15、変身
永禄四年(1561年) 三月 伊勢貞孝邸 伊勢虎福丸
「瑞穂か」
「いえ、歩き巫女の鈴奈にございまする」
俺は母上に抱かれて眠っていた。鈴奈には駿河・遠江を探らせてある。帰ってくるように命じた覚えはないが、無断で帰って来るというのはよほどの大事なのだろう。
俺は布団から這い出ると、母上が寝息を立てていた。このままお休みいただこう。母上には刺激が強すぎる話かもしれん。
「伊勢又七郎様が相模小田原城から参られました」
鈴奈が低い声音で言った。鈴奈は普段アニメ声なんだが、地声は低いんだな。又七郎。北条に仕えている大伯父の息子だ。北条は伊勢と同族だが、爺様の兄が北条に仕えている。義輝の父・義晴の時代に北条に使者として行き、そのまま北条に仕えたと聞いている。明らかに足利が北条に送り込んだ足利と北条の連絡役だ。長尾軍は十万とも十一万とも聞いている。
「伊勢守様、兵庫頭様も起きていらっしゃいます」
鈴奈に抱き抱えられながら廊下から外を見た。義輝から武田との交渉を任されて屋敷に帰って寝ていたらこれだ。俺は日本一忙しい三歳児かもしれないな。外は真っ暗だ。午前三時くらいか。
若い男の姿が見えた。お爺様と父上もいる。
「虎福丸、又七郎殿が火急の用件じゃと」
爺様が口を開く。
俺は又七郎を見た。又七郎は険しい表情をしている。
「歩き巫女と風魔衆に守られて参った。虎福丸殿、何とか義輝様に取り次いでもらえぬか。北条を滅ぼしてはならぬ。北条左京大夫様は足利家に敵対するつもりはない」
伊勢又七郎貞運が俺に向き直る。北条か。史実では北条は籠城戦を耐え抜ぬいて長尾を越後に追い返す。俺が力を貸すまでもないが。
「虎福丸、兄、つまりそなたにとっては大伯父じゃが、伊勢一族も小田原籠城を強いられておる。儂としては北条を、伊勢を見捨てるわけにはいかぬ」
お爺様がゆっくりと言う。父上も俺を見た。
「私も北条を滅ぼすわけには参りませぬ。義輝様には北条一族の助命嘆願を頼んでみます。それに関東を飲み込めば、長尾の力が強くなりすぎまする」
俺はお爺様たちを見回す。
「考えてもみて下さい。長尾弾正少弼には前関白・近衛前久様が一緒におられます。前久様の伯母は義輝様のお母上。義輝様のため、長尾弾正少弼が関東を平らげんとしているのは明らか」
「そうじゃ。それ故に北関東の諸将も長尾に従っておる」
又七郎が興奮気味に言った。
「しかし、私は長尾の北条攻めはうまくいかぬと見ます」
「このままでは攻め滅ぼされるだけだ。妻も小田原城に置いてきた。妻や子たちが助かるのならいいが、虎福丸殿には勝算があるのか?」
「ございまする。長尾弾正少弼の人となりでございますが、戦上手ではございますが、北関東の諸将の盟主とはなり得ますまい」
「長尾弾正少弼がしくじると?」
「はい。北条は嵐が過ぎるまで小田原に籠ればよろしい」
又七郎が信じられぬように俺を見てくる。
「そもそも総大将が長尾弾正少弼というのがおかしゅうございます。関東管領である上杉兵部少輔憲政様がご健在でございましょう。出しゃばりな長尾弾正少弼を快く思わぬ北関東の将と長尾弾正少弼はぶつかりまする」
「確かに上杉憲政ではなく、長尾弾正少弼が総大将。十万といえども、烏合の衆というわけか?」
又七郎が落ち着いたようだ。俺を静かに見る。
「御意。それと武田と今川が攻めてくると相模に噂を流しまする」
「武田と今川は動かぬであろう」
「北関東の将たちが動揺すれば良いのです。武田や今川は動かない。そう長尾から言われているでしょうから。武田・今川が動くと五、六万の兵にはなりましょう。その噂で北条討伐軍は揺れ動きましょう」
「なるほど。疑心暗鬼を誘うのですな?」
「はい。長尾も北条を攻めあぐねること必定」
北条には滅んでもらっちゃ困るからな。いろいろ裏工作をさせてもらう。何といっても大伯父の家族も小田原籠城をしている。義輝には悪いが、伊勢の家のためだ。長尾には関東から手を引いてもらう。
永禄四年(1561年) 三月 京 御所 摂津晴門
義輝様と虎福丸との密談から二日が経った。関東では長尾弾正少弼が北条左京大夫氏康の小田原城を囲んでいる。長尾軍の志気は高い。
「中務少輔殿、武田と結ばれるとは、うまくいくのでしょうか」
慶寿院様が顔を曇らせた。義輝様のお母上だ。足利と武田の仲を深める。そのために虎福丸が使者として選ばれた。長尾と武田の仲は険悪だ。長尾は武田の同盟相手である北条を攻めている。それを童の虎福丸が解決する? 有り得ぬ。いや、あの童ならあるいは。正式な使者として三淵弾左衛門藤英が任命された。虎福丸はあくまで付き添いだ。それでも武田との交渉は虎福丸の担当となるだろう。武田信玄をどうやって説き伏せる? 足利の言うことも聞かぬあの男を。
「うまくいくことを願うしかありませぬ。虎福丸は常人の者ではありませぬ故。それがしも美作守殿もその才気に目を瞠らんばかりにございまする」
世辞ではない。本音だ。倅の糸千代丸にも虎福丸の半分ほどの才気があって欲しいものよ。
「そうですか。中務少輔殿が言うのならば、余程の人物なのでしょう。武家にしておくには勿体ない」
慶寿院様が溜め息をつかれた。お美しい。昔からそのお美しさは変わっておられぬ。まるで絵の中から抜け出てこられたような。
「慶寿院様、父上。虎福丸殿が」
糸千代丸が乱暴に襖を開けて、入ってきた。ええい、粗忽者めが。慶寿院様が驚かれるであろうが。また、後で叱らねば。
「虎福丸がなぜ慶寿院様のお部屋に?」
「義輝様が虎福丸殿を案内なされたためです。慶寿院様に虎福丸殿を紹介したいと」
足音がする。慌てて、糸千代丸が脇にどいて、頭を下げた。
「母上、虎福丸を連れてきましたぞ」
義輝様が明るい声で言われた。全く子供のような天真爛漫な御方だ。
「慶寿院様、お初にお目にかかります。伊勢虎福丸にございます」
「なッ」
「まあ、凛々しい」
思わず変な声が出そうになったわ。慶寿院様は穏やかに笑みを浮かべている。虎福丸は烏帽子を身に着け、手には笏を持っておる。これではまるで公家ではないか!
私は虎福丸を見る。虎福丸の口角はニタァと意地悪く吊り上がっていた。




