43、春齢女王(かすよのじょうおう)
永禄四年(1561年) 六月 京 平安京内裏 上臈局
すっかり日も暮れてしまいました。私は身を固くしながら、養父の後をゆっくりと歩きます。所々で火が灯っています。女官たちの顔が照らし出されました。主上のいらっしゃる御殿に近づきました。
「右府様、主上がお待ちでございます」
新内侍殿が消え入りそうな声で告げます。すでに主上の前には目々(めめ)典侍様、春齢女王様、伊予局様がいらっしゃいます。
「主上、義輝殿は関白殿下に帰るように文で促すと答えてくれました」
右府様は御簾の中におられる主上に言います。
「御苦労であった。花山院。そうか。義輝もそのように申したか」
主上が笑みをお見せになられた。このところ、関白殿下の出奔と上杉上洛の噂で宮中の女官たちまで右往左往しているのです。主上も噂について気にされています。ただ上杉に朝廷の使者が出向くことはありません。そんなことをすれば、三好家との仲が悪くなりましょう。京を治めるのは三好。三好修理大夫様は朝廷によく尽くしておられますし。
「近衛も早く帰ってきてくれぬとな」
主上が寂しげに言われる。主上は関白殿下を頼りにされておられます。五摂家筆頭にして、公家のまとめ役たる近衛公。近衛公がいないかわりに養父が代わりにようになっています。そして養女たる私まで主上の期待を受けているのです。近衛公なき今の朝廷を支えるように、と。
「早く帰ってくることはないわ」
主上の言葉に逆らうようにキンキンした高い声が内裏に響きます。春齢女王様。主上と目々典侍様の娘。気が強く、いつも自分の御意見をハッキリと言われる。どうも近江朽木谷の領主・朽木竹若丸と文のやり取りをしているらしく、竹若丸から越前、若狭、越後、越中の様子を聞いているみたいです。目々典侍様が扇で口元を隠されました。扇の向こうでは笑っておられると思います。謀を好まれる目々様らしい……。どうせ竹若丸と目々様が春齢様に色々と吹き込んでいるのでしょう。
「お父様も右府様も見方が甘すぎます。上杉は上洛する、これが京の者たちの味方よ。女官たちも皆、そう言っているし」
ピシャリと春齢様が言われる。場が静まり返る。春齢様は聡い。それ故に皆が一目置いている。その春齢様が言うなら……。主上も皆も口を開こうとしない。
「しかし、春齢様。虎福丸殿の御器量いかに優れていようとも、上杉を上洛させるだけのお力はまだないと思いますが」
私は春齢様の方を向いて言った。
「上臈局、あなたはあの御方を甘く見ています。朽木の従兄様も虎福丸は化け物であると文を送ってきました。あれは麒麟児ではないわ。隙を見せれば取って食う恐ろしい化け物よ。鬼と言ってもいい」
春齢様が目を妖しく輝かせ、うっとりとした表情になる。伊予局様も新内侍様も怯えにも似た表情を見せた。気の弱い新内侍様など、体を小刻みに震わせながら、私の方を見る。どうにかしてくれ、そんな縋るような目つきね。私は春齢様の方を再び見ます。
「公方様は近衛関白殿下に文を送り、帰るように促すとおっしゃっておられました。小田原城攻めの失態で上杉に対する関東の諸侯の見方も厳しいものとなっています。私は東北、関東のことには疎うございます。それでも、北条と蘆名、大宝寺が手を結び、南北から上杉を挟撃すれば、上杉家とてたやすく上洛などできません。上洛のことなど夢の又夢と考えますが」
春齢様が分っていないというように首を振ります。癪に障ります。けれど、相手は女王様。私は自分を抑えつけます。
「私は虎福丸殿の味方です。上臈局、あなたは何もわかっていない。義輝殿の威光は増しています。これは虎福丸殿が義輝公のお側についているからです。そのことを重く見なければならないわ」
「春齢様はことのほか、虎福丸殿をお気に入りでいらっしゃいますからね。ねえ、新内侍」
「は、はい……。春齢様は毎日虎福丸殿のお話を私たちにされていますし」
引きつった顔の伊予局様とオドオドした新内侍様が言う。春齢様が虎福丸びいきだと聞いていたけれど、ここまでとはね。
「いずれにせよ、武家同士に争いにおじゃります。朝廷には関係のないことで」
養父が困ったように言う。主上も何もおっしゃられない。そう、所詮は武家のこと。首を突っ込むのは得策ではない。できるだけ関わらず、様子見していくのが上策。
「右府様、それでは駄目よ。武家に守られるだけの朝廷では民の信望を失うことになりかねないわ」
春齢様がまたピシリと言う。養父が弱り切った表情になった。そして、ちらりと私を見る。はあ、また私なの? うんざりしながら、私は春齢様に申し上げます。
「朝廷と幕府、その関係が密になれば、三好など諸国の大名にいらぬ誤解を受けまする。虎福丸殿に興味を持たれるのは良いですが、それが宮中に波風を立てることをお考え下さい」
「つまらないわ。上臈局、あなたの考えはつまらない」
「春齢様、時には私のような下位の者の言葉も聞き入れて下さると嬉しく思います」
春齢様は不機嫌そうな表情になると、横を向いてしまった。かわいくない娘ね。養父を見ると、ほっとしたような顔をしていました。
「とりあえず、関白殿下の御帰還をお待ちする他おじゃりませぬ」
主上が軽く頷かれた。相変わらず、目々典侍様は扇を口元に当てている。また良からぬことを母娘でお考えなのかしら……。だとしたら、頭の痛い事ね……。
永禄四年(1561年) 六月 伊勢貞孝の屋敷 伊勢虎福丸
「ひどいものじゃな。京などと比べ物にならぬほど、若狭、能登は荒れておるか」
「御意。民は食べる物もなく、越前に逃げているそうにございます。そのことで朝倉も困っているようで」
「民のことも考えず。己のことばかり。能登畠山も若狭武田も不甲斐ないわ」
父上が吐き捨てるように言われた。俺の側には忍びがいる。若い女で瑞穂の縁戚らしい。瑞穂たちには北陸方面を重点的に探らせている。能登と越中、それに若狭が荒れているということだった。能登は国人衆同士の睨み合い。若狭も武田の跡目を巡る争いが続いている。越中は上杉に抵抗する国人衆が騒いでいるようだ。そのことに上杉は気づいているが、兵を動かさない。北条の動きを警戒しているのか。
こうして、若狭と能登から流出した民が越前、加賀に領民が移住していっている。ただ加賀は一向門徒が支配する国だ。皆、あまり移住したがらない。豊かな越前に人が集中する。その中に荒れくれ者たちがいたので、朝倉は困っているという。難民の受け入れも難しいところだ。この民が京に来るのも時間の問題だろう。そうなれば、京も。朝倉が若狭に出兵するという噂が流れている。その隙に加賀の門徒が越前に攻め込むとも噂が流れている。
落ち着いているのは近江の六角だが、これも足元が揺らいでいる。当主六角右衛門督が領民の年貢の率を上げた。民から年貢が高すぎると怨嗟の声が上がっている。慌てた右衛門督は蔵を解放して、困窮する民に米を無償で配ったという。思い付きで政策をぶち上げ、行き詰まると慌てて、火消しに入る。行き当たりばったりで深みがない。民から信に置けぬ領主と思われるだろう。見かねた重臣たちが右衛門督を諫めにいったという。六角も傾いたな。後継者が馬鹿すぎる。嫁に行く御台所の妹が可哀そうだ。
一方の河内畠山だが、こっちも滑稽だ。俺と会った湯川民部少輔が当主の畠山修理亮に叱責を受けたらしい。どうも六角と連携して、京に攻め込むべしと進言したことが怒りを買ったようだ。俺に言われたことを真に受けたんだな。まあ、嘘は言っていないが。
畠山修理亮は兵を動かすのをやめて、三好との和議を模索しているようだ。畠山の娘を三好長慶の長男・三好筑前守義長に嫁がせようとしているらしい。上杉の上洛なしなら三好と戦う利なしと見たんだろう。手の平返しで三好に接近している。馬鹿だなあ、ここは三好を攻める好機だろうが。畠山修理亮高政、もう少し賢いと思ったがな。義輝の意を受けて上杉が北条討伐に動いたことの意味を全く理解していない。義輝の意に叛くことは自分の孤立を招くということだ。三好は簡単に畠山を信用しない。それなら、義輝について、三好と戦ったほうがましだ。上杉の上洛なしでも畠山なら、三好を四国に追放することができるだろう。
戦は機が重要だと俺は思う。畠山は機を逸した。湯川民部少輔の意見通り、和泉を攻めれば良かったのだ。三好に反抗の機会を与えた。これから畠山は義輝にも信用されなくなってくるだろう。そうなると畠山と六角の間も悪くなってくる。
畠山も馬鹿。六角も馬鹿だとすると三好の天下は揺るがない。俺も三好日向守の配下につくしかないかな? あのオッサンが京の実力者だしな。義輝から鞍替えの時期かもしれん。
「三好も三好よ。身内で争っておる。嘆かわしいわ」
そう、三好も一枚岩じゃない。三好日向守と松永弾正少弼の間がうまくいっていない。家臣たちもこの二人の間で右往左往している。長慶といえば、仲裁もせずにのほほんとしている。日向守も長慶には逆らわないだろう。ただし、牙は研いでいるはずだ。いつ暴発するか。
「父上、そろそろ薩摩に赴かれるのでは?」
「うむ。行くぞ。ただな、九州も戦乱が続いているという。公方様がいても世は治まらぬ」
「公方様も世を平穏にしたいという強い思いをお持ちです。それでも世は平穏には遠いかと……」
「それはいつの世も同じことよ。義満公の治世とて南朝方の蜂起があった。人心の乱れはそう易々と治すことはできぬ。十年、二十年かかっても難しいであろう」
父上が厳しい表情になる。父上には俺が義輝から上杉政虎を説き伏せるように言われていることは話していない。知っているのは義輝と細川藤孝他数名だろう。もしかしたら幕臣は細川藤孝以外知らないんじゃないか。それくらいの極秘事項だ。
「だが、京で噂になっている通り、上杉が上洛すれば、十年ほどで天下も落ち着くのではないかと思っておる」
父上が一呼吸置く。
「虎福丸。あまり無理は致すな。上杉も家中が乱れていると聞く。危ないと分かったら、身を引くのだぞ」
「はっ」
父上がわずかに笑んで見せた。弱々しい笑みだ。伊勢は一年前と比べて、遥かに豊かになった。そのせいで幕臣の嫉妬は止まらない。俺たちが留守の間、仕掛けてくるか……。まあいい。屋敷も政所も伊勢忍びの精鋭がガッチリとガードしている。どのような変事にも対処できる。
廊下の方で足音が聞こえた。襖が開かれる。見慣れぬ女がいた。肩で息をしている。新しく雇った侍女か? 報告は受けていないが。
「あ、あの……」
娘が口ごもった。俺と父上を交互に見る。
「稲乃さん、どいてください」
娘の背後から侍女頭の五十鈴が現れた。眉間に皺を寄せている。怖そうな女子だ。実際、厳しく怖いらしい。侍女たちの間で恐れられている。
「兵庫頭様、虎福丸様御客人でございます。虎福丸様を訪ねてこられたと。名はお春とおっしゃられます。京の商人の三女と称されています」
お春? 聞いたことがないな。俺に何の用だ?
俺は父上に断って、部屋を出た。忍びたちがぞろぞろと集まっている。
「虎福丸様、素性の知れぬ者と会うのはやめたほうが……」
「良い。わざわざを俺を訪ねてくるのだ。よっぽどの事情があるのだろう。五十鈴、俺の部屋に御客人をお通しせよ」
「その必要はないわ!」
耳がキーンとなった。女の甲高い声だ。俺は廊下から歩いてくる者たちを見た。細眉に上品な着物を着ている娘がこちらに歩いてくる。背後には男が数人。女も混じっている。年の頃は十三か、十四。幼い顔立ちだが性格の強さが滲み出ている。これはきっとヤバい奴だ……。娘がニッコリと笑うと口を開く。
「ようやく会えましたね。虎福丸殿。私は商家の娘に成りすまして参りました。帝の娘・春齢と申します。このたびの越後行き私も連れて行ってくださいませんこと?」
は? 帝の娘? 俺は思わず口をぽかんと開いた。




