17、甲斐へ
永禄四年(1561年) 三月 駿河掛川城 宿 伊勢虎福丸
「今川も動くに動けぬと見えますな」
三淵弾左衛門藤英が言う。細川藤孝の兄といったほうが通りがいいかな。幕府の使者五十人ほどが藤英に従っている。その中には北条の家臣である伊勢与七郎貞運も混じっていた。小田原城に籠る家族が心配なのだという。俺の役目は武田を足利の味方に取り込むこと。史実で起きる第四次川中島の戦いが避けられれば、長尾景虎は一気に上洛戦に向かうことになる。そのために近衛前久が景虎の所にいるのだ。
伊勢忍びや風魔忍びが宿の周辺を警護している。
俺は藤英とともに床に置かれた地図に見入る。小田原城を十万の長尾軍が包囲している。蟻の這い入る隙もないほど厳重というわけではない。宇都宮や太田といった北関東の武将たちの陣は警備が甘い。そこから伊勢忍びが城内に入っている。やはり長尾は評判が悪い。北関東の武将たちは上杉兵部少輔憲政のほうが良かったとまで言っているそうだ。長尾景虎、のちの上杉謙信。軍神と称された戦上手の謙信だが、決して家臣団の統制がうまいわけではない。重臣の柿崎景家を謀殺したり、死後にお家騒動が起こったりと謙信は人望がある方ではない。ましてや外様の武将たちに信望がないのは明らかだ。長尾景虎の俺様体質に北関東の武将たちはウンザリといったところだろう。ナルシストの相手は大変だもんな。同情するわ。
「三河の松平が足を引っ張っていますか」
「そのようですな。今川も松平がいなければ、小田原へ出陣していたやもしれませぬ」
松平元康は着々と今川方の武将を味方につけている。今川氏真は駿府館から動けず、蹴鞠をしているという。蹴鞠は公家の遊びだ。今川の後継者は阿呆との噂が流れていた。氏真の妻の父は北条氏康だ。妻の父を見殺しにすれば、氏真の求心力は落ちるだろう。しかし、今川単独で動いても勝ち目はない。氏真は現実から目を逸らし、蹴鞠に興じている。そんなところか。
「まあ今川としては厳しいところでしょうな。桶狭間で当主をはじめ、重臣もことごとく討ち死に。さらに西には織田・松平の同盟がある。東に長尾の大軍。気が気ではありますまい」
三淵弾左衛門が険しい顔になった。今川も元はといえば、足利の家臣だ。足利のシンパが窮地ということで心中複雑かもしれない。今川はこのままならどうせ滅ぶだろう。問題は武田だ。交渉に応じるかもよくわからない。
「虎福丸殿、やはり武田は更級郡、埴科郡を守りたいのでしょう。武田は北信濃を狙う長尾とはぶつからざるを得ない」
弾左衛門が懸念を口にする。北信濃を巡って、長尾と武田が争っている。北信濃の国人たちは長尾を頼って落ち延びている者もいる。武田にとっては手放したくない利権だ。しかし、もっとおいしい餌を用意してやらないといけない。駿河と遠江。弱体化した今川を目の前にぶら下げてやる。怒るのは今川氏真の妹を妻にしている長男・武田義信だ。武田への今川への敵意を剥き出しにすれば、武田義信が父・信玄に逆らうだろう。親子関係の破綻。うまくすれば、四男の勝頼が継ぐ。三条の血を引く武田義信を使い捨てるには惜しいが、このままだと足利義輝が三好三人衆に暗殺されてしまうからな。三好の力を弱めるためには長尾の力を増す必要性がある。三好が弱くなれば、伊勢の台頭する機会を得られる。
「武田も一度手に入れた北信濃を手放すことはないでしょう。甲斐は山ばかり。農地のある信濃は武田にとって欠かせぬ領地です」
俺が言うと、弾左衛門が頷く。明日には甲斐に旅立つ。武田の軍勢は本拠地・躑躅ヶ崎館に集結しているという。情勢は緊迫している。史実通り、武田が北信濃に兵を動かしたら川中島の戦いになる。その前に止めて見せる。
永禄四年(1561年) 三月 甲斐躑躅ヶ崎館 武田信玄
「婿殿を助けねばなるまい」
目の前の隻眼の男が頷いた。山本勘助、我が軍師よ。
「北条は籠城で一、二年持つと言っておりますが、無理でございましょう」
勘助が首を振る。長尾弾正少弼景虎、鬼神のごとき進軍よ。相模小田原城まで南下するとは。まあ婿殿も簡単に降伏はするまいが。
「弾正少弼の兵糧が持つまい」
「長尾がいくら豊かとて、半年も持ちますまい。ただ小田原城が落城すれば話が変わってきまする」
「持たぬか」
「我らと今川が援軍に駆け付ければ、あるいは」
「無理であろう。今川上総介氏真。政に興味を示さぬというではないか。今も館に閉じ籠って動かぬ」
勘助が険しい表情になる。今川の倅は阿呆のようだ。織田と松平に舐められている。北条の窮地にも動こうとせぬ。今川には使者を送ってあるが、返事は予想できる。今は動けぬ、そんなところだ。今川は役に立たぬ。駿河も遠江も武田の物としてしまおう。阿呆よりも武田が治めた方が良い。
「それと幕府でございますが」
「我が家に来るか。邪険にはできぬ。さりとて、長尾の肩を持つこともできぬ」
幕府から使者が送られてくる。掛川あたりにいるはずだ。くノ一たちから使者の動きは聞いている。使者の副使には三歳の童子が選ばれている。足利にも人がいないのやもしれぬ。
「義輝公はやはり長尾の肩を持てと言ってくるでしょうな」
「だろうな。困ったことよ。しかしな、勘助。相手は三歳の童と聞く。我ら武田も舐められたものだ」
勘助は動じない。童子のことを知っていたのか。
「御館様、あまり甘く見ない方がよろしゅうございます」
「童子にか」
「童子に見えて、童子ではございません。あれは鬼でございます」
「鬼?」
「鬼子だと、それがしは思いまする。義輝公の殊の外、お気に入りであると、京から漏れ伝わってきます」
むう。勘助が言うならば、簡単にはあしらえぬということか? まあ、良い。武田は武田の生きる道がある。足利のことも程々にしか聞けぬ。足利にかつての力はもうあるまい。
 




