14、義輝の夢
永禄四年(1561年) 三月 京 御所 伊勢虎福丸
「虎福丸よ、そなたには悪いが、余は長尾弾正少弼を待ちかねている」
上機嫌な義輝が言った。場には進士美作守、三淵弾左衛門、摂津中務少輔が同席していた。
俺は南宗寺からそのまま、御所に直行している。もちろん、塩は撒いていた。もう日が暮れてしまっているが。
今日は十河讃岐守の通夜だ。三好家の者たちは眠れないだろう。それに比べて、義輝は明るい。義輝が喜んでいるのにはわけがある。越後の長尾弾正少弼が本気を出した。上野国を制圧すると南下し、たちまち北関東を征服。北条の本拠である小田原城を目指して進軍しているのだ。
南総の里見氏を攻めていた北条氏康は里見攻めを中断。小田原籠城を決断したようだ。それもこれも義輝が教えてくれたことだ。
「母上にも前久殿のからの文が届いた。文には関東制圧間近とあったわ。真に尊氏公のような破竹の勢いよ」
義輝の母親は近衛家の人間だ。越後に下向している近衛前久の伯母に当たる。義輝は母親を通して、関東の情報を得ている。俺は伊勢の人間だから、北条氏康は同族であり、身内だ。できれば滅んでほしくはない。だがなあ、義輝は関東管領の上杉家を関東から叩き出した北条を憎んでいる。それを正義感の強い長尾景虎が義輝と近衛前久の意を受けて、動いている。伊勢の一族である俺としては心中複雑だったりするんだが。
「十河讃岐守も死んだ。和泉は荒れるであろう。畠山尾張守が和泉に攻め込む。三好は終わるのだ」
「公方様を畠山尾張守殿、六角承禎入道殿、長尾弾正少弼景虎殿を補佐する。三好に代わる新しき世が生まれまするな」
摂津中務少輔が言うと、義輝が嬉しそうな表情を見せた。能天気な連中だな。北条が滅ぶとでも思っているのか。甲斐の武田がいるのに、武田の存在を考慮に入れていない。それに関東の連中も一枚岩じゃない。宇都宮、佐野、佐竹、成田、太田といった一癖も二癖もある連中が長尾の下についている。連中がこのまま大人しくいくことはないだろう。しかも長尾弾正少弼は調整型のリーダーとは言い難い。直情径行で純粋な男だ。華はあるが、調整のような地味な仕事は苦手だろう。
「甲斐・信濃を治める武田がおりまする。武田が長尾の上洛戦に突っかかってくることは有り得ます」
俺が言うと、義輝の顔から笑顔が消えた。
「虎福丸殿、同族たる北条をかばうのは分かるが、武田ごとき長尾弾正少弼殿の敵にはなるまい」
進士美作守が俺を牽制するように言う。まだ俺を敵視しているのか、このオッサンは。懲りない男だ。
「武田信玄入道は戦上手にございます。さらに今川、北条と三国同盟を結んでおり、北条の窮状に武田が黙っているとは思えませぬ」
「伊勢殿は武田が公方様の意に逆らうと?」
摂津中務少輔が笑みを浮かべたまま聞いてくる。目は笑っていないな。こいつも苦手だ。何を考えているのかわからん。
「はい。長尾の背後には近衛様が。そして、武田信玄入道の正室は三条家の出身。正親町三条元内大臣が背後についておりまする。関白を辞して、越後に行かれた近衛前久様の評判は芳しくありませぬ。代わりに正親町三条元内大臣の意を受けた武田が長尾の邪魔をする、と」
「武田の背後に三条だと」
摂津中務少輔が上ずった声を出した。やれやれ、その程度の分析もできないのかよ。幕府の重鎮が聞いて呆れる。道理で三好長慶にいいように操られるわけだ。京の公家たちの派閥闘争がそのまま長尾と武田の争いになっている。信玄は京とのコネに自分の妻を使っている。その信玄にとって、三条と仲の悪い近衛とくっついている長尾は天敵といっていい。長尾の北条討伐はかなり武田を刺激している。
「虎福丸よ、ということは北条を滅ぼしても、武田が動くと見るのか?」
義輝が緊張した面持ちになっている。事の重大さが今になって分かったようだ。武田信玄。義輝の夢を打ち砕くのは甲斐の虎以外にいないだろう。
義輝も馬鹿じゃない。ただなあ、周りにいる連中が小物過ぎる。摂津中務少輔や進士美作守も黙っている。こいつらは武田が長尾の上洛戦の足を引っ張ることすら予測していなかった。武田は信玄を中心に結束も堅く、戦にも強い。それが長尾景虎のド派手な北条討伐に目を奪われ、武田を意識から取り除いていた。大局が見れない。義輝の側近がこれじゃあな。暗殺されるわけだわ。
俺は義輝を見た。
「御意にございまする。武田は総力を上げて、長尾の進路を邪魔するでしょう。武田にとっては長尾の上洛を食い止めることが第一の目的となることでしょう」
「馬鹿な! 長尾と武田の和睦を四年前に仲介したのは余であるぞ! 武田は何故足利に敵対するかッ」
かっと目を見開いた義輝は思わず立ち上がった。扇を固く握りしめている。そう、四年前、対立する武田と長尾を和睦させたのは義輝だ。おまけに武田は信濃守護職を義輝からもらっている。
「足元を見られているのでございます。あの時、公方様は武田の要求を呑まれた。これで武田は足利の言うことに従わなくて済むと思ったのでございましょう。そして、足利に武田を従わせる力はなくなったと」
義輝は口元を結んだ。悔しいんだろう。四年前の義輝は京から近江の朽木谷に逃れていた。だから、武田は足利に無理を言った。信濃守護職をくれれば、長尾と和睦してやってもいい、と。表面上は義輝が両家の和睦を取りまとめたが、足利と武田の仲に亀裂が生じた。義輝は母が近衛氏の出身。武田は三条家とガッチリ組んでいる。信玄の長男・太郎義信も三条氏の生んだ男子だ。近衛対三条。宮中の争いを長尾と武田が代理戦争している。
「虎福丸殿、言葉が過ぎようぞ。足利に力がないとは」
憤慨した進士美作守が噛みついてきた。進歩のない男だ。
「事実ではございませぬか。三好の庇護下に置かれ、足利の力など三代義満公、四代義持公の時ほどの力もなく。公家衆にも見放され、山口や駿河に公家衆が下向する始末。諸大名が求めるは守護職などの役職のみ。足利の力が落ちていないなどど言い切れましょうや」
「虎福丸ッ」
美作守が俺を睨みつけてくる。俺は美作守を無視して、義輝を見る。
「虎福丸は長尾に期待するな、そう申したいのだろう? 分かっておる。余とて分かっておるのだ」
義輝が座に腰を降ろした。
「武田のことも見ぬようにしていた。武田には信濃守護職をやった。その恩を感じて、長尾を見逃してくれると。余は自分に都合の良いことばかり考えていたやもしれぬ」
「その考えは甘うございます」
「フフフ。虎福丸よ。きついことを言うのう。そなたは我が母と同じよ。母上も浮かれている余を冷ややかに見ておる。だがな、余は民を救いたい。いや武家も公家も等しくな。坊主もだ。義満公のように安寧の世を再び作りたいのだ。人買いもなく、民の笑顔溢れる国を」
義輝が苦い顔になる。
「近衛前久殿も長尾弾正少弼も畠山尾張守高政も余と考えを同じくしてくれていると信じている。だからこそ、北条征伐がうまくいけば良いと願っていたが。見通しが甘かったようだ」
義輝は穏やかな顔になっていた。
「虎福丸よ。余は武田と結ぶ。協力してくれるか?」
俺は義輝を見た。義輝が白い歯を見せる。
「長尾弾正少弼には必ず上洛してもらわねばならぬ」
あれれ、話の方向がずれていないか? 進士美作守も摂津中務少輔も俺に期待を込めて見るなよ。三歳の童に何をしろというんだ?




