1、生き残る道
永禄三年(1560年) 一月 京 伊勢貞孝の屋敷 伊勢紀子
「母上、このままでは伊勢家は滅びまする」
「……」
地図を眺めていた息子が不意に私に話しかけてきました。
「な、何を言っているのです。虎福丸。お義父様も兵庫頭様も公方様のご信任が厚いのですから。伊勢の家が滅ぶなどと。そのようなことは有り得ません」
私は虎福丸に言い聞かせます。義父である伊勢伊勢守貞孝も夫である伊勢兵庫頭貞良も幕府の重臣として、京で重きをなしています。
さらに三好家は畿内を制し、八ヵ国を治める大大名です。近江の六角、河内の畠山と敵はいますが、三好家に勝てる大名などいるはずもございません。
「母上。敵が近江の六角とだけ考えておられるのであれば、それは間違いでございます。敵はここにおりまする」
虎福丸がパチンッと扇で地図を指し示します。
「京?」
「幕臣の方々はお爺様と父上の権勢を良く思っておりませぬ。漏れ聞こえてくるところによりますれば、伊勢一族の専横、許すべからずと公方様に讒言申し上げる方もいるそうでございます。お爺様も政所執事の職にあって二十五年。幕臣たちはお爺様の政所執事の職を狙っている者もいるのでしょう」
「まさか。そのような」
私は虎福丸の顔を見ました。伊勢が滅ぶ? そんなことが。では夫は。義父は。そして虎福丸も私も殺されてしまう……。
「母上、落ち着いてくださいませ。この虎福丸に万事お任せ下さりませ」
「あなたに何ができるのですか?」
私は虎福丸をジッと見つめます。虎福丸がニイと笑いました。
「同じことをお爺様に申し上げます。そして伊勢の家を守りまする」
断固とした口調。亡き父・斎藤道三を思い出します。蝮の娘として嫁いだ私は伊勢の家を守らなければなりません。
永禄三年(1560年) 一月 京 伊勢貞孝邸 伊勢貞孝
政所から帰ると、嫁が駆け寄ってきた。
「お義父様、虎福丸が」
「どうしたのだ。具合でも悪いのか」
荒い息をしておる。嫁は美濃の斎藤道三殿の六女だ。父親譲りの賢い娘で儂はこの嫁を気に入っている。
「ここでは申せませぬ」
嫁が声を潜めて言った。虎福丸は我が孫。二歳になる。大事な伊勢の跡取りだ。しばらくしたら、公方様のお側に仕えさせようと思っている。
家臣たちにも話せぬか。よほどの大事よの。家臣たちを下がらせ、屋敷の儂の部屋に入った。嫁が虎福丸を連れてくる。目がまっすぐに儂を見ておる。祖父・道三殿の気質を受け継いだのかな。末頼もしいわ。
「お爺様。進士美作守が三好筑前守と意を通じ、義輝様にお爺様のことを讒言しておりまする」
「儂を、じゃと。なぜ虎福丸がそのことを知っておる?」
「はっ、伊勢加賀守様のお屋敷に行った折、幕臣たちがお爺様の悪口を言っていたのを盗み聞きしたのでございます。政所執事の職にありながら、河内の畠山、近江の六角と連携を取らぬと」
伊勢加賀守貞助、同じ伊勢一族で有職故実に詳しいことから、義輝様に召し出され、幕府に出仕しておる。加賀守は虎福丸を気に入っておったな。そうか。加賀守の屋敷で聞いたか。
儂は先代将軍義晴公をお支えし、義晴公から義輝様を頼まれたのじゃ。三好筑前守長慶の権勢を抑えて欲しいと。諸国の大名を足利に従わせ、もめ事を解決するのが政所の役目。その儂が気に入らぬか。幕臣どもめ、儂を追い払いたいばかりに三好筑前守と通じるとは。情けなや。
「儂を追い詰めるのが奴らの狙いか」
「御意。お爺様をいじめて挙兵させ、伊勢の家を滅ぼすのが狙いでございます」
「むう。美作守め。三好に利用されているのに気づかぬか」
進士美作守は義輝様の寵臣である。なぜなら、娘が義輝様の側室となっておる。御正室とは子ができず、側室ばかり寵愛している。それによって、側室の父親・美作守の権勢が振るっておる。美作守にすれば、次は政所執事の地位を狙っているというところだろう。
「美作守にそれ程の器量はありますまい。義輝様のご側室への御寵愛を自分への寵愛と勘違いしているのでしょう。そのことによって有頂天になっていると」
進士美作守。儂が邪魔か。それ程に儂を幕府から取り除きたいか。
「お爺様」
虎福丸が儂を見つめてくる。良き孫を持った。斎藤道三殿の血か。冷徹で明晰。二歳でこれほどに世の中を見渡せるとは。
「虎福丸。そなたはこれまで通り、加賀守の屋敷に遊びに行くのだ。そして、諜報に励むのじゃ」
「はい。お爺様」
虎福丸が素直に頷いた。二歳の子供じゃ。加賀守たちも怪しむまい。三好もついに儂に牙を剥いたか。先代義晴公から託された足利の家を守らねばならぬ。義輝様ではちと心配じゃ。倅を出仕させて、様子を見るか。