44、越後へ
永禄四年(1561年) 六月 京 伊勢貞孝の屋敷 伊勢虎福丸
「あの、離して下され……」
俺は背後から春齢様に抱きすくめられていた。伊勢のくノ一がジトッとした目でこちらを見てくる。クソッ、身動きが取れんッ。
「フフフ。お父様の許しをいただいて来たのよ。民に変装すれば、外に出ても良いと」
「柚ッ、春齢様をお離しせよッ」
俺はくノ一に呼びかける。柚が頷くと、春齢の背後に回る。そして両手を引きはがしたッ。今だッ、逃げるぞっ。春齢様が後ろ手をくノ一に抑えられている。
俺はふらつきながら部屋の片隅に移動する。そして腰を降ろす。咳払いが聞こえた。見ると上臈局によく似た女が座っていた。というよりも本人だった。こちらも商家の娘に化けているらしい。それでも独特の気品さは消しようがないな。
「ああ~~~~~ん。もうっ、逃げられちゃったあ。虎福丸君、私が嫌いなの?」
春齢様が悲しそうな表情をする。苦手だな。俺はペットじゃないんだ。女どもはそこから理解して欲しい。
「春齢様、宮中にお戻りくださいませ。このようなところにいてはなりませぬ」
「何で? 伊勢と朽木は親戚に当たるのよ。ということは私の実家である飛鳥井家とも縁戚であるということ。縁戚の者の家を訪って何が悪いのかしら?」
朽木と伊勢が縁戚……そういえば、昔伊勢の女が朽木の家に嫁いだこともあったようだな。行動は破天荒だが、話の筋が通っているので言い返せない。
「それでも主上の娘たる春齢様が伊勢の家に参られるのは周りの憶測を呼びまする」
「周りのことなんかどうでもいいわ。花山院も九条も様子見で動かない。三好も松永もそうでしょう?」
「私は幕府内でも三好でも疎ましく思われています。私の家を訪うことが知られれば、春齢様の御立場が危うくなりまする」
「あら、心配してくれているの?」
春齢がにやつく。自信があるということは自分が朝廷の中で立場が悪くならない確証があるのだろうか。
「いいのよ。三好に気を遣わなくても。私はどうせ他家に嫁ぐ身。三好は私のことなど、気にしてはいないでしょうし」
「そうでしょうか……」
三好日向守たちは俺に神経を尖らせている。そこに春齢女王が来ていると知られたら……。朝廷も伊勢の味方かと焦るだろう。春齢様の母は帝の寵愛深い目々(めめ)典侍だ。まあ、心強い味方だが、越後には連れていけんな。
「とにかく越後行きは諦めてください。春齢様を連れていくことなどできませぬ」
俺がピシリと言うと、春齢様が頬をふくらませた。
「むう。虎福丸君は意地悪ね」
そんな目で恨みがましく睨んでも無駄だ。春齢様を連れていくことで波風が立つ。三好を刺激したくない。
しかし、両腕をくノ一の柚に取り押さえられた春齢様はなんかシュールだな。笑いを誘う。
「私を連れて行ってくれれば、竹若丸の従兄様も虎福丸君に会うと思うわよ」
「竹若丸殿ですか」
「ええ、会いたいでしょう?」
会いたいな。竹若丸は要衝たる朽木谷を抑えている。越後からの物は朽木谷を通って来る。あそこには利がある。……春齢様と組むのも手か。
「会いたいです」
「素直な子は好きよ」
春齢様が妖しい笑みを浮かべる。やれやれ、道中賑やかになりそうだ。
永禄四年(1561年) 六月 近江 朽木谷 朽木城 伊勢虎福丸
「朽木谷領主・朽木竹若丸にございます。虎福丸様、朽木にようこそおいでくださいました」
少年が頭を下げてきた。後ろにいる朽木家臣団も頭を下げる。俺と春齢様は上座にいる。朽木竹若丸、十三歳。義輝の信頼する近江国人領主だ。朽木は木地師の作った特産品が京や近江で売れており、豊かになっていると聞く。六角、浅井などは朽木を狙っているらしい。義輝は朽木の者を側に置き、竹若丸を頼りにしている。朽木谷は俺としても抑えておきたい要衝だ。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。公方様も殊の外、朽木様を頼りにしておられます」
「公方様がそのようにおっしゃられたのですね。ありがたいことでございます。虎福丸様のことも朽木にも公方様の股肱の臣と聞こえておりまする」
竹若丸が笑みを浮かべた。この童。頭が良い。幼い頃は神童と呼ばれていたとも聞く。俺も幕臣たちに竹若丸に似ていると言われた。こんな田舎の国人領主でいるのは勿体ない人物だ。しかも六角、浅井、朝倉。諸国の大名が朽木を喰おうと狙っている。いつ消し飛ぶかも分からない小領主。それでも竹若丸の従兄弟は帝の娘・春齢女王。叔母も帝の寵妃と来ている。諸国の大名も手を出せない血筋の良さだ。朽木と仲良くなると公家衆と近づけるメリットもある。
「ウフフ。義輝殿の頼りとする二人が会えたのよ。これで六角も浅井も手出しができないでしょうね」
春齢様が笑みを浮かべて言う。竹若丸が首を横に振った。
「浅井新九郎は我ら朽木を攻めようとしておりまする。そのために兵を鍛錬しているのですが、浅井は野良田の戦いで六角に勝ち、六角も城に引き籠っておりまする」
浅井か。浅井新九郎は父親を強制的に隠居させ、六角の娘を離縁して送り返した。
そして朽木に攻め込む。有り得ることだ。六角は三好への備えでそれどころではない。朽木を浅井が抑えれば、この街道を伊勢は使わせてもらえなくなるだろうか? 六角と伊勢は仲は悪くない。しかし、浅井と伊勢は疎遠だ。浅井新九郎は六角、朽木を呑み込みたいのだろうな。今のままじゃ、浅井は北近江の小大名で終わってしまう。
しかし、朽木には独立を保って欲しいな。浅井に義輝への忠誠心があるとは限らない。忠誠心があったら、浅井が朽木を狙うことはないだろう。
「浅井には朽木家に手を出さないように釘を刺しておきましょうか」
俺が言うと、竹若丸が目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「はい。浅井新九郎様とは一度会ってみたかったですし」
朽木家の家臣たちも驚いている。越後への旅は急ぐ必要がないしな。それに今回の旅は朽木との関係を作ることが本命だ。
「勿論、伊勢への見返りもいただきたいところでございますが」
俺は竹若丸の顔をちらりと見た。竹若丸は小さく頷いた。




