144、信長の軍師
永禄五年(1562年) 一月中旬 三河国 岡崎城 大広間 伊勢虎福丸
「武節城の菅沼小法師、こちらに内通の由」
横川又四郎が言う。信濃と三河の境の領主、菅沼小法師は今川家についている。それがこちらに寝返るというのだ。
「罠じゃ」
吐き捨てるように言ったのは水野藤九郎信近、刈谷城主で水野家きっての猛将にして惣領でもある。居並ぶ者たちも何人か頷いていた。
「左様。菅沼小法師など、表裏比興の者よ。虎福丸殿、菅沼を信じてはならぬ」
津川玄蕃允義長も険しい顔をしている。織田軍の武将たちは俺の顔を窺っている。何だ、そんなに俺が何を言うか、気になるのか。大広間には織田軍の武将たちが顔を揃えている。緊張感が漲っている。
「罠は百も承知。飛び込んでみるのも一興ではないでしょうか」
「馬鹿な。武田の手に乗るのか」
今度は飯尾近江守定宗だ。白髭を生やしている定宗は織田家でも長老格の人物だ。
「乗りまする。武節まで出向いて武田方を打ち破ります」
どよめきが起きた。ここは打って出るしかない。もたもたしていると今川・北条がこちらに攻めてくる。苦肉の策だが、仕方がない。
「無謀なり」
すっくと立ちあがったのは中年の男だった。俺を睨んでいるのか。目つきは鋭い。
「はて、どなたでござるかな」
「武藤宗左衛門と申す。殿の軍師にございまする」
武藤か。聞いたことがある。伯母の文でも良く出てくる男だ。信長も頼っているという軍略の鬼才。男がまっすぐに俺を見てくる。何という迫力だよ。
「いっそのこと武節など見捨ててしまいましょう。この岡崎にて敵を引き寄せるのです」
岡崎で迎え撃つのか。何だか史実での三方ヶ原の戦いになりそうだな。武田は兵法に強い。
「岡崎城を囲ませまする。そして隙を突き、武田の本陣に斬り込めば大勝利間違いなしかと」
「それは……」
宗左衛門が笑む。危険が大きい。武田は今川・北条と組んでいる。これに家中の石川日向守、松平与一郎たちが今川方に寝返って加われば、岡崎城は大軍に囲まれる。とても城外に打って出ることができない。
「できませぬな。やはり武節に向かうのが正道でござろう」
「む。我が策に穴があると申されるか」
宗左衛門が気色ばむ。ええい、拗ねるな。面倒くさい男だな。
「あるとは申しませぬ。ただここは虎福丸が総大将にござる。この戦、勝ちたい。勝つためには最善の策を取りまする」
「岡崎で戦えば負けることはない。聡い虎福丸殿が分らぬか」
「まあまあ、宗左衛門殿、それくらいにしておくのじゃ」
佐久間右衛門尉がなだめるように声を上げた。武藤宗左衛門が不満そうに座り込む。やれやれ、これで方針は固まった。武田を打ち払う。武節城で武田を討つ。
永禄五年(1562年) 一月中旬 三河国 岡崎城 城下町 宿 大木佐兵衛
部屋に入ると若がいた。それともう一人、見たことのない男だ。
「おお、佐兵衛。久しぶりだな。元気にしておったか?」
若がニコニコしながら座を用意してくれた。しかし、真に四歳なのか。未だに不思議に思うわ。
「これなる御方は武藤宗左衛門殿と申してな。小牧山の伯父上の軍師殿だ」
「商人の大木佐兵衛と申しまする。三河・遠江・駿河で手広く商いをしておりまする」
本当は若の忍びだがな。俺も店を増やして偉くなったものだ。
「武藤宗左衛門舜秀でござる。軍師とはこそばゆい。数ある家臣の一人に過ぎませぬ」
男は顔を綻ばせる。ただ目だけはジッとこちらを見ている。怖いな。この手の男は油断ならん。
「佐兵衛よ。どうなのだ。武節城辺りは」
「兵は人っ子一人おらぬそうで。ま、のどかなものでございますよ」
答えると若も宗左衛門殿も笑みを深くした。何だ? この背筋が寒くなるような笑みは。若は大きくなられた。もう四歳なのだ。だが、この得体の知れない感じは。待て。これは童ではない。妖の類ではあるまいか。
「ならば良し。兵を武節に向かわせる。勝ちは見えた」
若には勝つ秘策があるのか。なぜだ? 武節には敵はいない。武節城に行っても無駄足だ。
「俺も輿に乗っていく。俺を守るのだ。佐兵衛よ」
思わず返事をした。若が声を上げて笑った。この童、尋常の才に非ず。虎よ。獰猛な虎が若の中にいるのだ




