31、小鳥の棲(す)み処(か)
永禄四年(1561年) 四月 京 伊勢貞孝の屋敷 伊勢紀子
「奥方様」
幸が声をかけてきます。私は文から顔を上げます。体が震えてしまいます。姉上からの文です。虎福丸と会って嬉しかったと。そして怖かったと書かれています。
「どうしたのですか、幸」
恐怖を抑え込み、幸を見ます。幸は十五歳。新しく雇い入れた侍女です。気の弱い子で小さい声で話します。
「御当主様が戻られました」
夫が帰ってきたようです。私は幸に夫を通すように言いました。夫が険しい顔をして部屋に入ってきました。
「はあ。あの者たちと話していると疲れて敵わぬ」
夫は珍しく今日は御所に呼ばれていました。近頃は義輝様は虎福丸様を御重用になり、夫は御所に呼ばれなくなりました。その代わり、夫は領内を見回っています。伊勢は各地から職人を受け入れ、木彫り細工や盆などの品を作っています。
「上杉家の上洛。織田家の上洛。その話ばかりよ。そして自分たちが知行を得ることしか考えておらぬ」
夫が溜め息をつきます。
「三好を倒したとて、幕臣たちが私利私欲に満ちていては民から見放されようぞ」
夫の言葉に私は頷きます。幕臣の方々の評判は日に日に悪くなっていきます。なりふり構わぬ反三好の策動。それに加えて、虎福丸や夫を邪魔者扱いし、幕府内から排斥することに躍起になっています。愚かしい事。虎福丸は怖い子です。それでも民のために働いていることは私にも分かります。その虎福丸を幕府から追い出すなど。
「我らは虎福丸には苦労をかけるな」
「はい」
私は夫の言葉に同意します。虎福丸はこの国を変えてしまった……。武田と上杉の和睦で一気に上杉の上洛の動きが強まりました。京は町人も商人もその話で持ちきりです。相変わらず、三好修理大夫長慶様は摂津芥川山城に籠られています。河内の畠山、近江の六角、それに播磨の小寺が兵を挙げるのではないかと噂されています。三好が追い詰められている。それも私の子によって。
信じられない、と同時に胸騒ぎがします。息子は大丈夫なのかしら。三好に暗殺されたらと思うと。
「情けないが、私も父上も虎福丸にはとてもついていけん。あの子には天賦の才がある。そうとしか思えぬ。俺のような凡夫は虎福丸を見守ることしかできぬ」
夫が床に目を落とします。私たち夫婦は無力です。あの子を見守ることしかできない。
「兵庫頭様、あの子は本当に三歳なのでしょうか?」
「む……それは俺も時々思う。あれは四十やそこらの力を持っている。ただ神童であるとも言えるな。道三殿の血を強く受け継いでいるのであろう。そうとしか思えぬ」
父・道三公。とても強くて怖い御方。そしてどこか寂し気な御方。確かに虎福丸とよく似ている。言われてみれば、虎福丸は父を色濃く受け継いだのかもしれません。
虎福丸の顔が浮かびます。あの子の帰って来る場所を守らなくては。それがあの子の母親である私の務め……。
永禄四年(1561年) 四月 京 御所 伊勢虎福丸
もう三日も屋敷に帰っていない。母上が心配しているだろうか。
「本当に可愛らしいわね」
御台所がうっとりした視線を俺に送ってくる。連日の評定で疲れて柱にもたれて、眠りこけていた。そこを拉致された。このお姫様にな。目が覚めたら、御台所の膝の上だ。驚き過ぎて声が出そうになったわ。
「姉上、この御方が虎福丸殿ですか」
「そうですよ。尊性尼」
尼姿の女が目を輝かせている。ヤバいな。ヤバい姉妹に捕まってしまったようだ。
この姉妹は有名人だ。義輝の正室だが、自己主張が強すぎてうっとしいので遠ざけられているという話を聞いたことがある。
簡単に言うなら御台所は進士美作守に嫌われて、御所では孤立しているのだ。御台所は籠の中の小鳥だと侍女たちが噂していた。可哀そうに思う。これじゃあ、子もできないだろう。それで御台所が頼ったのが妹の尊性尼だ。寂しいので相談相手としてたびたび呼んでいた。尊性尼も暇らしく、姉を頻繁に訪ねている。二人が三好に内通しているなんて噂もある。三好にしてみれば、孤立している御台を取り込みたいだろうな。有り得ることだ。
「さて、聞かせてください。虎福丸。妹の婿となる六角右衛門督はどんな子なの?」
耳元で囁くな。御台の腕を無理やり振りほどいて、距離を取る。
「私を子供扱いしないで下さい」
「オホホホ。虎福丸は童ではないですか。あれ、おかしい」
御台が笑い声を上げる。尊性尼も笑い始めた。やかましい女たちだな。義輝の周りは義輝に似て、トラブルメーカーばっかりだ。俺は正座して座る。まあ、俺も鬼じゃない。いじめられている御台たちの話なら聞く耳を持つ。まあ、進士美作守と敵対している御台たちを取り込めば、あのオッサンも少しは静かになるかもしれん。




