145、三河大乱の始まり
永禄五年(1562年) 一月中旬 三河国 奥平館 伊勢虎福丸
「これが名倉川の鮎でござるか。美味ですなあ」
目の前の男が感嘆の声を発する。村井吉兵衛貞勝。織田家臣で信長の吏僚だ。信長の内政面における指導者だな。
「はい。真に美味でございまする。塩味がいかんともし難い」
俺は口の中で鮎を味わう。良い昼飯だ。時刻は十二時。
「そろそろ戦も終わったでしょうか」
吉兵衛が不安そうだ。松平・織田連合軍は四万の兵を展開し、北の清水城、中当城に在城している。一方の敵である武田義信は三万五千の兵で武節城にいる。
俺が武節城に出張ったら、案の定、武田義信は動いた。甲斐より大軍を発し、信濃から三河に雪崩れ込んできた。秋山信友は美濃に攻め入ったままだ。大胆な戦略だ。俺は武節を見捨てて、奥平館に撤退した。
今川・北条も大軍を率いて、三河に向かっている。俺も追い詰められたものだ。敵の総数は膨れ上がっている。だが、俺の手には秘策がある。
「まだでしょう。これからが勝負時でござるな。まあ、大船に乗ったつもりでいてくだされ。必勝の策はありまする」
吉兵衛が目を見開いた。俺をまじまじと見る。そんなに驚くなよ。俺にとって武田義信は雑魚だ。要注意なのは今川氏真だろう。老獪な男だ。手加減できん。
「皆、頼んだぞ」
独り言を言うと、俺は立ち上がる。輿を呼んだ。
永禄五年(1562年) 一月中旬 三河国 奥平館 諏訪四郎
「他愛なし、伊勢虎福丸」
虎福丸は初陣だと聞いている。だが、弱かった。松平も織田も逃げ去った。岡崎城に籠るつもりだろう。
「童子を殺すことは胸が痛む。俺は極楽浄土には行けまいな。はっ」
馬を走らせる。気持ちが良い。勝ち戦だ。あの大軍を破った。兄上に言われた通り、虎福丸を討つしかない。
「はっ、はっ、はぅ……ふぅ。輿ぞーーーーーっ、あれなるは虎福丸の輿に相違なしっ」
息を整えながら、村を駆けまわる。派手な輿があった。虎の絵が書かれている。間違いない。虎福丸の輿だ。
逃げ遅れたのだ。所詮は童子に過ぎん。輿を担いでいた従者たちが刀を捨てて、平伏する。
「ひぃ」
百姓の女が尻餅をついていた。周りは百姓の家ばかりが建っている。
「手を出すな。俺が斬る」
「殿が童を斬ることはなし。この源五郎が斬りまする」
真田源五郎が名乗り出た。小才の利く男だ。だが、生意気でもある。
「源五郎、俺が斬る。下がっておれ」
「殿っ、なりませぬぞ」
源五郎を無視する。刀を大きく振りかぶった。手ごたえがあった。刀が動かない。固い。
「おのれ、あの童子め、たばかりおってっ」
腰の中に人を模した大きな木があった。それが刀に突き刺さっている。
『武田太郎殿、御苦労に候』
木には文字がある。罠だったのか。その場に座り込む。
「おのれ、虎福丸。我らを物笑いに致すか」
力が抜ける。童子の笑い声が聞こえてくる。小癪なり、虎福丸ぅっ。この諏訪四郎を舐めておるのか。糞っ、やられたわいっ。




