18、甲斐の虎
永禄四年(1561年) 三月 小田原城近くの上杉軍本陣 本庄実乃
本陣に御館様が入ってきた。皆が立ち上がる。
「美作守、義輝公の御使者は甲斐に入ったか」
御館様が私に尋ねられた。
「はい。今日中には躑躅ヶ崎館に着く頃合いでございましょう」
配下の軒猿からは足利軍の動きが逐一伝えられている。やはり伊勢虎福丸が中心となって動いているようだ。
「伊勢虎福丸か。北条と武田の間に楔を打ち込むとは。フフフ。役に立つ三歳の童子よ」
御館様が悪い顔をなされた。足利の動きは長尾を上洛させやすく為だろう。伊勢虎福丸たちはお忍びのつもりだろうが、長尾は虎福丸の動きを掴んでいる。
「北条新九郎氏政をますます殺せなくなってきた。正室である梅姫と共に領地を与えねばならぬな」
御館様が上機嫌で言う。北条一族は歯向かわない限り処刑はしない。父親の左京大夫氏康もだ。北条家当主の妻・梅姫は武田信玄の娘だ。長尾は武田と敵対せぬ。そのために北条一族を処断してはならない。
「しかし、北信濃の国人領主はいかがなされましょうや」
「彼らにも義輝様の御意向を説こう。天下国家のため、領地などという小さなこだわりは捨ててくれよう」
御館様は義輝様のため、本気になっておられる。上洛戦。すでに越中の神保右衛門尉長職は討伐してある。次は能登、加賀、越前と攻略していく。二、三年はかかるかもしれん。それでも必ず上洛を成し遂げる。
「虎福丸か。どのような童であろうか」
御館様が呟かれた。ここ数日虎福丸のことを気にしている。
「美作」
「はっ」
「虎福丸殿と会いたい。話をつけられるか」
諸将がざわめいた。虎福丸と会う……。虎福丸は北条の一族だ。ということは北条の処遇も決まるということだ。虎福丸か。軒猿を使って伊勢の忍びと接触しよう。
永禄四年(1561年) 三月 甲斐躑躅ヶ崎館 伊勢虎福丸
「足利家の使い、三淵弾左衛門藤英にございます」
弾左衛門に従って、俺も頭を下げた。武田の重臣たちが居並んでいる。奥の方に坊主頭がいる。武田信玄入道だろう。無愛想だが、威厳がある。甲斐の田舎から信濃を併呑し、武田の武威を示した大物だ。出家しても家臣団は信玄のカリスマ性についてくる。緊張感漲る場に皆の顔も硬い。
「弾左衛門殿、遠路大儀でござった。義輝公はご壮健でありましょうか」
信玄が口を開いた。低いがよく通る声だ。しかし、相変わらずの仏頂面だな。
「はい。朽木谷より京に帰ることができて、毎日政務に励んでおりまする。信玄殿にもぜひ上洛して欲しいと」
「それはようござった。しかし、上洛ですか。武田は美濃の斎藤、越後の長尾と対立しておりまする。さらに長尾は北信濃の国人領主たちを征服せんと南下の機会を窺っております。さらに我が娘・梅も北条新九郎氏政殿に嫁いでおり、長尾弾正少弼は我が物顔で関東を荒らし回っておりまする。これでは上洛はできかねまする。私が甲斐を留守にすれば、長尾が甲斐・信濃を蹂躙しましょう。義輝様のお役に立ちたいのは山々でございますが長尾弾正少弼と武田は争っておりまする」
信玄は不機嫌だな。当然だろう。長尾に力を与えているのは義輝だ。その義輝が武田に使者を送ってきた。嫌がらせかと思うのもおかしくない。
「義輝様には他意はございませぬ。出雲の尼子と安芸の毛利との和睦を仲介しておりまする。それと同じように信玄殿と長尾弾正少弼殿との仲も良くしたいとお考えです」
信玄の眉間の皺が寄っている。とても受け入れがたい。そんな感じだ。武田と長尾は険悪だからな。
「そこを何とか。足利家のために歩み寄ってはもらえませぬか」
弾左衛門の言葉に武田の重臣たちは信玄を見る。
「それは足利家の要求といっても、受け入れることはできませぬ。長尾は武田を滅ぼすつもりにござる。現に婿殿を攻めております。婿殿の正室は私の娘ですぞ」
信玄のドスの利いた声が響いた。怒っているな。当然だろう。長尾の下につけと言われているようなものだ。
「北条は関東管領の上杉兵部少輔憲政様を追い出したのでござる。これは足利に盾突く謀反人にございますぞ。兵部少輔殿を匿った長尾弾正少弼殿は義輝様の御意向に忠実に沿っているのでございます」
おいおい、弾左衛門。温厚な口ぶりだが、まるで武田が悪いみたいな言い方だな。その上から目線じゃ、相手は交渉に応じないぞ。
「義輝様は武田に滅べと仰せになるか!」
信玄が立ち上がった。憮然とした表情だ。拳を固く握りしめている。
「信玄殿、落ち着かれよ。義輝様に盾突く北条新九郎氏政は世を乱しておるとは思われぬのか」
「思いませぬな。そもそも関東の民は上杉兵部少輔にかわる強い武を求めていたのであろう。善政を行っていた北条新九郎殿に何の落ち度があろうか。関東の民は北条の領地支配に不満に思っておらぬ。むしろ、民に北条は歓迎されている」
信玄は言葉を切った。そして、俺を見る。そして顔を綻ばせた。ヤバいな。これはヤバい奴だ。信玄は稚児趣味でもあるんだろう。やめてくれ。俺はおいしくないぞ。
「伊勢伊勢守殿の孫である虎福丸殿もそのように思われよう?」
信玄が俺から視線を外そうとしない。重臣たちが俺を見る。いずれも真剣な顔つきだ。信玄の奴、最初から俺に話を振るつもりだったな。狸親父だ。俺は口を開く。武田を説き伏せる。そして、俺の力を幕臣たちに認めさせるのだ。




