202、離間(りかん)の計
永禄六年 (1563年) 一月上旬 丹波国 園部の屋敷 蜷川貞周
縁側に腰かける。それにしても冷える。外には出たくない。
「桜よ、若の具合はどうじゃ」
桜が庭に膝を着いている。幼い頃より忍びとして厳しく育てられた女だ。誰にでも優しい気立ての良い女でもある。若のお気に入りのくノ一でもあった。
「芳しくありませぬ。すぐに眠くなると仰せで」
「若……そんな……」
いてもたってもいられなくなる。ただ童が熱が出ただけだ。だが虎福丸様は神童だ。そこらの童とは違うのだ。薬師たちに病が移ると遠ざけられた。今は奥方様が側で見守っているという。
「まあ大村城も落ちそうなのだ。伊勢家としてはそれで良しとするか」
園部から四万の兵が出陣し、大村城を攻めている。私は留守居役だ。屋敷の周りは静かになっている。
こういう時は派手に軍を動かす。若が倒れたことが悟られるとまずい。三郎兵衛殿も権之助殿もそう言っていた。
若が目を覚ましてから一日が経とうとしている。若の使っていた忍びたちが園部に忍びの里を作りたいと言ってきた。伊勢忍びと今川忍び。数は千を越えている。どんどん子供も増えてその童たちも忍びだ。恐ろしいわ。若はどこまで先を見通しているのか。やはり恐るべき御方よ。
それだけではない。若は波多野家中の不和も上手に利用している。波多野の南西に酒井という家がある。国人衆にしては大きな家で大名と言ってもいい。関東の武士の末裔で名族だ。若はこの酒井の不満を見抜き、酒井と波多野の間を引き裂こうとしている。波多野は困ったことになるだろう。
立ち上がる。桜がジッとこちらを見る。いつもはニコニコしているが、時々素に戻る。驚くほど冷たい顔をする。若の命ならば平気で人も殺すだろう。恐ろしや。
「若の所に行く」
もう我慢できぬ。機嫌伺いよ。何としても元気になってもらわなければならぬ。
永禄六年 (1563年) 一月上旬 丹波国 園部の屋敷 蜷川貞周
「でね、笑っちゃうでしょ。鬼かと思ったら老婆だったってわけ」
「アハハ。春齢様らしい」
私が行くと女が一人、若と楽しそうに話していた。
「もう、笑い事じゃないってば。本当に怖かったんだからね!」
「良かったですなあ。取って食われなくて。ぷっ、ククク」
若が笑っている。珍しい事よ。こう見ると童に見える。いつもは化け物にしか見えんが。
「早く元気になってね。虎福丸ってば」
うっとりした目になる女。いかん。これは若に惚れているな。そうだな。あれは殿が若かった頃、それはもう女子が放っておかなかった。乗馬に蹴鞠、和歌。何より顔立ちが良い。やはり殿の子なのだ。若は。
「む。どうしたのだ。丹後よ。こほっ。大村城の田中河内守は降伏したか? 降伏したら帝への貢物を届けさせる。決して殺すな。河内守はこの辺りの武士のまとめ役だ。生かして使う。伊勢家にとって役に立つ男よ」
「い、いえまだ。それよりも若。桜が申しておりましたぞ。若は一刻を争う重病であると!」
「ああ、それは嘘だ。重臣であるそなたらにも嘘を言うように桜には言い含めておいた。どうだ。俺は狸だぞ。ポンポコリン!」
「ええい、ふざけている時ではござらぬ! 何故留守居役たるそれがしを謀られまするか!」
「……分からぬか。波多野と酒井の仲たがいを狙っておるのよ。俺が病ならば敵は内に敵を求める。俺は病なのだ。不治の病でな。誰も会えん。明日を知れぬ病弱の若君というわけよ」
「……」
言葉が出てこない。何なのだ、この童は。や、やはり人ではないのではないか。こ、怖い。
「キャー、虎福丸ってば格好いい。よっ、日本一の腹黒童子。ウフフ」
「春齢様、見ていてください。波多野孫四郎などあっという間に滅ぼしてしまいまする」
日本一の腹黒童子……それは褒めているのか。ただとんでもない御方に仕えてしまったものだ。まあおかげで毎日退屈はせぬが。