146、長江の戦い
永禄五年(1562年) 一月中旬 三河国 長江 野依貞政
「さて、武田は追って来ませぬなぁ」
松平家重臣の酒井左衛門尉殿が笑う。肝の太い御仁だ。息を吐く。気を張る。武田は大軍だ。気を抜けぬ。
「若の策通りに動いておりますな」
「はっはっは。そうですなあ。真、恐ろしい御方だ。あれで元服されてはどうなることやら」
酒井左衛門尉が机の上に置かれた地図を見る。
「武田太郎義信、父・信玄と比べて武名がありませぬ。暗愚とは思いませぬがまだ若い」
私の言葉に左衛門尉殿が頷いた。
「御注進! 湯谷城にまで武田軍が押し寄せておりまする!」
倅の玄蕃が膝を着いて大声を張り上げる。
「ここは本多肥後守殿を押し出すべきです」
左衛門尉殿が進言する。本多肥後殿か。槍の使い手だ。先鋒にもふさわしい。
若に言われた通り、臼子まで退きのく。それまでに一つ勝っておかねば。
「二陣は榊原孫十郎の部隊を押し出しまする」
「分かった。それでいきましょう」
使番が駆けだす。いよいよ戦が始まる。勝てると良い。いや、勝たねばならぬのだ。
永禄五年(1562年) 一月中旬 三河国 岡崎城 伊勢虎福丸
「玄蕃、よう来た」
野依玄蕃がにこりとする。三十を越えたばかりか。それくらいのはずだ。
「申し上げまする。松平勢、武田勢の先鋒を蹴散らしました」
座がどよめく。松平家臣たちが驚いて俺を見る。
「全軍は引き上げておらんだろう。まだ正念場は続きそうだな」
「御意」
玄蕃が神妙な顔になっている。武田軍の大軍は奥平館を中心に展開している。緊迫した情勢だ。
追い出すにはもう一戦するしかない。そのための策もある。
「幸先が良いな。武田は焦っておろうな」
「それはもう。今川・北条ものろのろとしていますし」
「はっはっは。今川・北条は武田太郎を信じておらぬのだろう。何しろ、父を裏切ったのだ。自分たちも裏切られるやもしれぬと思っておるのだ」
武田太郎義信は父親を隠居させた。そのことの反発もあるはずだ。家臣団も容易に従わないだろう。そこにきて、今川・北条も動かずと来ている。武田太郎は焦っているはずだ。その隙を突く。
「織田の伯父が援軍に来ると忍び衆には触れ回らせている」
「これはまたしても武田は焦りましょうな」
織田信長の出陣はない。信長は美濃への警戒で手一杯だ。稲葉山城では稲葉一鉄たちが一色喜太郎に織田攻めをしろと提言しているようだ。信長は動くに動けない。
ここは俺が決着をつけるしかない。家臣の野依二郎右衛門にすべて任せている。
二郎右衛門ならうまくやってくれるはずだ。頼んだ、二郎右衛門。用兵の巧みなそなたならできるはずだ。




