20、上杉のくノ一
永禄四年(1561年) 三月 甲斐甲府 宿 伊勢虎福丸
「加藤凪にございまする。長尾の軒猿にございまする」
宿に鈴奈が若い娘を連れてきた。信玄を説き伏せた後、宿に帰って来ると、鈴奈が真剣な顔つきで出迎えたのだ。鈴奈に接触してきたのは旅人を装った長尾のくノ一であった。
「主・上杉弾正少弼政虎の命で参りました」
女が頭を下げた。真面目な堅物といった感じだな。現代だと眼鏡をかけていてもおかしくはない。上杉? 長尾景虎が改名したか。史実通りだな。軒猿は上杉の忍びだ。風魔が北条だ。
「伊勢虎福丸である。公家風の衣装であるが、武士だ」
「存じておりまする。政所執事の伊勢伊勢守様のお孫様でございますよね」
「そうだ。凪殿は何用で参られたのか」
凪がニヤリと口の端に笑みを浮かべた。いやらしい笑みだ。この女、真面目そうに見えるが実際は違うのかもしれない。
「三淵弾左衛門様と伊勢虎福丸様に小田原に来ていただきたいのです。主・上杉弾正少弼政虎は特に虎福丸様にお会いしたいと」
「私に、ですか」
「はい。足利家の使者が小田原攻めをしている上杉軍を訪れれば、北条も震え上がるであろうと主は申しておりました。北条を共に倒しましょう」
この女、何を言っているのだ? 俺が同族である北条を追い詰める真似をすると思うのか。鈴奈が青い顔をしている。当たり前だな。これは伊勢への脅迫だ。北条を見捨て、上杉につけという。
三淵弾左衛門は別室にいる。この場にいるのは俺と鈴奈と目の前の女だ。ヤバいお誘いだ。弾左衛門に聞かれなくて良かったわ。俺は北条を潰したくない。でも上杉政虎も頭の良い男だからな。俺を利用しようとしている。
「北条は同族です。追い詰めることはできぬ」
女の目がすっと細くなった。怖いな。本性を現してきたか。
「……では上杉は武田を攻めるかもしれませぬよ」
ゾッとする程、冷たい声だった。こいつ、俺を脅す気だな。上杉が武田と戦になれば、足利と武田の和を結んだ俺の面子が丸潰れだ。幕府内で俺を相手にする者はいなくなるだろう。
俺は逡巡する。この女は上杉でも高い地位の人物から命じられて派遣されてきたのだろう。上杉政虎が本気で武田攻めをすれば、俺は失脚するが、義輝様は上杉に怒る。武田は約束を守るが、上杉は信用ならない、となる。目の前の女が白い歯を見せた。この女、ドSだな。俺をいじめて楽しんでやがる。
「私は本庄美作守実乃様から命じられてきました。美作守様は上杉家の御家老にございます」
「本庄美作守殿か」
「はい。とはいえ、上杉弾正少弼様もこたびのことには武田攻めも辞せぬと仰せられたとか」
俺は女をじっと見る。顔は笑っている。しかし、膝に置かれた手が震えていた。フェイクだな。上杉政虎が武田攻めをすることなど有り得ない。筋を通す男だからな。本庄美作守が勝手に判断して、女に命じたのだろう。悪知恵の働く奴らだ。脅してでも虎福丸を連れてこい、とでも命じたのかな。
まあいい。ここは乗ってやろう。どうせ北条は滅びない。上杉は関東から手を引く。その前に上杉政虎に会っておくのも一興か。
「……凪殿。いいでしょう。私は小田原に参ります。上杉弾正少弼様にはお会いしたいと思っていましたので」
俺が言うと、満足そうに女が何度も頷いた。鈴奈が下を俯いている。
「良き御決断と」
「フフフ。凪殿の申された武田攻めの真偽も確かめとうなりましてな。ま、上杉弾正少弼様が嘘を申されるとは思いませぬが」
「そ、それは……」
女の目が泳いだ。全く分かりやすいな。笑みも消えている。
「何かまずいことでもござったか?」
「い、いえ」
顔が青くなっているぞ。調子に乗ったな。まあ、この女が処断されようと俺には関係がない。上杉弾正少弼の最も嫌うタイプの人間だろうからな。嘘つきは泥棒の始まりだからな。
永禄四年(1561年) 三月 小田原城 付近 上杉政虎の本陣 伊勢虎福丸
寒いわ。上着を着込まないと寒い。急に雪が降ってきた。京に帰ったら、傘を作らせよう。需要がありそうだ。儲かるぞ。
鈴奈が傘を差して、俺を雪から守る。鈴奈は献身的だ。この働きに報いてやらないといけない。
上杉の本陣に入る。弾左衛門が先だ。俺たちも入る。
「ようこそおいでくださった。弾左衛門殿、虎福丸殿」
笑みを浮かべた上杉弾正少弼政虎が言う。弾正少弼は床几に座っている。上杉軍の重臣たちが居並ぶ。重臣たちの顔も紅潮し、興奮している。
「幕府の使者をお迎えできて、光栄にござる。義輝様より関東管領に任じられた重みに気の引き締まる思いでございます」
上杉政虎。髭を少し伸ばしているのが悪そうで女子に受けが良さそうだ。落ち着いたお坊ちゃまという感じだ。この軍議の場で政虎だけが浮いている。本気度が違うな。本気で義輝に義理立てしているのは政虎だけであることがよく分かる。近寄りがたく、哀愁も漂わせている。女子はイチコロだろう。
「義輝様も弾正少弼様のお働き、よく見ておられます。諸国の大名の中でも弾正少弼様の義輝様への忠義立ては抜きん出ております」
「義輝様が……有り難いことです」
政虎が真剣な顔つきになる。政虎の義輝への忠誠心は相当なものだ。そこが武田信玄との違いだろう。上洛を本気で考えていたのは今川義元と上杉政虎くらいだ。
「さて、虎福丸殿」
政虎が明るい声を出した。何だ? 嫌な予感がするぞ。
「武田とも結ぶことができた。これで北条のみに兵を動かすことができる。北条を降すことができる。皆、武田が動くことを気にしていたのです。武田が動かぬなら勝機はある」
政虎がニヤリと笑う。
「虎福丸殿、北条を降す。力を貸してもらえぬか」
ほら来た。嫌な予感がしたんだよな。こいつも俺を利用する気だ。同族である北条を何としても守らねば。




