりと言う。遠藤六郎左衛門盛数も信濃守の言葉に頷いている。
「真じゃ。動くかと思ったが動かぬ」
「六郎左衛門殿、織田は動かぬぞ。今川や北畠がそわそわしておるからな。それに家中もまとまりを欠いておる」
「ほう、伊賀守殿。織田家中に乱れがござるか」
「ござりまするぞ。織田上総介は動くに動けぬであろう。その内に小谷を我らの物と致しましょう。奥方様も喜ばれるはず」
国人衆たちが何人も頷いている。婿殿の読み通りよ。まあ、小谷は攻めぬがな。浅井新九郎め。今頃震え上がっていような。
「伊賀守殿、御免」
大声を上げたのは揖斐周防守殿だった。大股でこちらに歩いてくる。そういえば、この場にいなかったな。他の部屋にでもおったのか……。
「伊勢虎福丸殿御一行が来られた。ここにお通して良いかな?」
皆がざわつく。虎福丸が来た、だと。まさか。なぜだ?
「お通して良いのかと聞いておる」
周防守殿が大声を上げる。ええい、通さねば御屋形様の御不興を買うか。虎福丸は御屋形様の甥であるしな。
「伊賀守殿」
周防守がもう一度声を上げた。ええい、忌々(いまいま)しい。だが、致し方ないか。聡くても相手は三歳の童。何を言いに来たのか知らぬがこの伊賀守が説き伏せてくれるわ!




