19、信玄の決断
永禄四年(1561年) 三月 甲斐躑躅ヶ崎館 伊勢虎福丸
「北条新九郎氏政様は四代前北条早雲公の頃より民を大切にされています。北条は善政を敷いていると思っております」
俺が淀みなく言うと、信玄が頷いた。
「うむ。弾左衛門殿。儂も虎福丸殿と同じよ。北条早雲公も元はといえば、足利の家臣。しかし、上杉よりも北条の方が民のことを考えていると思うが」
「……」
「義輝様が長尾をおだてるのは儂は反対じゃ。武田の領地を侵す長尾にどう妥協せよというのか」
信玄が再び渋面になった。
「北条はなるほど元は足利の家人でございます。しかし、初代早雲からして、足利茶々丸様を討ち、足利の家人ことごとく討ち滅ぼし、さらには関東管領までも追っているわけです。義輝様は北条が謀反人であると思っております」
弾左衛門が冷静に反論する。さすがに足利きっての頭脳派だ。まあ言葉足らずで信玄を激昂させたのもこいつだが。
「そう思われるのは良い。何度も言うが新九郎氏政殿は我が婿。婿を見捨てる義父がいようか」
「義輝様は長尾と武田が手を取り合うことを望んでいます。それが無理なら、長尾の上洛を見逃して下され」
「弾左衛門殿、くどいぞ。義輝様は儂の置かれた立場が分かっておられん! 北条当主の正室は我が娘ぞ! 愛しい娘を見捨ててはおけぬ。武田の面子に関わる」
信玄が大音声でがなり立てた。迫力が違う。しかし、弾左衛門も表情を変えない。
「御館様」
低い声がした。末席の男が発言したのだ。隻眼の眼帯の老将・山本勘助だろう。いわずと知れた武田の軍師だ。
「恐れながら申し上げまする。ここは一旦休息を取るべきと存じます。皆様、お疲れでございましょうし」
場が沈黙に包まれた。
「そうだな。勘助の申す通りよ。ひとまず休息を挟む」
信玄の言葉に重臣たちの表情が和らいだ。一触即発の雰囲気だったからな。勘助の一言で重臣たちもほっとしたのだろう。
「勘助、足利家の御使者を儂の部屋に案内せよ」
「御意」
そして、秘密交渉開始というわけか。信玄と勘助。この二人を相手にするとなると胸が高鳴るな。
永禄四年(1561年) 三月 甲斐躑躅ヶ崎館 伊勢虎福丸
信玄と勘助が並んで座っている。それに対して、俺と弾左衛門が向かい合っていた。部屋には五人の人間がいる。
「まあ、可愛らしい」
口元を袖で隠して雅な笑い声を上げているのが三条の御方だ。年の頃は四十くらいだろうか。三条家の姫君であり、信玄の長女・梅姫の母親でもある。
俺は書状を差し出した。
「正親町三条元内府様より信玄様への書状でございます」
信玄が書状を受け取る。そして書状に目を通した。
「ふむ。元内府も義輝様の御意向に従った方が良いとおっしゃるか」
信玄が勘助に書状を手渡す。
「正親町のおじ様は何と?」
三条の御方が信玄に尋ねる。信玄は三条の御方の方を向いた。
「義輝様が長尾弾正少弼を関東管領に任命すると。長尾弾正少弼は義輝様の代理と考えよ、と」
「まあ」
三条の御方が驚きの声を上げた。勘助は湯飲みを手に取ると茶を啜る。
「む。武田も正親町元内府からここまで言われてはの」
信玄は腕を組んで天井を見上げた。
「正親町三条様を説き伏せたのは虎福丸殿の手腕にござる。虎福丸殿は正親町家の家人として参られた」
三淵弾左衛門が言う。ややこしいが三条の御方の三条家は断絶しており、三条家の分家である正親町三条家は存続している。三条の方の父親は大内義隆が陶晴賢に討たれた大寧寺の変で殺されていた。
「正親町三条家は余程、虎福丸殿を信用なさっているのでしょう」
三条の御方が言う。信玄は目を瞑っている。
「虎福丸殿。長尾弾正少弼が足利に忠義立てすることに我が家は異存ないのでござる。されど長尾弾正少弼は関東のほとんどを味方につけ、越中の神保家も片付けた。そして畿内にまで進軍すれば、その勢威は三好を凌ぎましょう。そうなると長尾は武田を食ってしまいかねません」
勘助が鋭い目でこちらを見てくる。
「北信濃の国人衆も長尾を頼っております。長尾と和すれば、村上や小笠原といった国人衆が騒ぎましょう。長尾は上洛後、武田を攻めるのではありませぬか」
「そのようなことはございませぬ。信義に悖る真似をすれば、義輝様も長尾弾正少弼様を許すことはないでしょう。それに信濃守護は小笠原ではなく、武田家にございまする。信玄公を信濃守護に任じたのは義輝様。それを反故にすれば、義輝様の威光は地に堕ちたと言えましょう」
「義輝様にそれほどの力がありますか。義満公程の力があるとは思えませぬ」
勘助が俺をじっと見ながら言った。そうなんだよな。義輝は将軍だが、全国の大名は各々勝手に動いている。
「義満公程の力はありませぬ。それでも長尾弾正少弼様が義輝様に逆らえば、関東の将たちも長尾様を裏切ります。義輝様には力がない。それでも義輝様の威光があってこそ、諸将は長尾様に従っているのではなく、義輝様に従っているのですから」
「……よく分かり申した。しかし北条が」
「北条は持ちこたえると思います。小田原城は堅城にございますから。ただ長尾は十万の軍勢で兵糧もございますまい。長尾軍は軍勢を退くしかなくなると思います」
勘助が深く頷いた。
「実はそれがしも長尾との同盟すべきと考えておりました。長尾と戦えば、武田も無傷では済みませぬ。義元公亡き今、今川との同盟も役に立つとは思えませぬ」
「山本様」
「しかし、三好も足利家も動かずと見ていたところ、長尾と武田がぶつかるのも必定とあきらめておりました。それが三淵弾左衛門殿と伊勢虎福丸殿がお越しになられたことで武田も動きやすくなりました」
勘助は信玄の方を見る。
「御館様、ここは義輝様の御意向に沿いましょうぞ。義輝様が幕政を執るのに邪魔と感じているのなら長尾家に三好家を滅ぼしてもらい、足利家の力を取り戻すことが肝要と思いまする」
「勘助の進言、受け入れようぞ」
信玄がかっと目を見開いた。そこに迷いはないように思える。
「武田は義輝様の御意向に沿う。義輝様が良き政をしたいのであれば、長尾に力を貸そう。長尾の上洛の邪魔をせぬ」
信玄が言った。武田が折れた。これで長尾が上洛しやすくなった。三好も苦しいことになるだろう。
「勘助、評定に戻るぞ。皆には儂から話す」
「御意」
信玄が立ち上がる。勘助も立ち上がった。三条の御方はニコニコと微笑んでいた。足利にとっては力強い味方だ。さて、あとは北条だな。うまく生き残ってくれるといいが。




