37、嵐の前
永禄四年(1561年) 五月 摂津芥川山城 三好義長
「早馬を飛ばして参りました」
鳥養兵部丞貞長殿が息せき切って父上の私室に現れた。兵部丞殿は京で三好日向守殿の側にいたはずだ。それがなぜ? 私も弾正少弼殿も兵部丞殿を訝しげに見る。
「伊勢虎福丸が石山本願寺を味方につけた由にございまするッ。日向守殿の手の者が教えてくれました」
父上が無表情で兵部丞殿を見る。
そして、目の前に置かれた地図に目を落とした。
「兵部丞殿、慌てることはあるまい。もう修理大夫様は存じておる」
弾正少弼殿がたしなめるように言った。
「何と! ご存知でございましたか」
兵部丞殿が素っ頓狂な声を上げた。兵部丞殿は日向守殿にべったりで虎福丸を疎ましがっている。京で二人で悪だくみかと皆噂している。
「石山本願寺までも上杉と組むのであれば、加賀、越中の一向門徒は上杉を止めませぬ。能登畠山、朝倉、六角、紀伊畠山といった諸大名も上杉につきましょう。小田原城攻めのような十万の大軍に膨れ上がりますぞ」
兵部丞殿が一気にまくし立てる。父上がニヤリと笑った。
「はっはっはっは。兵部丞、三好が窮地に陥ったとでも思ったか」
兵部丞殿が呆然となる。父上は扇の先で地図で越後の右隣を指し示していた。
「山内刑部大輔氏勝、河原田荒次郎盛信、長沼兵庫頭盛秀、蘆名修理大夫盛氏、そして上野の沼田弥七郎康元。彼らには三好からの使者を送ってある。いずれも色よい返事であった。上杉は動けぬ」
父上が冷たい表情になった。蘆名は東北の雄の一人だ。上杉も蘆名達に囲まれたら身動きが取れないだろう。関東の北条も立ち直っている。本願寺が上杉に味方しようにも上杉は動けない。上野には沼田弥七郎がいる。弥七郎は北条からの養子だ。沼田は北条に乗っ取られていると言える。父上は山内、河原田、長沼にかねてから目を付けていた。すでに上杉に包囲網は敷いてある。上杉の上洛はない。小田原攻めに失敗したことで上杉は上洛の機を失った。もしあそこで北条が上杉に降伏していたら三好は手も足も出なかった……。
「すでに手を打っていたのですか……」
兵部丞殿がへなへなと力なく座った。父上も弾正少弼殿も落ち着いたものだ。上杉の上洛など無理だと分かっていた。
だからこそ、落ち着いているのだ。兵部丞殿は自分の読みの浅さを思い知ったことだろう。
「そうだ。それ故にこうしてのんびり皆で茶を飲んでいる。当面の敵は畠山と六角よ。右衛門督は上洛している。畠山と六角の後ろ盾は公方様であろうな」
父上は平然としている。自らがお守りする義輝様が裏で三好包囲網を画策しているというのにだ。父上にとって義輝様の策謀は児戯に等しいということなのだろう。虎福丸は動き回っているが、もしかして三好を守ろうとしているのか?
「虎福丸は蘆名、山内、河原田、長沼、沼田の動きが読めていたのであろうな」
父上の言葉に弾正少弼殿が頷く。三歳の童が奥州の蘆名の動きまで見据えて、動いているというのか。まさか。馬鹿な。
「筑前守、信じられぬか」
私の動揺を見透かしたかのように父上が問いかけてくる。
「は、はい。虎福丸は奥州の諸大名のことまで読めているのでしょうか」
「読めているだろう。蘆名の重臣たちの名前も頭に入っておるかもしれぬぞ。あの者は恐ろしい。武田信玄が説き伏せられるわけよ」
父上はそう言いながらも嬉しそうだった。
「筑前守、そなたは虎福丸の配下となるやもしれぬぞ。いや、筑前守だけではないな。私も弾正少弼も大叔父上も、だ。クックック。アッハッハッハ」
父上が狂ったような笑い声を上げた。弾正少弼殿もつられて笑う。何がおかしいのだ? 虎福丸、あの者は化け物なのか? 肌に粟が生じる。公方様よりも虎福丸の方が余程に怖いわ。
永禄四年(1561年) 五月 石山本願寺 寺内町 宿 水野忠重
「どうだ。藤七郎忠国の姿は」
「まあ御立派やね」
「ほんまにそうやァ」
女たちが嬌声を上げた。心地いい。俺は虎福丸様に連れられて、石山本願寺のある大坂に来ていた。
女が襲われていたので助けた。峰打ちだ。男たちは退散した。女たちが俺に見とれていたので宿に連れてきた。そして刀自慢をしている。刀は京の刀鍛冶に打ってもらった。切れ味を試したくなる。
俺は今、虎福丸様の伊勢家の屋敷に厄介になっている。松平蔵人佐には公家衆、寺社衆、茶人や連歌師と関係を深めるように言われている。松平と朝廷を結び付ける、それが今の役目だ。伊勢は政の中心にいる。政所にいるだけで諸国の武士と顔見知りになれた。
松平も水野も厳しいところだ。今川義元は死んだが、今川は強大だ。今川が西に攻めてくることは十分に有り得る。その時に松平は領地を失わずに済むか。
武田が上杉と同盟を結んだ。武田は北には攻めない。攻めるとしたら、南。今川だ。戦国の世だ。武田なら、同盟相手の今川を攻めるかもしれん。そうなると武田が駿河、遠江を呑み込む。いかんな。手が震えてきたわ。
刀を研ぐ。落ち着くわ。女子たちが興味深そうに覗いている。
「藤十郎殿、帰ったぞ」
声がした。童がいる。伊勢虎福丸。公家の格好をしている。憮然とした顔をしていた。後ろの伊勢の家臣たちが俺を見る。そして、女子たちを見た。露骨に顔をしかめた。俺は嫌われているのか。頭の固い奴らだ。
「フフフ」
虎福丸殿は機嫌が良さそうだ。口の端に笑みを浮かべている。本願寺との交渉がうまくいったか。虎福丸殿についていけば、おいしい思いができる。俺の目に狂いはなかった。この方は幕府を動かす御方となられよう。俺も松平、水野と足利・三好の仲を取り計らおう。虎福丸殿の側にいれば、蔵人佐殿も俺を買うに違いない。




